キリンHD の歴史

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創業 1907年
創業者 トーマス・グラバー
創業地 神奈川県横浜市
創業
1907年2月、三菱・明治屋・日本郵船に連なる人々が麒麟麦酒株式会社を設立し、横浜の外資系醸造所ジャパン・ブルーワリーの事業一切を引き継いだ。明治21年発売の『キリンビール』の商標、ドイツ人技師の醸造技術、明治屋の販路をまとめて承継したもので、外国資本の会社を日本資本へ移す形の創業である。同年7月には東京株式取引所へ上場した。1949年9月に過度経済力集中排除法で大日本麦酒が二社へ分割された際、合同に加わっていなかったキリンは分割を免れ、家庭用市場の広がりを背に1972年12月には国内ビールシェア60.1%へ達する。2007年7月に純粋持株会社へ移行し、商号をキリンホールディングス株式会社へ改めた。
決断
首位を取りすぎないために、増やす先を本業の外へ置いた。国内シェアが60%を超えた1972年、独占禁止法による企業分割論が国会で4年にわたり審議され、麒麟麦酒は拡販を自制してビール外への多角化を選んだ。以後の成長はビールの外に置かれ、1981年12月の第二次多角化方針で医薬事業を始め、1990年4月には腎性貧血治療剤エスポーを発売する。海外では同じ順序をとらず、規模そのものを取得しにいった。2008年には豪州乳業の首位と2位を相次いで買収し、2011年8月にはブラジル2位のスキンカリオールを傘下に収めている。だが南米は現地経済の低迷と競争激化で採算を確保できず、2017年2月に減損したうえでハイネケンへ譲渡して撤退した。技術で伸ばした医薬が残り、規模で買った海外ビールは残らなかった。
現況
利益率が最も高い区分は、ビールではなく医薬である。2025年12月期の売上収益は2兆4,334億円、営業利益は2,097億円だった。区分別では酒類が1兆753億円で事業利益1,354億円、飲料が5,782億円で677億円、医薬が4,965億円で1,023億円、ヘルスサイエンスが2,514億円で111億円である。医薬は売上の2割で利益の3割弱を返し、利益率20.6%は酒類の12.6%を上回る。4本目に据えたヘルスサイエンスは前期に109億円の損失を出していたが、2024年にファンケルを株式公開買付けで完全子会社化し、売上を1,753億円から2,514億円へ広げて黒字へ転じた。
競合
国内2位へ後退したあとに向き合った相手は、ビール会社だけではない。1987年にアサヒがスーパードライを投入すると、60%あったシェアは2年で10ポイント下がり、1989年12月には24年ぶりに5割を割った。キリンは1990年3月に一番搾りを投入して反攻したが、首位は1998年にアサヒへ渡る。2009年7月にはサントリーホールディングスとの経営統合を発表したものの、統合比率と創業家支配をめぐって翌年に破談となった。2020年3月には英運用会社IFPによる事業売却と自社株買いの提案を株主総会で退けている。アサヒが欧州と豪州で定番ブランドを取得していった同じ時期に、キリンは南米から撤退して医薬へ資本を寄せている。その配分の差は、2025年12月期の営業利益率でキリン8.6%・アサヒ6.4%となって表れた。

創業ストーリー 外資の醸造所を受け継いだ独立経営と、麦酒合同に加わらない選択 (1869年〜)

スプリング・バレーからジャパン・ブルーワリーへの継承

キリンの歴史は1869年、米国人コープランドが横浜山手天沼に日本最初のビール醸造所スプリング・バレー・ブルワリーを創業した[1]ときに始まる。同社は横浜・長崎の居留地や外国艦船向けにビールを供給し、上海やサイゴンなどへも輸出して約15年操業した[2]。1885年には横浜居留の有力外国人と日本財界の指導者たちがジャパン・ブルーワリー会社を設立し[3]、スプリング・バレーの敷地を譲り受けて日本最初の近代工場を建設した。そのビールは『キリンビール』と名付けられて1888年に発売され[4]、ドイツ人技師の技術と良質の輸入原料によって品質は群を抜き、当初から他の銘柄より高い価格帯で全国に売られた[5]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [1]1869年 コープランドが横浜山手天沼にスプリング・バレー・ブルワリーを建設(日本最初のビール醸造所)
    • [2]横浜・長崎の居留地と外国艦船向けに供給し、シャンハイ・サイゴンなどへ輸出して約15年継続
    • [3]1885年 ジャパン・ブルーワリー会社設立、スプリング・バレーの敷地に日本最初の近代工場を建設
    • [4]1888年 「キリンビール」発売
    • [5]ドイツ人の技術と良質の輸入原料で品質が群を抜き、他銘柄より高い値段で全国に販売

