野村不動産ホールディングス野村證券の不動産部門を二社に分け、野村住宅産業(現・野村不動産)を設立

親会社の社屋を預かる管理会社にとどまるか、外部市場で用地を仕入れる開発会社へ出るか

時期 1970年1月
意思決定者(推定) 野村證券 親会社
論点 不動産部門の機能分離と事業会社化
概要
1970年1月、野村證券の不動産事業を賃貸管理と開発分譲の二つに分け、後者を担う事業会社として野村住宅産業株式会社(現・野村不動産株式会社)を設立し、営業を譲渡した経営判断。
背景
1957年に野村證券の新社屋建設を契機とする資産管理会社として発足した会社は、1961年に宅地開発、1963年にマンション分譲へ進出し、親会社向けの管理業務と外部市場向けの開発業務という性格の異なる二つの事業を一社で抱えていた。
内容
社屋・社宅・寮などの賃貸管理を野村土地建物に残し、宅地開発と住宅分譲を新設の野村住宅産業へ営業譲渡して事業区分を整理した。新会社は社名に「住宅産業」を掲げ、分譲住宅を主業に据えた。
含意
発注元が親会社1社に閉じた管理業務と、自ら用地を仕入れて売る開発業務とを別法人に分けた選択が、その後の賃貸ビルと住宅分譲という二本柱、さらに管理・サービス子会社群の内製化につながった。
筆者の見解

誰から仕事をもらう会社なのか

この判断の中心にあったのは、誰から仕事をもらう会社なのか、という区分であったとみることができる。親会社の社屋を預かる業務は、発注元が確かで収入も読みやすい代わり、伸び方の上限も親会社の店舗網に縛られる。宅地開発と住宅分譲は、自ら土地を探して仕入れ、売れるかどうかの判断を自分で背負う。性格の違う二つを一社に置いたままにせず、後者を専業とする会社を立てた選択は、外部市場で勝負する側に会社の重さを移す意味を持っていたといえる。

もっとも、分離は縁を切ることではなかった。新会社は野村の名を保ち、資本の系列としても野村證券グループの内側に残った。二社に分かれた構造は2004年の持株会社化まで続き、そこで初めて資本の枠組みが組み替えられる。安定した発注元を持ちながら、外部市場での開発力をどこまで自前で高めるか——1970年に引かれた線は、その後の上場や買収に至るまで、同社が繰り返し向き合う問いを先取りしていたとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

証券会社の社屋を持つために生まれた会社

野村不動産株式会社は、1957年4月に東京都中央区で設立された。資本金は1,000万円、目的は親会社である野村證券株式会社の本社ビルの所有・管理である。証券会社が新社屋の建設を機に、社屋の運用と維持管理を切り出して受け皿を作った形で、当初の事業範囲は親会社1社の不動産需要に閉じていた。1950年代後半の野村證券は個人投資家向けの営業網を全国へ広げており、本社・支店の店舗網が増えれば、そのまま新会社の仕事量が増える関係にあった[1][2]

とはいえ、管理だけで終わる会社ではなかった。1959年に宅地建物取引の免許と一級建築士事務所の登録を受けて仲介業務を始め、1960年には江戸橋ビルの開発でビル賃貸事業を広げている。親会社の資産を預かる立場から、自ら建てて貸す立場へ、設立から数年のうちに業務の幅は動いていた。1957年の発足そのものが、野村證券から分離してビルの賃貸・管理を主業務とする不動産事業を始める意味を持っていた[3][4]

宅地とマンションへ出た1960年代

1961年5月、神奈川県鎌倉市梶原地区で用地買収に着手し、デベロッパーとして宅地開発業務へ進出した。同じころ大阪府枚方の住宅地で関西にも足場を置いている。1963年10月には横浜市中区で分譲マンション「コープ竹の丸」を着工し、マンション分譲事業へ入った。戦後復興期の社会課題であった住宅難の解消をねらった参入で、この二つの進出によって、会社は大手民間デベロッパーとしての地位を得ていく[5][6]

