芝浦メカトロニクス の歴史

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創業 1939年
母体 東芝鶴見工場由来
創業地 神奈川県横浜市
創業
1939年10月、東京芝浦電気が機械・兵器部門を分離し、資本金500万円の株式会社芝浦京町製作所として設立された。創業者個人を持たず、東芝鶴見工場の建屋と設備を借り、従業員600名も東芝から引き継いでいる。同年12月に芝浦製作所へ商号を改め、戦時下は軍需生産にあたった。戦後は小型電動機で立て直し、1969年10月に東京証券取引所第二部へ上場、1972年2月に第一部へ指定替えとなった。1991年10月には徳田製作所と合併して真空機器を加えている。ただし発注元は長く東芝グループに偏り、自前で顧客を開拓する営業は育たなかった。
決断
主力の入れ替えは、いずれも親会社である東芝の側の都合から始まった。1998年10月、エアコン用モータの需要減退と韓国経済危機で単独での競争力を保てなくなり、東芝グループの整理のなかで東芝メカトロニクスと合併して液晶製造装置へ参入し、商号を芝浦メカトロニクスへ改めた。続く2001年1月には自販機やモータ応用機器を本体の外へ移し、開発と組立で付加価値を作る装置事業だけを本体に残した。2013年6月就任の藤田茂樹社長は半導体・FPD・電子部品の同時失速を受けて半導体製造装置へ経営資源を集め、ファインメカトロニクスの売上比率を53%から59%へ、営業利益率を2.3%から7.5%へ引き上げた。二度の整理を経て、東芝の発注に応える工場は、外部の半導体メーカーへ直接装置を納める会社に変わった。
現況
売り先はもはや東芝ではなく、台湾と中国の量産工場である。2026年3月期の売上高880億円のうち台湾359億円・中国259億円で7割を占め、日本は213億円にとどまる。洗浄・エッチングを担うファインメカトロニクスが522億円でセグメント利益81億円、ボンディングと真空応用のメカトロニクスシステムが314億円で同78億円と、後者は売上を38%伸ばして利益で前者に並んだ。2023年8月に東芝グループが残る保有株70万3,500株を約175億円で売り出し、創業以来の筆頭株主が入れ替わっている。親会社の発注で立っていた売上は、台湾の量産工場の設備投資に連動する構造へ移った。
競合
規模で7倍離れた相手と、同じ洗浄装置の市場で向き合っている。2026年3月期の売上高は、洗浄装置で世界首位の枚葉式ウエハ洗浄へ転換したSCREENホールディングスが6,057億円、コータ・デベロッパから洗浄まで揃える消費財輸出から撤退して装置に絞った東京エレクトロンが2兆4,435億円で、芝浦メカトロニクスの880億円とは桁が違う。芝浦が競争優位を保つのは研磨後の枚葉式洗浄とEUV対応のフォトマスク洗浄という狭い区画で、装置の品目を広げないまま世界首位を占める。品目を増やさず一工程に残ったことが、売上で7分の1の会社に営業利益率17%を残した。
芝浦メカトロニクス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

設立ストーリー 東芝鶴見工場からの分社と軍需・小型電動機事業を経た芝浦製作所期 (1939年〜)

東芝鶴見工場の分社という出自と戦時下の軍需生産

1939年10月12日、東京芝浦電気(現・東芝)が兵器・機械部門を分離独立させる形で、株式会社芝浦京町製作所が資本金500万円で設立された。出資は東芝が98%にあたる9万8800株を引き受け、残る1200株も東芝の関係者が分け持つ実質100%出資の子会社で、創業者個人を持たず東芝鶴見工場の機械製造機能を母体として生まれた法人である。横浜市鶴見区の東芝鶴見工場の五号館・十号館を機械設備ごと借り受け、従業員600名も東芝から引き継いで同年12月に操業を開始した。同月21日には、明治以来半世紀にわたり強電・機械・兵器を手がけた旧芝浦製作所の由緒ある社名を継ぐ形で、商号を株式会社芝浦製作所へ改めた。発足時は社長を置かない会長制をとり、東芝取締役を兼ねる百田貞次氏が代表取締役会長に就いた。 [1][2][3][4][5]