1907年、三菱・明治屋・日本郵船の人々によって麒麟麦酒が創立され[6]、ジャパン・ブルーワリーの財産や技師など事業一切を引き継いで経営権は日本人へ移った[7]。同年7月には東京株式取引所へ株式を上場した[8]。大正期に入ると欧洲大戦の好況で国内需要が急増し、欧洲品に代わる東南アジアへの輸出も伸びて業界は活況を呈した[9]。この勢いに乗って1918年に神崎(現尼崎)工場を新設し[10]、1923年には仙台の東洋醸造を吸収合併して仙台工場とし、関東大震災で壊滅した横浜山手工場に代えて1926年に鶴見へ横浜工場を新設した[11]。大戦によるドイツ人技師の帰国や原料輸入の障害を機に、醸造技術の内製化と国内原料の調達体制を確立した[12]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [6]1907年 三菱・明治屋・日本郵船により麒麟麦酒が創立
    • [7]ジャパン・ブルーワリーの財産・技師など事業一切を引き継ぎ、経営が日本人へ移行
    • [9]欧洲大戦(大正3〜7年)の好況で国内需要が急増し、東南アジアへの輸出も伸長
    • [10]1918年 神崎(現尼崎)工場を新設
    • [11]1923年 仙台の東洋醸造を吸収して仙台工場、1926年 鶴見に横浜工場を新設
    • [12]ドイツ人技師の帰国と原料輸入の障害から独自の技術と国内原料供給体制を確立
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1907年7月 東京株式取引所に上場
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [1]1869年 コープランドが横浜山手天沼にスプリング・バレー・ブルワリーを建設(日本最初のビール醸造所)
    • [2]横浜・長崎の居留地と外国艦船向けに供給し、シャンハイ・サイゴンなどへ輸出して約15年継続
    • [3]1885年 ジャパン・ブルーワリー会社設立、スプリング・バレーの敷地に日本最初の近代工場を建設
    • [4]1888年 「キリンビール」発売
    • [5]ドイツ人の技術と良質の輸入原料で品質が群を抜き、他銘柄より高い値段で全国に販売
    • [6]1907年 三菱・明治屋・日本郵船により麒麟麦酒が創立
    • [7]ジャパン・ブルーワリーの財産・技師など事業一切を引き継ぎ、経営が日本人へ移行
    • [9]欧洲大戦(大正3〜7年)の好況で国内需要が急増し、東南アジアへの輸出も伸長
    • [10]1918年 神崎(現尼崎)工場を新設
    • [11]1923年 仙台の東洋醸造を吸収して仙台工場、1926年 鶴見に横浜工場を新設
    • [12]ドイツ人技師の帰国と原料輸入の障害から独自の技術と国内原料供給体制を確立
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1907年7月 東京株式取引所に上場

