太陽誘電「脱磁器コンデンサ」方針の表明と新製品領域への多角化

売上の45%を占める祖業をみずから細らせるか、専業のまま単価下落に耐えるか

時期 1972年1月
意思決定者(推定) 佐藤彦八 社長
論点 主力製品の値崩れと製品構成の組み替え
概要
創業者の佐藤彦八社長は、1971年12月14日の日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演で「脱磁器コンデンサ」を掲げ、その要旨が証券アナリストジャーナル1972年1月号に載った。磁器コンデンサの売上構成比45%を今後30%以下へ下げ、アルミ固体電解コンデンサ・正特性サーミスタ・回路のユニット化など新製品へ比重を移す方針を対外的に示した経営判断であった。
背景
1950年3月に磁器コンデンサメーカーとして発足した同社の主力製品は、過当競争で単価が1個1円60銭程度まで下がり、たばこ1本の半値以下という水準に沈んでいた。1964年に設けた技術研究所には約150人が在籍し、新製品を出す備えだけは整っていた。
内容
二酸化マンガンを用いたアルミ固体電解コンデンサ、チタン酸バリウム系のセラミックスによる正特性サーミスタ、セラミックフィルタ、混成ICを新しい柱に据え、部品単体ではなく回路のユニットで売る方向も打ち出した。ユニット製品には自社部品を6割以上組み込むことを条件とした。
含意
方針の直後に第1次石油危機が重なり、1975年2月期は経常損益が7億円の赤字に沈んだ。それでも材料から設計し直す構えは残り、1984年のニッケル電極による大容量MLCCの世界初商品化につながった。祖業の比率を自ら下げる方針が、後年の技術的な立ち位置を用意したとみることができる。
筆者の見解

稼ぎ頭を細らせるという設計

この判断を、値崩れした事業からの逃避と読むと見誤る。佐藤彦八社長が1971年末の講演で示したのは、磁器コンデンサの売上構成比45%を今後30%以下へ下げるという、祖業をみずから細らせる数値目標であった。撤退ではなく比率の設計として語られたところに、この方針の性格がうかがえる。どの部門でも利益が出る状態を衰退の兆しとみなし、利益の出ない部門を五つ抱えていた同氏にとって、稼ぎ頭の縮小は矛盾ではなかったとみられる。

もっとも、方針を掲げた直後の成績は芳しくなかった。1975年2月期の売上高は106億円へ落ち、経常損益は7億円の赤字に沈み、1978年には希望退職者200名の募集に至った。製品を増やしても、輸出の比重が重い会社が景気と為替の振れから逃れることはなかった。それでも材料から設計し直す構えは1984年のニッケル電極MLCCに実を結ぶ。何を作るかより、どの材料まで自前で握るかを先に決めた点に、この方針の射程があったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

磁器コンデンサ専業として築いた足場

太陽誘電は1950年3月、磁器コンデンサとステアタイト磁器絶縁体の生産をもって発足した。同年9月にはチタン酸バリウムを用いたセラミックコンデンサを商品化し、誘電体材料の研究から製品へ至る道筋を最初に定めている。1956年に高崎工場を新設して量産の設備を整え、1967年5月には全額出資で台湾太陽誘電を設立した。1970年3月には東京証券取引所市場第二部へ株式を上場している[1][2]

ところが足場としたその市場は、佐藤彦八社長の言葉を借りれば「あまりにも過当競争が激しい」場所になっていた。1971年末の磁器コンデンサの単価は1個1円60銭程度まで下がり、たばこ1本の半値以下という水準に沈んでいる。部品1個あたりの利幅が薄れれば、量産設備を積み増すほど収益は振れやすくなる。同社は1964年に技術研究所を設け、約150人を新製品の研究と開発にあてる体制だけは先に用意していた[3][4]

決断

祖業の比率を下げるという目標

佐藤社長が磁器コンデンサから脱け出すことを考え始めたのは、1971年末の講演から数えて5年ほど前にあたる。自社の技術で新しい製品を作り出す努力を重ねた結果、同社は「ほぼ脱磁器コンデンサといえる状況になってきた」と本人が語る地点まで来ていた。磁器コンデンサの売上構成比はすでに45%程度へ下がっており、佐藤社長はこれを今後30%以下へ持っていきたいと述べた。祖業の比率を下げること自体を、社外に向けた目標として置いた[5]

この方針の下地には、一つの製品に頼る会社は危ういという佐藤社長の見方があった。同氏は講演で、会社が生き残る道は「技術の勝利以外にない」と述べ、材料と技術を活かしていろいろな製品を開発することを生きる道と呼んでいる。どの部門でも利益が出る状態になれば5年後に企業は衰える、という考えから、利益の出ない部門を五つほど置き、そこへ人員の約1割を割いてもいた。稼ぐ部門だけで固めない配置であった[6]

単体の部品から複合の製品へ

新しい柱の筆頭はアルミ固体電解コンデンサであった。電解液を封じ込める代わりに、固体半導体である二酸化マンガンをアルミ板の小片に形成させたもので、従来の電解コンデンサより性能が優れると佐藤社長は説明している。国内では同業3社のうち生産量が最も多く、月産400万個・金額で約4,000万円に達していた。基本特許は米国企業が握っていたが、オランダの電機メーカーから技術供与の申し入れを受け、クロスライセンスの交渉に入っていた[7]

チタン酸バリウム系の半導体磁器を使う正特性サーミスタは電子ジャーなどに採用され、前期まで売上に立たなかったものが1971年8月期に約9,000万円、1972年2月期には2億5,000万円へ伸びる見込みとなった。回路のユニット化も方針の一部で、カラーテレビのひずみ補正回路をユニットにまとめる際、佐藤社長は自社部品を6割以上組み込むことを設計の条件に挙げている。単体で売っていては商売にならないという見立てであった[8][9]

結果

石油危機と、材料へ戻る技術

方針を掲げた直後の数年は追い風を受けた。1973年1月に東京証券取引所市場第一部へ指定され、売上高は1972年2月期の86億円から1974年2月期には141億円、経常利益も12億円から19億円へ伸びている。ところが第1次石油危機を挟んだ1975年2月期には売上高が106億円へ落ち込み、経常損益は7億円の赤字に転じた。1978年には円高への対応として希望退職者200名を募っている[10][11]

それでも、材料から作り替えるという構えは残った。1984年7月、内部電極にニッケルを用いた大容量の積層セラミックコンデンサを世界で初めて商品化する。パラジウムより安いニッケルは焼成時に酸化しやすく、還元雰囲気で焼ける誘電体の組成を一から設計する必要があった。1982年のオーディオテープ、1988年のCD-Rと消費財にも広げ、光記録メディアからは2015年に退いたが、材料を握って部品を作る型は今日まで残った[12][13]

出典・参考

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