外部からの見え方も変わっていた。1966年、三井不動産の江戸英雄社長は証券アナリスト向けの講演で自社の宅地造成を説明するなかで、千葉県・千葉市・京成電鉄とともに野村不動産と共同で70万坪の坂月ニュータウンを造成中であると述べている。設立から10年に満たない会社が、大手デベロッパーや鉄道会社と並ぶ共同事業者として名を挙げられていた。一方で、親会社の本社ビル・支店・社宅を預かる管理業務も残っており、発注元が1社に閉じた事業と、自ら用地を仕入れて売る事業とが、一つの会社に同居していた[7]

決断

賃貸管理と開発分譲を二社に切り分ける

1970年1月、野村住宅産業株式会社が設立され、営業が譲渡された。野村土地建物株式会社と野村不動産株式会社に業務を分離し、事業区分を整理した措置であった。社屋・社宅・寮といった野村證券グループ向けの賃貸管理を一方に残し、宅地開発と住宅分譲を新設会社が引き受けた。1957年に生まれた一つの会社が担ってきた二つの機能を、別々の法人に置き直す判断であった[8][9]

二つの事業は、必要とする資金の回り方も、抱えるリスクの種類も同じではない。親会社グループの社屋や社宅を預かる賃貸管理は、賃料収入が読みやすく、営業の相手も限られる。これに対し宅地開発と分譲は、先に用地を仕入れて造成・建設に資金を寝かせ、売れて初めて回収できる。資金の回転と在庫の重さが異なる二つを一社の帳簿に載せたままでは、どちらの物差しで経営を測るかが定まらない。分離は、後者を専業とする器を用意する選択でもあった。この二社体制はその後も続き、2004年10月に持株会社が野村土地建物から野村不動産の発行済株式全部の現物出資を受けるまで、資本の系列として残った[10]

「住宅産業」を社名に掲げる

新会社の商号は野村住宅産業であった。証券会社の名を冠しながら、業務の中身としては住宅を正面に置く社名で、分譲住宅を主業に据える意思がそこに表れている。1960年代の日本では都市部への人口流入が続き、住宅難の解消が社会の課題であり続けた。用地を仕入れ、造成し、住宅として売るという事業は、親会社の需要に依存しない収益源になりうる領域であった[11][12]

もっとも、賃貸ビルを手放したわけではない。分離後の会社は住宅分譲を主柱としつつ、自社で開発したビルを持って貸す事業も続けた。1978年5月には東京都新宿区に超高層ビル「新宿野村ビル」を竣工させ、日本橋から本社を移している。親会社の社屋を預かる立場で始まった会社が、自ら建てた高層ビルに本社を置いたことは、賃貸事業の性格が受託管理から自社開発へ移ったことを示している[13]

結果

二本柱の会社と、管理・サービスの内製化

分離後の会社は、住宅分譲と賃貸ビルという二本柱で規模を伸ばした。売上高は1982年3月期に1,000億円を超えている。この間、1977年4月にビル管理を担う野村ビル総合管理株式会社を設立し、自社で開発した建物の運営を自前で持つ体制を作った。開発した物件を売って終わらせず、建てた後の管理まで抱える構えは、賃貸ビルを保有する会社であればこその選択であった[14][15]

管理・サービス系の子会社はその後も増えた。1987年4月に地域冷暖房の横浜ビジネスパーク熱供給、1989年3月にフィットネスクラブの株式会社エヌ・エフ・クリエイト、1990年1月にビル清掃の株式会社アメニティサービス、1991年7月にマンション管理の野村住宅管理株式会社が順に設立されている。1970年に分けた開発分譲の会社が、建てた後の運営を自前で担う会社群を四半世紀かけて積み上げた形になる。2002年12月に住宅の統一ブランド「PROUD(プラウド)」が発表され、住宅分譲は商品名で語られる事業になった。1970年の機能分離は、その後の事業構成の骨格を先に決めていたとみることができる[16][17]

出典・参考

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