  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1939年10月12日 株式会社芝浦京町製作所を資本金500万円で設立(東京芝浦電気鶴見工場の一部を借用して操業開始)
    • [4]1939年12月(21日)商号を株式会社芝浦製作所へ変更
  • 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
    • [2]設立時の出資は東芝が98%(9万8800株)、残り1200株も東芝関係者が引き受け実質100%出資
    • [3]東芝鶴見工場の五号館・十号館を借用し、従業員600名を引き継いで1939年12月に操業開始
    • [5]発足時は会長制をとり、百田貞次が代表取締役会長(東芝取締役兼任)に就任

創業当初の生産は軍需関連が全体の約7割を占め、鶴見工場では電磁チャックや各種電動機、航空機用電気機器を手がけた。1940年8月には川崎工場が操業を開始し、慣性起動電動機や航空機用無線電源などほぼ軍需品に特化した拠点として、海軍管理工場の指定を受けた。1942年1月には大船工場(現・横浜事業所)が操業を始め、主力工場の体制が整った。1943年9月には福井県の酒伊繊維工業小浜工場を買収し、海軍機向け慣性起動電動機の生産拠点に転用した。三菱・松下との争奪戦のなか、設立間もない産業設備営団から第一号の許可を取り付け、現金1350万円を即日工面して買収を成立させたのは、西野経理部長(後の社長)の機略によるものであった。 [6][7][8][9][10]

  • 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
    • [6]創業当初の生産割合は軍需関係が全生産高の約7割
    • [7]1940年8月 川崎工場が操業開始、海軍管理工場の指定を受ける(軍需品に特化)
    • [10]小浜工場買収は三菱・松下との争奪戦のなか、産業設備営団第一号の許可で現金1350万円を工面して成立(西野経理部長=後の社長による)
  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1942年1月 大船工場(現・横浜事業所)の操業開始
    • [9]1943年9月 小浜工場(酒伊繊維工業小浜工場を買収)の操業開始
  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1939年10月12日 株式会社芝浦京町製作所を資本金500万円で設立(東京芝浦電気鶴見工場の一部を借用して操業開始)
    • [4]1939年12月(21日)商号を株式会社芝浦製作所へ変更
    • [8]1942年1月 大船工場(現・横浜事業所)の操業開始
    • [9]1943年9月 小浜工場(酒伊繊維工業小浜工場を買収)の操業開始
  • 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
    • [2]設立時の出資は東芝が98%(9万8800株)、残り1200株も東芝関係者が引き受け実質100%出資
    • [3]東芝鶴見工場の五号館・十号館を借用し、従業員600名を引き継いで1939年12月に操業開始
    • [5]発足時は会長制をとり、百田貞次が代表取締役会長(東芝取締役兼任)に就任
    • [6]創業当初の生産割合は軍需関係が全生産高の約7割
    • [7]1940年8月 川崎工場が操業開始、海軍管理工場の指定を受ける(軍需品に特化)
    • [10]小浜工場買収は三菱・松下との争奪戦のなか、産業設備営団第一号の許可で現金1350万円を工面して成立(西野経理部長=後の社長による)

苦難の戦後再建と小型電動機事業の確立

終戦により軍需を失った芝浦製作所は、民需への転換と過剰な人員・設備の整理という二重の試練に直面した。1948年には人員整理をめぐって労使が激しく対立し、組合の無期限ストに会社が工場閉鎖で応じる争議へ発展した。資本構成は1948年から1950年まで自己資本がマイナスに陥り、破産寸前の経営が続いた。会社は川崎・大森・小浜・大船の各工場や用地を相次いで売却して退職金と運転資金を捻出し、1951年にようやく自己資本がプラスへ転じて経営の一本立ちを果たした。買い手が少なく安値での処分となった工場売却は、戦後復興期の経営再建の厳しさを示している。 [11][12][13]

  • 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
    • [11]1948年(昭和23年)人員整理をめぐる労使対立が組合の無期限スト・会社の工場閉鎖へ発展
    • [12]資本構成は1948〜1950年(昭和23〜25年)自己資本がマイナス、1951年(昭和26年)にプラス転換し一本立ち
    • [13]川崎・大森・小浜・大船の各工場・用地を相次いで売却して退職金・運転資金を捻出

