1937年5月、広島県呉の海軍工廠で働いていた関家三男が独立し、工業用砥石を製造販売する個人商会『第一製砥所』を創業した。広島県呉は海軍の軍港として軍需工場が集積しており、主な仕事は海軍向けの砲弾を磨くための工業砥石の生産だった。関家三男自身は技術者ではなく、職人を雇って工場を運営する経営者型の創業者だったと伝えられている。後発参入で受注には苦労したとされ、終戦までは中小の下請け事業者として運営されていた。戦時経済下で軍需に支えられた小規模事業者は全国に数多く存在したが、戦後までこの事業形態が続いた点に、関家三男の経営者としての粘り強さが表れている。呉の軍需集積地帯で始まった砥石屋という出発点は、後年の半導体装置メーカーとしての姿からは想像しにくい佇まいであった。 [1][2][3]
創業の動機は砥石そのものへの愛着ではなかった。関家三男は東亜同文書院を出て満洲国国務院に勤めた官吏で、軍部の強引さと官僚組織の上意下達に嫌気がさし、辞表を出して郷里の呉へ帰っている。呉の海軍工廠は大砲の製造に研削用の砥石を必要としていたが、当時の日本の製砥技術は未熟で、高品質の品はドイツからの輸入に頼っていた。需要があり、技術を改める余地も大きいと見て砥石業を選んだ。技術者ではない引け目から技術情報には敏感である必要を認め、開業3年目には本社を東京へ移した。そこへ薄い砥石を作るメーカーの身売り話が持ち込まれ、即座に引き受けて呉工場に加え東京工場を得る。薄物の製造技術を手にしたことで、関家三男の関心は研削研磨から切断へ移っていった。 [4][5][6]
戦後、第一製砥所は積算電力計の内部に使う磁石の『切断砥石』生産に方針を変えた。従来の『磨く』砥石から『切断する』砥石へ、用途を1歩ずらした領域転換だった。1.2mm間隔で磁石を切断する技術を確立し、この分野で国内シェア100%を握った。1958年11月に有限会社から株式会社へ改組、本社を東京都港区芝に移し、軍需下請けから精密切断砥石メーカーへ業態を切り替えた。創業から約20年を経て、戦後の産業再編の中で得た『切断砥石』という足場が、次の半導体時代の技術的な前身となった。軍需向け砥石という出発点から民需の精密切断領域へ主力を移した過程で培われた極薄切削のノウハウは、後にディスコが手がける精密装置群の設計思想にも受け継がれた。 [7][8]
1965年、パイロット社からペン先の溝を切る精密砥石を作ってほしいという依頼が来る。共同開発や開発費援助の申し出もあったが、関家憲一は自社単独での開発を選んだ。『当時、共同開発とか開発費援助のお話も、いろいろなメーカーからあったらしいのですが、それはお断りして、当社独自で開発しました』[引用元](関家憲一 商工ジャーナル 1995/06)。0.14mm(140ミクロン)という当時としては極薄のレジノイド砥石を独自完成させ、ペン先加工で国内市場をほぼ独占となる。ボールペンが普及するまでの十数年間、この事業がディスコの収益を支える柱となった。共同開発を断った判断は、技術を外部に渡さず内製で磨き続けるという、以後の同社の開発文化を示す場面でもある。 [9]
1968年、同社は半導体製造向け切断砥石の開発を開始する。シリコンウエハーを切断するための極薄砥石だった。1969年12月には米国にDISCO ABRASIVE SYSTEMS社を設立し、半導体メーカーが集積するシリコンバレー近傍に直販拠点を置く動きを取った。1970年9月には精密切断装置を開発・販売開始、1975年2月には半導体用ダイシングソーの販売を開始した。砥石メーカーから、砥石を搭載した精密装置メーカーへの業態転換である。1965年の万年筆向け砥石は『精密』の実績を作り、1968年からの半導体向け切断砥石は『スケール』の入口になった。2つの注文が、ディスコを別々の次元に押し上げた形である。1937年の砲弾研磨から約30年を経て、軍需・民需・ハイテクという3つの領域を縦断した経営転換が完成に近づいた。 [10][11][12][13]