明治屋の一手販売を解いた自前の販売網と統制下の三社体制

1927年、麒麟麦酒は明治屋の一手販売を解いてそのビール販売部門を吸収し、営業部を新設[13]して全国の販売チャネルを自前へ切り替えた。翌1928年3月には清涼飲料の製造を開始し[14]、ジュース・レモン・タンサンなどビール以外の商品にもキリンの名を冠した[15]。明治期に数十社を数えたメーカーは集中淘汰を経て大日本麦酒・日本麦酒鉱泉・麒麟麦酒の三社へ集約され[16]、不況下でビール需要が停滞するなか競争は激化した[17]。市場の大混乱を収拾するため三社を一社にする主張すら出たが[18]、麒麟麦酒はこの合併案を退け、大日本麦酒に日本麦酒鉱泉を吸収させたうえで対等出資の共同販売会社を1933年に設立し[19]、市場の安定を図った。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [13]1927年 明治屋の一手販売を解きビール販売部門を吸収、営業部を創設
    • [15]飲料はジュース・レモン・レモンクレール・タンサンでいずれもビール同様キリンの名を冠した
    • [16]集中淘汰で明治期に数十社あったメーカーが大日本・日本麦酒鉱泉・キリンの三社に
    • [17]大不況下でビール需要が停滞し競争が激化
    • [18]市場の大混乱収拾のため三社を一社にする主張が出たがキリンは譲らなかった
    • [19]1933年 大日本麦酒に日本麦酒鉱泉を吸収させ、対等出資の共同販売会社を設立して市場の安定を図った
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1928年3月 清涼飲料の製造を開始

その後は景気も上向いて需要が増え、朝鮮・満洲など外地へ進出する一方、1938年には広島工場と富田製麦工場を新設した[20]。しかし1939年が消費量のピークで、1940年以降は原料不足から配給統制が敷かれた[21]。統制は1949年夏に終わり、同年9月の集中排除法によって[22]戦前市場の7割以上を占めていた大日本麦酒[23]が二分され、発足したのが日本麦酒(現サッポロ)と朝日麦酒の二社。合同に加わらなかった麒麟麦酒はこの分割を免れ、1887年以来のキリン商標を復活させて二社との競争に臨み[24]、消費者と販売業界の支持を背に需要は一貫して他を上回って増加した。1949年5月には東京・大阪各証券取引所の再開と同時に株式を上場[25]した。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [20]1938年 広島工場・富田製麦工場を新設、朝鮮・満洲など外地へ進出
    • [21]1939年が消費量のピーク、1940年以降は原料不足から配給統制
    • [22]1949年夏に統制が終わり、同年9月の集中排除法で大日本麦酒が二分され日本麦酒・朝日麦酒が発足
    • [23]大日本麦酒は戦前市場の7割以上を占有
    • [24]1887年以来のキリン商標を復活して二社と競争、需要は一貫して他を上回って増加
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1949年5月 東京・大阪各証券取引所の再開と同時に株式上場
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [13]1927年 明治屋の一手販売を解きビール販売部門を吸収、営業部を創設
    • [15]飲料はジュース・レモン・レモンクレール・タンサンでいずれもビール同様キリンの名を冠した
    • [16]集中淘汰で明治期に数十社あったメーカーが大日本・日本麦酒鉱泉・キリンの三社に
    • [17]大不況下でビール需要が停滞し競争が激化
    • [18]市場の大混乱収拾のため三社を一社にする主張が出たがキリンは譲らなかった
    • [19]1933年 大日本麦酒に日本麦酒鉱泉を吸収させ、対等出資の共同販売会社を設立して市場の安定を図った
    • [20]1938年 広島工場・富田製麦工場を新設、朝鮮・満洲など外地へ進出
    • [21]1939年が消費量のピーク、1940年以降は原料不足から配給統制
    • [22]1949年夏に統制が終わり、同年9月の集中排除法で大日本麦酒が二分され日本麦酒・朝日麦酒が発足
    • [23]大日本麦酒は戦前市場の7割以上を占有
    • [24]1887年以来のキリン商標を復活して二社と競争、需要は一貫して他を上回って増加
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1928年3月 清涼飲料の製造を開始
    • [25]1949年5月 東京・大阪各証券取引所の再開と同時に株式上場

設備投資の先行と家庭用需要の拡大によるシェア逆転

大日本麦酒が分割された1950年の国内ビールシェアはサッポロ37.0%・朝日33.5%・麒麟29.5%[26]で、麒麟麦酒は3位から出発した。5年後の1955年には麒麟が36.8%で首位に立ち[27]、以後は競合各社とのシェア差が開いた。逆転を支えた第一の要因は家庭向けという販路の選択[28]にあった。戦前は業務用が7割を占め、麒麟は料理屋やホテルなどの業務用より家庭向けに販売目標を絞ってきた[29]が、戦後はビールの大衆化と所得水準の上昇で家庭内消費が増え、需要構成は家庭向け70%・業務用30%へ反転した[30]