戦後復興のなかで芝浦製作所の再生を支えたのが、小浜工場を拠点とする小型電動機事業であった。東芝の石坂泰三会長による『洗濯機用モータと家庭用電動井戸ポンプをつくらせよ』[引用元]との指示を受けて家電向けモータの生産に踏み出すと、1952年ごろに月2000〜3000台だった生産は、家電普及の波に乗って1969年度には月産30万台へ拡大した。戦時に手がけた人絹ポットモータも好評を得て国内の人絹工場で全面採用され、海外市場へも進出した。高度経済成長期を通じて芝浦製作所は、東芝の家電・電子部品向け製造設備と小型モータの供給元としてグループ内の機械事業の中核を担い、量産技術を蓄積した。 [14][15][16]

  • 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
    • [14]東芝の石坂泰三会長の指示で洗濯機用モータ・家庭用電動井戸ポンプの生産を開始
    • [15]小浜工場の家電向けモータ生産は1952年ごろ月2000〜3000台から1969年度に月産30万台へ拡大
    • [16]人絹ポットモータが国内の人絹工場で全面採用され海外市場へも進出

事業基盤の確立を受けて、1969年10月、芝浦製作所は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。創業から30年の節目で、東芝系の機械製造機能を独立した上場会社として運営する体制が整い、株式公開による資金調達と知名度向上の道を開いた。上場当時の主力は東芝向けの製造設備と家電用小型モータで、小浜工場のモータ生産は量産規模を年々拡大させていた。1972年2月には東京証券取引所市場第一部への指定替え上場を果たし、主要市場への昇格を実現した。東芝という強力な販売先を後背に持ちながら、上場会社として自立した経営基盤を固めていく時期であった。 [17][18]

  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1969年10月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
    • [18]1972年2月 東京証券取引所市場第一部に指定替え上場
  • 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
    • [11]1948年(昭和23年)人員整理をめぐる労使対立が組合の無期限スト・会社の工場閉鎖へ発展
    • [12]資本構成は1948〜1950年(昭和23〜25年)自己資本がマイナス、1951年(昭和26年)にプラス転換し一本立ち
    • [13]川崎・大森・小浜・大船の各工場・用地を相次いで売却して退職金・運転資金を捻出
    • [14]東芝の石坂泰三会長の指示で洗濯機用モータ・家庭用電動井戸ポンプの生産を開始
    • [15]小浜工場の家電向けモータ生産は1952年ごろ月2000〜3000台から1969年度に月産30万台へ拡大
    • [16]人絹ポットモータが国内の人絹工場で全面採用され海外市場へも進出
  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1969年10月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
    • [18]1972年2月 東京証券取引所市場第一部に指定替え上場

モーター事業の高度化と真空・半導体装置への布石

1980年代の芝浦製作所は、蓄積した小型モータ技術をもとに高付加価値の新型モータを相次いで開発した。1982年には独自の鉄芯構造で小型・薄型化と長寿命を実現した『RPモータ』を、1983年には制御回路を組み込んだ『ICモーター』を相次いで商品化し、いずれもヒット商品となった。さらに回転数を任意に設定できるステッピングモーターはフロッピーディスク・ドライブや産業機械向けに需要を伸ばし、新製品開発室のベストセラーへ育った。たばこ自動販売機やウォータージェットカッター、直交ロボットといった機器類も収益源に加わった。1990年6月には東芝取締役で関西支社長の鈴木三郎氏が社長に就任し、渡辺亮前社長は相談役へ退いた。この時期も東芝が株式の61.6%を保有する東芝系企業であった。 [19][20][21][22]

  • 日本の経営者 平成5年版(時評社・1992年)
    • [19]1982年(昭和57年)「RPモータ」、1983年(昭和58年)「ICモーター」を商品化しヒット
    • [20]ステッピングモーターがフロッピーディスク・ドライブ・産業機械向けに需要拡大(新製品開発室のベストセラー)
    • [21]1990年6月 東芝取締役・関西支社長の鈴木三郎が社長に就任、渡辺亮前社長は相談役へ
    • [22]1992年当時、東芝が芝浦製作所株式の61.6%を保有