米国拠点の設立は、関家憲一の回想では平坦な前進ではなかった。同氏は、ジャパックスの米国販売会社と組んでシリコン切断用の合弁会社をサンフランシスコ郊外に設けたものの、砥石を活かせる切断装置が存在せず撤退したと語っている。『ところがその砥石を活かせる切断用の機械がなくて、結局、撤退ということになりました』[引用元]『結論から先にいいますと、ディスコは、その三つを一社でやらなければいけない羽目になったのです。で、これが強みになった』[引用元](関家憲一 商工ジャーナル 1995/06)。砥石(アブレイシブ)・装置(メカトロニクス)・応用(アプリケーション)の3つを1社で担う体制へ進んだ経験が、砥石メーカーから精密装置メーカーへの転換を決定づけたという認識であり、社名ロゴの3本線はこの三位一体を示すと同氏は説明する。米国で砥石だけを売る試みがつまずいたことが、自前の切断装置の開発へ同社を向かわせた。 [14][15]
米国から引き揚げた後、ディスコは砥石を活かす機械を自前で作ると決めた。砥石屋が工作機械を手がけるという話には社内からも社外からも反対が出て、関家憲一・臣二の兄弟自身、未知の領域に踏み込む怖さを認めている。機械づくりは専門家に任せるという判断から工作機械メーカーの技術者2人を招き、砥石と装置と切断ノウハウの3つを一括で納める売り方に切り替えた。1975年、IC専用ダイシングソーDAD-2Hが完成する。同年5月、一度退いた米国のセミコン・ウエスト・ショーへ再び出品すると、引き合いは500社を超えた。顧客が求めているのは砥石そのものではなく、砥石で材料を効率よく切るという結果である──関家憲一はこの反響を受けて、装置を売る会社への転換を受け入れたと述べている。 [16][17][18]
1977年4月、同社は商号を『株式会社ディスコ』に変更した。『第一製砥所』という砥石屋の名前から、半導体装置メーカーとしてのブランドに切り替える節目である。ディシング(切断)とディスク(砥石)を連想させる社名で、事業の実態と顧客層に合わせた改称だった。1979年2月にはシンガポール駐在員事務所を開設し、同年9月にはHelmut Seier氏との共同出資でスイスにDISCO SEIER AGを設立する。米国・東南アジア・欧州の3地域に販売網を同時に張る体制が1970年代末には整った構図である。半導体産業そのものが日米欧で同時並行に立ち上がっていた時期であり、直販拠点を各地域に置くことで、主要顧客との距離をできるだけ短く保つ戦略が打ち出された。稼働後の微調整や消耗品供給が収益を支える構造のなかで、近接した直販網が収益を直接支えた。 [19][20][21]
1980年1月、ディスコは精密平面研削装置を開発・販売開始する。『切る』に加えて『削る』工程も自社装置でカバーする体制の第一歩である。同じ1980年、ダイシングソーの世界シェアは約60%に達していた。テキサス・インスツルメンツ、モトローラ、フェアチャイルドといった当時の米半導体大手が主要顧客として名を連ねていた時期である。半導体前工程の中でも特にウエハー切断という工程に特化し、他社が参入しない極薄切削の技術で優位を築いていく構造は、ほぼ固まっている。ウエハー切断という地味な工程を専業メーカーが深く掘り下げることで、大手装置メーカーが手を出しにくいポジションを得た構図である。1968年の切断砥石開発から約12年、ディスコは世界トップのダイシングソーメーカーへ成長した。 [22][23]
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|---|---|---|---|---|
| 1937〜1979年砲弾研磨から万年筆・ウエハー切断への転換 | 関家三男が広島県呉で第一製砥所を個人創業 | ★ | ||
| 第一製砥所に組織変更 | ★ | |||
| 積算電力計磁石向け切断砥石を開発 | ★ | |||
| 有限会社第一製砥所を株式会社に改組 | ★ | |||
| 万年筆ペン先向け0.14mmレジノイド砥石を独自開発 | ★ | |||
| 半導体製造向け切断砥石の開発を開始 | ★★ | |||
| DISCO ABRASIVE SYSTEMSを設立 | ★ | |||
| 精密切断装置を開発・販売開始 | ★★ | |||
