財閥解体による分離を、上から命じられた解体の一場面として読むと、この一件は見えにくくなる。三井鉱山から切り出されたのは整理の対象ではなく、1200年の採掘史をもつ神岡鉱山と、三池・彦島・日比という製錬所群を備えた、それ自体で立つ事業であった。創立から5か月で東京証券取引所第一部へ上場し、翌1951年10月には資本金を6億円から12億円へ倍増している運びの速さに、制度への受け身の対応とは違うものがうかがえる。
もっとも、この独立がうまく働いたと言えるのは、神岡鉱山がその後も掘り続けられたからにすぎない。尾本信平副社長が挙げた埋蔵鉱量4,000万トンという数字は、裏を返せば、会社の収益が一つの鉱山と亜鉛相場に結び付いていたことを示している。伸銅やダイカストへ加工を広げ、資本金を108億円まで積み増した15年の歩みは、その結び付きを薄める作業でもあったのだろう。制度が与えた独立を、単独の資産に頼らない事業構成へどう組み替えるか——分離の日に始まったのは、その長い作業であったといえる。