全国出炭のうち5.5%をなお担い、業界で第5位の位置にあったのが、分離を決めた時点の三菱鉱業の石炭部門である。大槻文平社長は、力の残っている今こそ動くべきだと考えていた。その判断のとおり、これは追い込まれた末の整理ではなく、分けられる余地があるうちに分けたものだった。国家管理を伴う全国規模の再編が避けられないなら、先に石炭を子会社に移し、伝統ある商号と助成に縛られない本体を手元に確保しておく。商号の維持と復配の条件づくりが両立したのは、体力の残るこの時期を選んで分けたからである。
ただ、分けた先の見通しが明るかったわけではない。金曜会では炭砿は長続きしないという反応が出ており、将来性への疑いは三菱の社長たちにも共有されていた。三菱高島炭砿は発足の翌年に鯰田を閉じ、大槻文平氏自身も日本の石炭業の将来性は乏しいと平田敬一郎総裁に認めていた。1971年3月期の復配も、石炭の採算が好転して実現したものではなく、石炭を切り離して実現した。この分離は石炭を救わなかった。救われたのは、三菱鉱業という会社のほうである。