三井金属鉱業三井鉱山からの金属部門の分離独立と神岡鉱業の創立、東京証券取引所への上場
財閥解体という外からの力を、どこまで独立企業の再出発に変えられたか
- 概要
- 1950年5月1日、財閥解体にともなう企業再建整備法の決定整備計画にもとづき、三井鉱山の金属部門を分離して神岡鉱業株式会社(資本金6億円)が創立された。同年10月に東京証券取引所第一部へ上場し、1952年12月に商号を三井金属鉱業へ改めた。現在の三井金属鉱業の直接の出発点にあたる。
- 背景
- 三井組が1874年に払い下げを受けた神岡鉱山を核に、三井鉱山は金属鉱山と炭鉱を一つの会社で運営してきた。敗戦後の財閥解体によって、性格の異なる石炭と非鉄金属を同じ会社で抱え続ける前提が崩れた。
- 内容
- 炭鉱部門を三井鉱山に残し、神岡鉱山と三池・彦島・日比の製錬所群を新会社へ移した。財閥商号を使えないため社名は主力鉱山の名を取って「神岡鉱業」とし、創立5か月後に上場、翌1951年10月には資本金を12億円へ倍増した。
- 含意
- 切り出された事業は、鉛・亜鉛の産出で国内に並ぶもののない神岡鉱山を抱えていた。制度の側から始まった分離が、増資・研究所設置・製錬設備の更新という独立企業としての投資の連続につながった。
与えられた独立をどう使ったか
財閥解体による分離を、上から命じられた解体の一場面として読むと、この一件は見えにくくなる。三井鉱山から切り出されたのは整理の対象ではなく、1200年の採掘史をもつ神岡鉱山と、三池・彦島・日比という製錬所群を備えた、それ自体で立つ事業であった。創立から5か月で東京証券取引所第一部へ上場し、翌1951年10月には資本金を6億円から12億円へ倍増している運びの速さに、制度への受け身の対応とは違うものがうかがえる。
もっとも、この独立がうまく働いたと言えるのは、神岡鉱山がその後も掘り続けられたからにすぎない。尾本信平副社長が挙げた埋蔵鉱量4,000万トンという数字は、裏を返せば、会社の収益が一つの鉱山と亜鉛相場に結び付いていたことを示している。伸銅やダイカストへ加工を広げ、資本金を108億円まで積み増した15年の歩みは、その結び付きを薄める作業でもあったとみられる。制度が与えた独立を、単独の資産に頼らない事業構成へどう組み替えるか——分離の日に始まったのは、その長い作業であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
三井鉱山のなかの非鉄金属部門
三井金属鉱業の事業の芯は、岐阜県と富山県の境にある神岡鉱山であった。三井組が1874年9月に神岡鉱山の蛇腹平坑を取得して鉱山経営に入り、1892年6月には三井鉱山合資会社を設立して、金属鉱山と炭鉱を一つの会社で運営する体制を敷いた。1911年12月には三井鉱山株式会社が設立されている。神岡は三井財閥の鉱業を支える資産でありながら、会社の形としては石炭と同居する一部門にとどまっていた[1]。
金属部門は採掘にとどまらず、製錬まで手を伸ばしていた。1913年8月に大牟田で亜鉛製煉工場の操業を始めるまで、国内の亜鉛鉱石はすべてドイツやベルギーへ鉱石のまま送られていた。三池製煉所の操業開始を境に、逆に鉱石を輸入して国内で地金に仕上げる流れへ変わっていく。1928年1月には鈴木商店が経営していた彦島亜鉛製煉工場を買収し、1943年3月には昭和鉱業から日比製煉工場と竹原電煉工場を譲り受けた[2][3]。
財閥解体という外からの力
敗戦後、三井財閥は解体の対象となり、傘下の各社は企業再建整備法にもとづいて資産と負債を整理し直すことを求められた。三井鉱山の決定整備計画では、石炭を掘る炭鉱部門を本体に残し、非鉄金属の鉱山と製錬所を別会社として切り出す線が引かれた。半世紀以上にわたって一社で運営されてきた鉱業部門は、ここで石炭と非鉄金属の二つへ分けられた[4]。
