三菱鉱業セメント石炭生産部門の分離と、三菱高島炭砿・三菱大夕張炭砿の設立
国家管理をともなう全国再編か、自力での分離か——大槻文平社長は創業以来の石炭部門をどう切り離したか
- 概要
- 1969年、三菱鉱業が創業以来の本業である石炭生産部門を分離し、三菱高島炭砿と三菱大夕張炭砿の2社として独立させた経営判断。大槻文平社長が、国家管理をともなう全国再編に巻き込まれる前に、商号と本体の体力を残すために踏み切った。9月30日に営業譲渡を実施し、10月1日に両社が営業を開始した。
- 背景
- 数次の石炭対策でも十分な効果が上がらず、1967年には全国一社案、全国三社案、石炭鉱業国有化案が出た。1968年2月には第二会社構想を含む植村私案が示され、1969年1月に決まった第四次石炭対策は、第二次肩代わり850億円と、交付金を受ける企業における区分経理の実施を柱としていた。
- 内容
- 九州の高島鉱業所と鯰田炭砿を三菱高島炭砿へ、北海道の大夕張鉱業所と南大夕張開発事務所を三菱大夕張炭砿へ移した。譲渡資産は約218億円と約140億円、移った従業員は職員772人と鉱員5,289人の計6,061人である。石炭の販売業務は三菱鉱業に残した。
- 含意
- 政府の助成を受けている限り配当ができず、石炭部門の分離が復配の条件になっていた。三菱鉱業は営業第100期にあたる1971年3月期に、9年ぶりとなる年6分の復配を実施した。新会社への「三菱」の商号使用は社長会「金曜会」の承認を要し、将来性への疑問を押し返して認められた。
体力の残るうちに祖業を切り離す
分離を決めたとき、三菱鉱業の石炭部門はなお全国出炭の5.5%を占め、業界第5位にあった。大槻社長が体力的にもまだ余力のあるこの機会を捉えるべきだとしたとおり、これは行き詰まってからの整理ではなく、まだ分けられるうちに分けた。国家管理をともなう全国再編が避けられないのなら、その前に石炭を子会社へ移し、伝統ある商号と、助成に縛られない本体を手元に残す。商号を残すことと復配の条件をつくることは、体力の残るこの時期に分けたからこそ両立した。
ただ、分けた先の見通しが明るかったわけではない。金曜会では炭砿は長続きしないという反応が出ており、将来性への疑いは三菱の社長たちにも共有されていた。三菱高島炭砿は発足の翌年に鯰田を閉じ、大槻氏自身も日本の石炭業の将来性は乏しいと平田敬一郎総裁に認めていた。1971年3月期の復配も、石炭の採算が好転して実現したものではなく、石炭を切り離して実現した。この分離は石炭を救わなかった。救われたのは、三菱鉱業という会社のほうである。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
効果の上がらない石炭対策と、1967年の再編論議
エネルギー革命によって石炭産業の斜陽化が現実のものになると、政府は1962年10月の第一次石炭対策を皮切りに、数次にわたる対策と助成を重ねた。1966年7月に答申された第三次対策は、生産規模を5000万トン程度とし、石炭対策特別会計を設けたうえで、異常債務1000億円を財政資金で肩代わりし、安定補給金を交付する内容であった。それでも十分な効果は上がらず、1967年には石炭主要各社や社会党から、全国一社案、全国三社案、石炭鉱業国有化案が出た[1][2]。
1968年2月、石炭鉱業審議会の植村甲午郎会長から石炭協会会長あてに、いわゆる植村私案が示された。各社が石炭部門の鉱区や設備などの固定資産を無償で提供し、それを限度として債務の第二次肩代わりを受け、借入金の重荷を外した第二会社を設立する。その第二会社はトラスト的な管理機構の下に置かれ、生産の集約と計画的縮小、共同販売、海外炭田の開発などを担う。石炭協会は、官僚統制に陥らないこと、私企業の競争原理を生かすこと、従業員と金融機関に損害を与えないことの三点を要望に付して、これを受け入れた[3]。
スクラップ・アンド・ビルドを終えた三菱鉱業
三菱鉱業の側では、閉山と集中投資が先に進んでいた。1963年11月に大槻文平氏が社長に就いた時点で炭砿は7、従業員は1万人と、合理化が始まった1953年に比べて半分以下に減っていたが、1964年度の出炭量は424万トンで1953年度比1割減にとどまった。その後も1965年6月に美唄を第二会社として分離し、1966年に鯰田の坑内採掘をやめ、1968年には古賀山と崎戸を閉じた。1968年度の出炭は256万トンとなり、三井、北炭、住友、常磐に次ぐ第5位で、全国出炭の5.5%を占めた[4][5]。
一方で、新しいヤマへの投資も続いていた。大槻社長は就任後に南大夕張の新砿開発に着手している。当時は新しく石炭のヤマを開発する企業がなく、日本開発銀行の平田敬一郎総裁からも「こんど新しくヤマを開発するそうだけど、止めたほうがいいですよ」と忠告された。大槻氏は日本の石炭業の将来性が乏しいことを認めたうえで、沈滞した炭砿界に元気をつけるために採算の見通しが立つこのヤマだけはやりたいと答え、1966年秋に着工した。総工事費は約110億円にのぼり、営業出炭は1970年8月に始まった[6][7]。
