東京精密高圧流量式空気マイクロメータの日本初工業化と、切削工具から精密測定機器への主力転換

工具を削る会社にとどまるか、削った寸法を測る会社になるか——町工場が売り物を入れ替えるまで

時期 1953年1月
意思決定者(推定) 諫早艮三 社長
論点 主力製品の組み替えと精密測定機器への専業化
概要
ミシン加工用の切削工具から出発した東京精密工具は、1952年10月に空気マイクロメータの試作を終え、翌1953年1月にこれを市販した。高圧流量式空気マイクロメータの我が国初の工業化であり、当時の社長は1950年に就いた諫早艮三氏であった。自社の削り上げた寸法を検める道具を、売り物へ裏返した判断であった。
背景
1949年3月に資本金160万円で設立された同社は、ミシン加工用の切削工具・精密部品・治具類の製作販売で立っていた。1950年10月に鉱山用スチールビット、翌1951年9月にはメカニカルゲージを利用した各種測定器へ手を広げ、削る道具から測る道具へ業容がにじみ出していた。
内容
空気の流量を介して微小な寸法差を非接触で読む空気マイクロメータを、日本で初めて工業製品として供給した。1957年10月には差動変圧式電気マイクロメータの日本初工業化にも成功し、空気式・電気式の二つを量産する精密測定機器メーカーへ主力を移した。
含意
1962年4月に商号から「工具」の二字が落ち、同年8月に東証二部へ上場した。測る技術はゲルマニウムペレット選別機やウェーハ加工装置へ広がり、半導体製造装置事業の源流となる。売り物の入れ替えが、のちの二本柱経営へつながったとみることができる。
筆者の見解

売り物が入れ替わるということ

空気マイクロメータの工業化は、新技術の開発に成功した一件として読むと、判断の性格を取り違える。切削工具屋にとって測定器は、本来は自社が削り上げた寸法を検めるための道具であって、外へ売るものではなかった。東京精密工具は1952年10月に試作を終え、翌1953年1月にそれを市販へ回す。検査の道具を商品へ裏返したところにこの判断の芯があり、1962年4月に社名から「工具」の二字が落ちたことが、その帰結を端的に示している。

もっとも、売り物が入れ替わるまでには長い時間がかかっている。市販から電気マイクロメータの工業化までに五年、社名変更までは九年を要した。その間に社長は東島好蔵氏から諫早艮三氏、高城誠氏へと替わっており、ひとりの経営者の構想として描くには無理がある。主力が移るのは宣言によってではなく、隣に置いた商品が積み重なって古い商品を追い越したときであるとみられる。同社の1953年は、その追い越しが始まった年として読むことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

切削工具屋としての出発

東京精密の源流は、1939年に日本電力の子会社として設立された東京航空機械にさかのぼる。戦時中は豊川海軍工廠の専属工場として切削工具を納め、戦後もその技術を引き継いだ。1949年3月、資本金160万円の東京精密工具として再出発し、ミシン加工用の切削工具・精密部品・治具類の製作販売を商いとした。加工精度を極限まで追い込む町工場としての出自が、この会社の原型であった[1][2]

転機の芽は、工具そのものではなく隣の領域にあった。1950年10月に鉱山用スチールビットおよび各種精密部品、翌1951年9月にはメカニカルゲージを利用した各種測定器の製作へ手を伸ばし、削る道具から測る道具へと業容がにじみ出していく。同じ1950年には諫早艮三氏が社長に就いた。創業から二代目の経営者が、切削工具一本ではない品揃えを引き継いだ形であった[3][4]

決断

検査の道具を売り物へ

空気マイクロメータは、ノズルから吹き出す空気の流量を介して微小な寸法差を非接触で読み取る測定器である。原理は知られていたものの、当時の日本で工業製品として供給する企業はなかった。東京精密工具は1952年10月に試作を完了し、翌1953年1月に市販を始める。高圧流量式空気マイクロメータの我が国初の工業化であり、切削工具屋が自社の削り上げた寸法を検める道具を、そのまま売り物へ転じた判断であった[5][6]

1950年代の同社は通商産業省や工業技術院の協力を得て技術の底上げを図り、1955年に高城誠氏が社長へ就く。その二年後の1957年10月には、差動変圧式電気マイクロメータの日本初工業化にも成功した。空気式に続く電気式の量産化により、測定器は切削工具の傍らで作る派生商品ではなくなる。工具を削る事業から、削った寸法を測る事業へ、主力製品が一段組み替わったとみることができる[7][8]

結果

社名から落ちた「工具」の二字

測定技術への評価は外部からも届いた。1959年4月、差動変圧器を利用した自動定寸装置の研究で精機学会から明石記念賞を受ける。1960年7月には恒温恒湿の変温室を備える三鷹本社工場新館が完成して生産力が増し、翌1961年10月には米国テクニ・ライト社を通じて対米輸出が始まった。国内で立ち上げた測定器が、海外の需要家にも届く商品になっていた[9]

1962年4月、商号から「工具」の二字が落ちて東京精密となり、同年8月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。創業時160万円の資本金は増資を重ねて1966年8月に2億5500万円へ膨らみ、1968年3月期には売上高9億3200万円・利益5600万円、同年9月期には売上高が10億円台に乗る。主たる需要家は自動車と電子工業界で、両業界の活況が測定機器の需要を支えていた[10][11]

測る技術が半導体へ伸びる

測る技術の応用先は、やがて半導体材料へ向かった。1958年に世界初のゲルマニウムペレット厚さ自動選別機、1963年に日本初のウェーハスライシングマシン、1964年に日本初のウェーハプロービングマシンを相次いで開発する。1964年には中国と電気・空気マイクロメータのプラント技術輸出契約も結んだ。ミクロンを測る技術が、半導体の素材を切り分け選び出す装置へ横に伸びていった[12]

1969年には日本初の三次元座標測定機を開発し、精密測定機器の専業メーカーとしての形が固まる。1992年の米シリコン・テクノロジー買収による半導体製造装置事業への本格参入も、この延長線上にあった。同社はいまも「測れないものは、つくれない。」を掲げ、創業当初から培った測る技術を精密測定機器と半導体製造装置の両輪に据えている。1953年に売り物へ変えた技術が、そのまま会社の核として引き継がれた[13][14]

出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 東京精密 有価証券報告書【沿革】
  • 東京精密 公式サイト「沿革」(https://www.accretech.com/jp/company/history.html)
  • 東京精密 統合報告書2025

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