分けられる側の金属部門にとって、資産の中核はやはり神岡鉱山であった。1200年をさかのぼる採掘の歴史をもつこの鉱山は、鉛と亜鉛の産出で国内に並ぶものがなく、カナダのサリバンやオーストラリアのブロークンヒルと並ぶ規模で知られていた。1956年の雑誌『新日本経済』は神岡を「世界に誇る鉛・亜鉛の優良鉱山」と紹介し、地元の神岡町を「カネのなる木をもつ」と書いている。切り出される事業は、それ自体で立ちうる収益基盤を備えていた[5][6]。
決断
金属部門を切り出しての新会社創立
1950年5月1日、三井鉱山の金属部門をもって神岡鉱業株式会社が創立された。企業再建整備法による決定整備計画にもとづく措置で、資本金は6億円であった。新会社の社名に三井の名は入っていない。財閥商号の使用が認められない時期にあたり、主力鉱山の名をそのまま取って「神岡鉱業」と名乗った。三井の商号に戻るのは2年半後の1952年12月で、このとき社名を三井金属鉱業へ改めている[7][8]。
創立から5か月後の1950年10月、神岡鉱業は東京証券取引所第一部へ上場した。財閥の内側で資金も人も融通されてきた事業が、株式市場から直に資金を集め、業績を外部へ開示する立場へ移った。分離そのものは制度に強いられた措置であったが、上場によって独立企業としての形が整い、以後の増資と設備投資はこの資本市場との関係の上で進められていく[9]。
結果
独立企業としての体制固め
独立後の神岡鉱業は、まず財務と研究の足場を固めた。1951年10月に資本金を6億円から12億円へ倍増し、同年12月には東京研究所を設けている。1952年12月には商号を三井金属鉱業へ改め、財閥商号の使用制限が解けたことを社名で示した。分離から2年半のあいだに、資本・研究・商号という独立企業の要素が順に整えられた[10]。
続いて直轄事業所の設備更新が相次いだ。1953年6月に神岡鉱業所の金木戸発電所が完成し、1954年1月には三池製煉所の竪型蒸溜亜鉛工場が第一期工事を終えた。1956年6月には日比製煉所の転炉関連工事、1957年6月には神岡工業所の亜鉛焙焼設備が完成している。財閥の時代から引き継いだ古い設備を入れ替えながら、企業合理化によるコストの引き下げを並行して進めた[11]。
神岡を抱えた会社の拡大
体制が整うと、三井金属鉱業は鉱山と製錬の外側へ手を伸ばした。1962年4月に王子金属工業と昭和ダイカストの2社を吸収合併し、伸銅事業部とダイカスト事業部を設けて加工品へ入っている。資本金は1954年11月の24億円、1958年6月の48億円、1962年5月の72億円、1965年2月の108億円と積み上がった。6億円で出発した会社は、15年で資本金を18倍に増やした[12][13]。
拡大を支えたのは、やはり神岡であった。1969年12月の講演で、副社長の尾本信平氏は神岡鉱山の埋蔵鉱量を4,000万トンとし、年に120万から130万トンを採掘しながら、新たに見つかる鉱量が採掘量を上回っていると述べている。国内にこれに匹敵する大鉱床はなく、規模が大きいがゆえにブロックケイビングという採掘法を日本で唯一採用できた。分離のときに引き継いだ資産が、20年後も収益の中心にあった[14][15]。
- 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 新日本経済 1956年6月号「神岡鉱山・世界に誇る鉛・亜鉛の優良鉱山」
- 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻第1号「三井金属鉱業の現状と将来」(尾本信平 三井金属鉱業副社長)