| 切断装置の自社開発と、砥石・装置・使い方を一社で担う体制への転換 砥石メーカーであった第一製砥所は、自社の極薄切断砥石を使いこなす装置を自ら設計し、1975年2月に半導体用ダイシングソーの販売を始めた。砥石・装置・使い方の三つを一社で担う体制へ移り、1977年4月には商号をディスコへ改めている。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 商号をディスコに変更 | ★ | |||
| シンガポール駐在員事務所を開設 | ★ | |||
| スイスにDISCO SEIER AGを共同出資で設立 | ★ | |||
| 1980〜2007年拡散炉の失敗と経営理念体系化 | ダイシングソー世界シェア約60%を確立 | ★ | ||
| 独にDISCO DEUTSCHLAND GmbHを設立 | ★ | |||
| 関家憲一氏が第2代社長に就任 | ★ | |||
| 産業用ダイヤモンド工具事業に参入 | ★★ | |||
| 日本証券業協会の店頭売買銘柄として株式公開 | ★ | |||
| DISCO HI-TEC EUROPE GmbHを100%子会社化、欧州本社をスイスから独に移転 | ★ | |||
| 半導体拡散炉事業からの撤退と開発費約50億円の損失計上 ディスコは1990年代の初めに、半導体製造の前工程で使う拡散炉(熱処理炉)の事業から撤退し、十年で投じた約50億円の開発費を損失として確定させた。ダイシングソーで後工程の寡占を築いた同社が、前工程へ広げた唯一の飛び地を畳んだ判断で、決めたのは創業者の跡を継いだ関家憲一社長であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 賃金カット・残業規制・早期退職制度を導入 | ★★ | |||
| 「Disco Values」を制定 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 溝呂木斉 | 非同族の溝呂木斉氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 溝呂木斉 | 精密切断装置としてレーザソーを開発・販売 | ★★ | ||
| 溝呂木斉 | 全自動グラインダ/ポリッシャ装置を開発・販売 | ★ | ||
| 溝呂木斉 | 市況の谷でも黒字を保つ収益構造への作り替えと、経費管理レベルの導入 ディスコは2007年1月、シリコンサイクルの谷でも黒字を確保できる体質を2010年までに作ると対外的に表明した。全部署への経費削減の義務づけ、カイゼン活動のPIM化、部門別のWill会計、営業利益率に連動する経費の段階管理を重ねた作り替えであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 溝呂木斉 | 販売拠点としてDISCO HI-TEC TAIWANを設立 | ★ | ||
| 2008〜2022年リーマン・ショック後の自律経営と生成AI時代への助走 | 関家一馬 | 関家一馬氏(同族としては第3代)が社長に就任 | ★ | |
| 関家一馬 | ダイシングソー世界シェア約70%まで拡大 | ★ | ||
| 関家一馬 | 社内通貨Willによる個人単位の管理会計の導入 ディスコは2011年、社内通貨Willで社内取引を記録する管理会計の単位を、部門から個人まで下ろした。社内の仕事はオークション形式で落札され、業務や備品はすべて金額に換算される。1993年の管理会計導入から数えて三段階目にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 関家一馬 | 社内の仕事をオークション形式で落札する制度を開始 | ★★ | ||
| 関家一馬 | DISCO HI-TEC Singapore One-Stop Solution Centerを建設 | ★ | ||
| 関家一馬 | 長野事業所を開設 | ★ | ||
| 関家一馬 | 羽田R&Dセンターを開設 | ★ | ||
| 関家一馬 | 羽田R&Dセンター新棟の建替を決定 | ★ | ||
| 関家一馬 | 研究開発用不動産を約500億円で取得 | ★ | ||
| 関家一馬 | 広島事業所に新工場の建築を決定 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ディスコ)