すかいらーくホールディングス食料品店からの業態転換とファミリーレストラン「すかいらーく」第1号店の開業

団地前の食料品店を、四兄弟はなぜ未知の外食チェーンへ作り替えたか

時期 1970年7月
意思決定者(推定) 創業四兄弟 横川端・茅野亮・横川竟・横川紀夫
論点 小売業の限界と新業態への転換
概要
東京・保谷のひばりが丘団地前で食料品店ことぶき食品を営んでいた横川家の四兄弟は、1969年7月に会社を有限会社から株式会社へ改め、1970年7月に東京都府中市でファミリーレストラン「すかいらーく」第1号店を開いた。小売から外食チェーンへ生業の軸を移した業態転換であった。
背景
1962年に開いた食料品店は団地の主婦客をつかんで繁盛したが、1960年代後半に大型スーパーが郊外へ広がると、量販の安さに押されて小さな個人商店の先行きは細っていった。折しも高度成長が自家用車と外食の習慣を家庭へ広げつつあった。
内容
米国のチェーン経営に倣い、広い駐車場を備えた郊外立地に、家庭では味わえない料理を手頃な価格で出す店を構えた。調理と店づくりを標準化して同じ味とサービスを多店舗へ行き渡らせ、家族連れが自家用車で訪れる日本初のファミリーレストランを立ち上げた。
含意
この転身が、ファミリーレストランという業態を一つの産業として根づかせた。同時に、生業を大胆に作り替える身のこなしは、1992年のガストへの主力転換や2006年のMBOにも受け継がれ、草分けの強みと絶えず自らを壊す性とを同社にもたらした。
筆者の見解

生業を移すということ

食料品店からファミリーレストランへの転身を、時代を先読みした先見の一手とだけ読むのは、話を単純にしすぎる。四兄弟が握っていたのは未来図ではなく、小さな小売の商圏で稼ぐことの限界という手触りの実感であった。大型スーパーの安さに押される日々のなかで、量販の作法を外食へ移せばもっと大きな商いになると踏んだ。横川竟氏が早朝の築地で身につけた仕入れと薄利多売の勘が、そのまま郊外チェーンの標準化へつながったとみることができる。

もっとも、この一歩が草分けの栄光だけをもたらしたわけではない。家族の外食を切り開いた業態は二十年ほどで疲れ、すかいらーく自身が低価格のガストへ看板を掛け替え、やがて創業家は経営の座を離れていった。生業を捨てて別の生業へ移る決断は、一度きりでは終わらず、その後も繰り返し同社に転換を迫ることになる。祖業を手放せた身軽さは、祖業に安住できない性でもあった——すかいらーくの出発点は、その両義を早くから抱えていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

団地前の食料品店ことぶき食品

すかいらーくの前身は、1962年4月に東京都保谷町のひばりが丘団地前で開いた食料品店、ことぶき食品有限会社であった。長野県諏訪から出た横川端氏・茅野亮氏・横川竟氏・横川紀夫氏の四兄弟が、資本金200万円で小さな店を構えた。三男の横川竟氏が早朝の築地市場へ仕入れに走り、干物や塩鮭を店頭に並べる家族経営の商いから始まっている。日本住宅公団の大規模団地に暮らす主婦客をつかみ、店は繁盛していた[1][2]

もっとも、個人商店としての先行きは明るいものではなかった。1960年代後半に大型のスーパーマーケットが郊外へ広がると、量販の安さが小さな食料品店を圧し、値段だけでは太刀打ちしにくくなっていた。折しも高度成長は自家用車と外食の習慣を家庭へ行き渡らせつつあり、四兄弟は縮む小売より広がる外食にこそ次の商機があるとみた。1969年7月には会社を有限会社から株式会社へ改め、多店舗展開に耐える器を先に整えている[3]

決断

ファミリーレストラン「すかいらーく」への転身

転身を目に見える形にしたのが、1970年7月7日に東京都府中市で開いたファミリーレストラン「すかいらーく」第1号店であった。店名は創業の地ひばりが丘団地にちなみ、ヒバリの英語名から採っている。広い駐車場を備え、家族連れが自家用車で訪れる郊外立地は当時の日本にほとんど例がなく、のちに日本初のファミリーレストランと呼ばれた。子どもに人気のハンバーグとエビフライを一皿に盛る献立も、外食を家族のものにする工夫であった[4][5]

すかいらーくが掲げたのは、家庭では味わえない本格的な料理を手頃な価格で出すという考え方であった。米国のチェーン経営に倣って調理や店づくりを標準化し、多店舗に同じ味とサービスを行き渡らせる仕組みを敷いた。小売で培った早朝仕入れと薄利多売の勘所を、外食の量産へ移し替えた形でもある。食料品を並べて売る商いから、料理を作り場とともに売る商いへ、四兄弟は生業の軸そのものを移した[6]

結果

郊外型チェーンの確立とその後

新業態は時代の流れに乗って伸びた。1974年11月に社名を株式会社すかいらーくへ改めて社名と看板を一致させ、1977年には埼玉県東松山市にセントラルキッチンを設けて調理を集中し、各店へ半製品を配る供給体制で出店の速度を上げた。1978年に株式を店頭登録したのち、1982年に東証二部、1984年には一部へと駆け上がる。保谷の食料品店は、創業から二十余年で外食を代表する上場企業へと育っていった[7]

ファミリーレストランという業態を産業として根づかせた一方、すかいらーくは次の難所も抱えることになる。1992年には低価格の「ガスト」を投じて主力業態そのものを入れ替え、2006年には創業家と投資ファンドによる大型のMBOでいったん株式市場を退いた。生業を大胆に作り替える身のこなしは、食料品店から外食へ移ったこの最初の転換に始まっている。草分けとしての強みと、絶えず自らを壊す性とが、同じ一歩から生まれていた[8]

出典・参考

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