  • 日経ビジネス 1972年7月24日号(日経マグロウヒル社)
    • [26]1950年のシェアはサッポロ37.0%・朝日33.5%・麒麟29.5%
    • [27]1955年に麒麟36.8%で首位へ逆転
    • [28]家庭向け販売が時代の流れに乗った点がシェア向上の第一の要因
    • [30]需要の内訳が家庭向け70%・業務用30%へ変容
  • 週刊東洋経済 1972年3月25日号
    • [29]戦前は業務用が7割。麒麟は料理屋・ホテル等の業務用より家庭向けに販売目標を絞った

生産面では品質本位の基本方針で原材料を厳選し、1953年には戦後の業界に先がけて東京工場の新設に着手する[31]など設備投資を先行させた。1950年から1968年までの間に設備資金920億円を投じ、庫出量で業界全体の14倍を上回る24倍の増加[32]を達成した。ビールの市場占有率は1949年に25%にすぎなかったが、1966年以降は約50%に及び[33]、1967年の販売量119万キロリットルは大瓶換算で約19億本にあたり、米国アンホイザー・ブッシュ社に次ぐ世界第二位[34]。全国特約店は760店を超え[35]、1963年には自動販売サービス(現キリンビバレッジ)を設立して[36]清涼飲料の販路も広げた。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [31]1953年 戦後の業界に先がけて東京工場の新設に着手
    • [32]1950〜1968年に設備資金920億円、庫出量で業界全体の24倍の増加
    • [33]市場占有率は1949年25%、1966年以降は約50%
    • [34]1967年の販売量119万キロリットル(大瓶換算約19億本)で世界第二位
    • [35]全国特約店(卸)は760店超
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1963年4月 自動販売サービス(現キリンビバレッジ)を設立
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号(日経マグロウヒル社)
    • [26]1950年のシェアはサッポロ37.0%・朝日33.5%・麒麟29.5%
    • [27]1955年に麒麟36.8%で首位へ逆転
    • [28]家庭向け販売が時代の流れに乗った点がシェア向上の第一の要因
    • [30]需要の内訳が家庭向け70%・業務用30%へ変容
  • 週刊東洋経済 1972年3月25日号
    • [29]戦前は業務用が7割。麒麟は料理屋・ホテル等の業務用より家庭向けに販売目標を絞った
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
    • [31]1953年 戦後の業界に先がけて東京工場の新設に着手
    • [32]1950〜1968年に設備資金920億円、庫出量で業界全体の24倍の増加
    • [33]市場占有率は1949年25%、1966年以降は約50%
    • [34]1967年の販売量119万キロリットル(大瓶換算約19億本)で世界第二位
    • [35]全国特約店(卸)は760店超
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1963年4月 自動販売サービス(現キリンビバレッジ)を設立

独占禁止法の分割論と、拡販を控えた売り方

1971年にシェアは58.9%へ達し[37]、1972年には消費者10人のうち6人がキリンを飲み、サッポロが2人、朝日は1本半、新規参入のサントリーは小瓶1本にも満たない[38]状態になった。同年12月には国内ビールシェア60.1%を記録[39]した。大手百貨店などからも、シェアが60%以上に拡大するとメーカー側の流通支配が強まるとの懸念[40]が示された。キリンビールのシェア問題は独占禁止法の改正をめぐって4年にわたり国会で審議され、会社分割の危機と受け止められた[41]

外部の圧力に対して麒麟麦酒がとったのは拡販の自主抑制で、城殿鎮治常務は『計画生産に沿って販売しているので需要が予想以上に伸びたからといって拡販は控える』[引用元][42]と述べ、増えた消費分は他社に回ることになると説明した。直近2期の広告宣伝費はサッポロ32億8407万円・朝日30億7978万円に対し麒麟は24億3943万円と3社中最少[43]で、その低い水準は数年来続いていた。1970年10月の値上げでは3社のうち最後に踏み切り[44]、駆け込み需要に対しては出荷を停止した。佐藤保三郎専務は設備投資についても、シェア拡大を図るためではなく品切れで消費者に迷惑をかけないための最低限の供給能力の確保[45]だと説明した。

