この判断の中心にあったのは、誰から仕事をもらう会社なのか、という区分であったのだろう。親会社の社屋を預かる業務は、発注元が確かで収入も読みやすい代わり、伸び方の上限も親会社の店舗網に縛られる。宅地開発と住宅分譲は、自ら土地を探して仕入れ、売れるかどうかの判断を自分で背負う。性格の違う二つを一社に置いたままにせず、後者を専業とする会社を立てた選択は、外部市場で競争する側に会社の重さを移す意味を持っていたといえる。
もっとも、分離は縁を切ることではなかった。新会社は野村の名を保ち、資本の系列としても野村證券グループの内側に残った。二社に分かれた構造は2004年の持株会社化まで続き、そこで初めて資本の枠組みが組み替えられる。安定した発注元を持ちながら、外部市場での開発力をどこまで自前で高めるか——1970年に引かれた線は、その後の上場や買収に至るまで、同社が繰り返し向き合う問いを先取りしていただろう。