決断
縮小均衡の確認と、第四次石炭対策
1968年4月、大槻社長は石炭協会会長に就任した。業界内の意見をとりまとめて官庁や政界に働きかけたが、先方は、いくらかの同情は見せてもきびしく応じた。それまで「錦の御旗」であった年産5000万トン規模を放棄し、縮小均衡へ切り替える方針を確認せざるをえず、その線で各方面と折衝した。この間、大槻氏は自社の身の処し方について沈黙を守った。協会長として軽々な発言は控えるべきだと考えたうえ、植村私案にヒントを得て石炭部門の分離をすでに構想していた[8]。
1968年12月に石炭鉱業審議会の答申が出て、1969年1月に第四次石炭対策が決まった。従来どおり私企業体制での再建をはかるが、国の助成はもはや限界にきており、この対策でもなお事業の継続が困難な企業は勇断をもって進退を決めるべきだ、という考え方に立っていた。具体的には、第二次肩代わりとして850億円、安定補給金の大幅増額、特別閉山交付金制度の新設、交付金を受ける企業における区分経理の実施である。これらを実施するため、1969年度予算には前年度を48%上回る885億円の石炭関係費が計上された[9]。
「三菱鉱業の名を残す」ための分離
ここで大槻氏は結論に達した。植村私案はいくつかあった議論のなかでは一番妥当と思われたものの、石炭産業になんらかの国家管理的な規制が避けられないのであれば、伝統ある三菱鉱業の名を残すために石炭部門を分離しよう、という判断であった。分離は、第四次対策が求める石炭部門と非石炭部門の経理区分の明確化にも沿っていた。加えて、それまでにスクラップ・アンド・ビルドをほぼ完了し、体力的にもまだ余力のあるこの機会を捉えるのが得策とみていた[10][11]。
もう一つの狙いは復配にあった。私企業である以上、配当の実施は経営者の責任であるが、当時は政府の助成を受けている限り配当ができず、石炭部門を切り離すことが復配の条件になっていた。分離にあたっては、九州と北海道の事業所をそれぞれ包括する2社を設け、自立意識を高めて業績の向上を図る形をとった。そのうえで三菱鉱業から財産を分け、負債もできるだけ軽くして、新会社の経営が少しでも安定するよう配慮した。長い石炭不況のなかで土地などの資産を売らずに残していたから、これができた[12][13]。
結果
労組との交渉から営業譲渡まで
1969年5月14・15日の臨時中央経営協議会で、三菱鉱業は新会社設立案を菱炭連、端島労組、菱職連に正式提案した。職員は三菱鉱業からの休職派遣、鉱員は現行の労働条件のままの移籍という内容で、提案を受けた菱炭連と端島労組は企業合理化反対共闘会議を組織した。7月9日の最終回答を不満としてストが通告されたが、12日午前6時10分に了解が成立し、ストは回避された。引き継ぐ鉱員の退職手当は三菱鉱業が保証し、新会社の資金繰りが困難になった場合は資金援助を行うことも合意に含まれた[14]。
新会社2社は1969年5月20日に設立され、5月30日の第96回定時株主総会が営業一部譲渡を承認した。三菱高島炭砿には高島鉱業所と鯰田炭砿が、三菱大夕張炭砿には大夕張鉱業所と南大夕張開発事務所が移った。通産省の再建整備計画認定は9月29日に下り、30日に再建交付金の交付契約を締結して肩代わり債務を承継した。譲渡された資産は三菱高島炭砿へ約218億円、三菱大夕張炭砿へ約140億円、引き継がれた従業員は職員772人と鉱員5,289人の計6,061人である。翌10月1日、両社は営業を開始した[15][16]。
「三菱」の商号と、9年ぶりの復配
分離では、新会社に「三菱」の商号を冠せるかどうかが問題になった。三菱鉱業は1969年4月21日付で三菱金曜会に商号・社標の使用承認を申請したが、内規は資本金額や将来の操業安定に厳しい条件を課しており、見通しは楽観できなかった。席上では炭砿は長続きしないという反応が出たが、大槻社長は「私どもの炭砿がなくなるときは、日本のヤマがなくなるときです」と述べた。三菱油化の池田亀三郎社長が賛成に回り、金曜会の会長格であった三菱重工業の藤井深造社長も同調して、申請は承認された[17][18]。
1969年10月1日、大槻社長は在京の役職員に対し、今回の分離を「三菱鉱業の核分裂」と呼び、占領下で炭砿部門と鉱山部門に分けられたときとは違って将来のために別れるのだと説明した。石炭の販売業務は三菱鉱業に残され、生産と販売を分けたこの形態は当時の石炭業界に例がなかった。1970年6月には三菱高島炭砿が鯰田を閉じ、8月には南大夕張が営業出炭を始めた。三菱鉱業は営業第100期にあたる1971年3月期に、9年ぶりとなる年6分の復配を実施した[19][20][21]。
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 石炭部門の分離・独立
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第1節 石炭生産部門の分離