  • 日経ビジネス 1972年7月24日号(日経マグロウヒル社)
    • [42]城殿鎮治常務が計画生産に沿って販売し需要が伸びても拡販は控える、増えた消費は他社へ回ると発言
    • [43]直近2期の広告宣伝費はサッポロ32億8407万円・朝日30億7978万円に対し麒麟24億3943万円で3社中最少
    • [44]1970年10月の値上げで麒麟が最後に踏み切り、駆け込み需要に対し出荷を停止
    • [45]佐藤保三郎専務が設備投資はシェア拡大でなく品切れ防止の最低限の供給能力確保と説明

シーグラムとの合弁による洋酒進出と昭和50年度構造計画

成長の投資先はビール以外へ移され、佐藤保三郎専務は1971年の講演で、3年ほど前から10年・15年先を考えてビール以外の分野へ進出し経営の多角化を進めることを決めた[46]と述べ、シーグラム社と提携の覚書を取り交わしたことを明かした。同年にはシーグラムとの業務提携で輸入洋酒の販売を開始し[47]、1972年8月3日にジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ、シーバス・ブラザーズ・リミテッドとの3社合弁でキリン・シーグラムを設立して御殿場に工場を建設した[48]。国産ウイスキー第1号は、シーバス社の原酒を輸入し御殿場工場でブレンドした『ロバートブラウン』で、1974年に発売された[49]

多角化は洋酒だけで完了するものではなく、佐藤保三郎専務は従来からつながりを持つ食品関係・飲料関係に加え、ビール粕や酵母といった副産物の有効利用へも広げる構想[50]を示した。麒麟麦酒はシェア問題への解答を事業ポートフォリオの多角化に求め、ウイスキー・清涼飲料水・ファインケミカル・他の食品業種へ重点を移す計画[51]を持っていた。1976年6月には小岩井乳業を設立し、1981年12月の『長期経営ビジョン(第21次長期計画)』[引用元][52]で第二次多角化へ進んだ。

    • [50]多角化は洋酒にとどまらず食品・飲料関係や副産物(ビール粕・酵母)の有効利用へ広げる構想
  • 日経ビジネス 1972年7月24日号(日経マグロウヒル社)
    • [51]シェア問題への解答を多角化に求め、ウイスキー・清涼飲料水・ファインケミカル・他の食品業種へ重点を移行
  • キリンHD 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1976年6月 小岩井乳業設立、1981年12月 「長期経営ビジョン(第21次長期計画)」策定で第二次多角化

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キリンHDの沿革1907〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1869〜1949年外資の醸造所を受け継いだ独立経営と、麦酒合同に加わらない選択麒麟麦酒を共同設立
清涼飲料に新規参入・キリンレモンの製造開始
磯野長蔵東京証券取引所に株式上場
1950〜1981年家庭用市場の掌握によるシェア60%と、勝ちすぎを避けた多角化川村音次郎ビール市場で国内シェアトップを確保
川村音次郎ビール工場の新増設
川村音次郎子会社キリンビバレッジを設立
川村音次郎子会社キリンビバレッジを設立
高橋朝次郎麒麟麦酒、独禁法分割論下の拡販自制とビール外への多角化

1970年代前半、国内ビールシェアが6割に達した麒麟麦酒が、公正取引委員会の監視と独禁法による企業分割論を背に、拡販の自制と洋酒・飲料・食品などビール外への多角化に針路を転じた経営判断。

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★★★
高橋朝次郎ビール市場で国内シェア60%を突破
佐藤保三郎昭和50年度構造計画を策定
1982〜2001年バイオ医薬への参入とドライショックによる首位の動揺小西秀次抗体医薬に新規参入★★
本山英世事業部制を導入
本山英世ビールの国内シェア下落
本山英世ドライ戦争敗勢下の反攻——フルライン戦略の挫折と「一番搾り」の投入

1987年発売のアサヒ『スーパードライ』に主力ラガーの牙城を侵食されたキリンビールが、1989年のフルライン戦略の挫折を経て、1990年3月に新ブランド『キリン一番搾り生ビール』を投入し、シェア急落の下げ止まりを図った経営判断。

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★★★
本山英世EPO製剤を発売(アムジェンから製品導入)
真鍋圭作キリンビバレッジに商号変更
佐藤安弘Lion Nathanへ資本参加★★
佐藤安弘長期経営ビジョン「KG21」を策定
荒蒔康一郎麦酒・発泡酒の国内市場でシェアトップ陥落
2002〜2026年規模を求めた海外拡大の挫折と、発酵技術を軸にした事業再定義荒蒔康一郎San Miguel Corporationへ資本参加★★
加藤壹康持株会社制に移行・キリンHDに商号変更★★
加藤壹康豪州乳業首位・2位を相次ぎ買収し、乳製品市場を制した巨額M&A

2007年11月に豪州の乳業・飲料首位ナショナルフーズを2,980億円で、2008年8月に子会社化した同社を通じて2位デアリーファーマーズを840億円で相次ぎ買収し、キリンホールディングスがオーストラリアの乳製品市場で圧倒的地位を築いた経営判断。加藤壹康社長の主導によるアジア・オセアニア戦略の中核であった。

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★★★
加藤壹康協和発酵工業を買収・協和キリンの発足★★
加藤壹康San Miguel Brewery株式を取得
三宅占二メルシャンを買収
加藤壹康キリンホールディングスとサントリーホールディングスの経営統合(2010年破談)

2009年、国内首位のキリンと2位のサントリーが経営統合を交渉し、売上高約3.8兆円の世界最大級の飲料連合をめざしたが、約半年で破談した案件。

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★★★
三宅占二ベトナムInterfoodを子会社化
三宅占二ブラジル2位スキンカリオールの買収と、南米ビール市場への進出

2011年、キリンホールディングスが、ブラジル2位のビールメーカー・スキンカリオールの株式50.45%を約2,000億円で取得し、同年11月に残る株式も取得して完全子会社化した経営判断。少数株主との係争を経て買収額は合計で約3,040億円に膨らんだ。三宅占二社長の主導による成長市場への進出であった。

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★★★
三宅占二キリン設立、CSV本部新設
磯崎功典ブラジル事業の巨額減損と、ハイネケンへの売却による撤退

キリンホールディングスが、2011年に約3,040億円を投じて取得したブラジルのビール事業について、2015年12月期に約1,100億円の減損処理で473億円の最終赤字を計上したうえ、2017年2月に子会社ブラジルキリンをオランダのハイネケンへ770億円で売却し、進出から約6年で撤退した経営判断。磯崎功典社長の主導による海外ポートフォリオの見直しである。

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★★★
磯崎功典ファンケルへ資本参加★★
磯崎功典英運用会社IFPの事業売却・6,000億円自社株買い提案を退け、多角化路線を堅持

2020年3月27日の第181回定時株主総会で、キリンホールディングスは英運用会社インディペンデント・フランチャイズ・パートナーズ(IFP)が出した4件の株主提案をすべて否決した。IFPは医薬・ヘルスサイエンスなどの非中核事業とファンケル株の売却、その資金による最大6,000億円の自己株式取得、社外取締役2名の選任を求めていた。磯崎功典社長のもと、キリンは食・医・ヘルスサイエンスを束ねる多角化路線を堅持した。

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★★★
磯崎功典ミャンマー市場からの撤退を決定★★
磯崎功典Blackmoresを完全子会社化★★
南方健志ファンケルを株式公開買付け(TOB)で完全子会社化

2024年6月、キリンホールディングスが持分法適用会社だったファンケルを株式公開買付け(TOB)で完全子会社化する方針を決めた経営判断。買付価格は当初1株2,690円、買付代金は最大約2,207億円で、同年3月に就いた南方健志社長COOの体制のもと、ヘルスサイエンス事業の成長加速を狙った。

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★★★
出典・参考

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