モータ事業で量産技術を磨く一方、芝浦製作所は半導体産業の成長を見据えて精密機械への布石を進めた。1991年10月には真空機器に強みを持つ徳田製作所と合併し、真空機器システム事業部・相模工場として継承するとともに芝浦エレテックを子会社化して、後の半導体製造装置事業の基盤となる技術を取り込んだ。1993年6月に芝浦自販機、1994年4月に芝浦エンジニアリングを設立するなど機能別の分社で事業構造を整理し、1997年7月には本社事務所を東京都品川区へ、本店を神奈川県横浜市へ移した。製造機能を横浜の大船工場に集約しつつ管理機能を分散させる二地点体制を整え、東芝系企業としての位置付けを保ったまま、モータから精密装置へと主力を移す1998年の決定的再編に備える時期であった。 [23][24][25]

  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1991年10月 徳田製作所と合併(真空機器システム事業部・相模工場として継承)し芝浦エレテックを子会社化
    • [24]1993年6月 芝浦自販機を設立、1994年4月 芝浦エンジニアリングを設立
    • [25]1997年7月 本社事務所を品川区へ移転し本店を神奈川県横浜市へ移転
  • 日本の経営者 平成5年版(時評社・1992年)
    • [19]1982年(昭和57年)「RPモータ」、1983年(昭和58年)「ICモーター」を商品化しヒット
    • [20]ステッピングモーターがフロッピーディスク・ドライブ・産業機械向けに需要拡大(新製品開発室のベストセラー)
    • [21]1990年6月 東芝取締役・関西支社長の鈴木三郎が社長に就任、渡辺亮前社長は相談役へ
    • [22]1992年当時、東芝が芝浦製作所株式の61.6%を保有
  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1991年10月 徳田製作所と合併(真空機器システム事業部・相模工場として継承)し芝浦エレテックを子会社化
    • [24]1993年6月 芝浦自販機を設立、1994年4月 芝浦エンジニアリングを設立
    • [25]1997年7月 本社事務所を品川区へ移転し本店を神奈川県横浜市へ移転

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芝浦メカトロニクスの沿革1939〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1939〜1997年東芝鶴見工場からの分社と軍需・小型電動機事業を経た芝浦製作所期芝浦京町製作所として設立★★
芝浦製作所に商号変更
大船工場操業開始
小浜工場操業開始
東京証券取引所二部上場
東京証券取引所一部に指定替え
徳田製作所と合併し芝浦エレテックを子会社化★★
芝浦自販機を設立
芝浦エンジニアリングを設立
1998〜2009年東芝メカトロニクス合併と社名変更──芝浦メカトロニクスの誕生東芝メカトロニクスとの合併による液晶製造装置への参入と芝浦メカトロニクスへの社名変更

1998年5月12日に東芝が発表した再編スキームに沿って、同年10月1日、芝浦製作所が東芝グループの東芝メカトロニクスを吸収合併し、商号を芝浦メカトロニクス株式会社へ変更した経営判断。同じ月に主力の家電用モータ事業を新会社の芝浦電産へ営業譲渡し、半導体・液晶製造装置を柱とする会社へ移った。

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★★★
本社を移転
自販機・モータ応用機器など非中核事業の本体外への切り離しと製造装置への集中

1998年10月のモータ応用機器事業部の分離を皮切りに、1999年4月の自販機20営業所の業務移管、2001年1月の自販機事業の営業・サービス移管、2001年10月の小浜工場製造部門の移管、2005年4月のグループ会社統合まで、量産と販売の機能を段階的に子会社へ移し、本体を製造装置に絞った経営判断。

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★★★
小浜工場の製造部門を芝浦イーエムエスに移管
森田茂樹芝浦ハイテックを東芝と共同出資で設立
森田茂樹芝浦自販機が芝浦イーエムエスを合併
森田茂樹韓国芝浦メカトロニクスを増資
2010〜2025年半導体特化への事業集中と東芝離脱──独立企業化への展開南健治芝浦ハイテックを完全子会社化
今村圭吾プライム市場へ移行
今村圭吾東芝による保有株式の段階的な処分と芝浦メカトロニクスの独立企業化

1939年の設立以来、芝浦メカトロニクスの大株主であり続けた東芝が、2017年12月から2023年9月にかけて保有株式を二段階で処分し、資本関係を解消した経営判断。2018年1月の第1段階で持株比率は36.54%から約10%へ下がり、2023年8月の第2段階で東芝は保有全株を売り出した。

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★★★
出典・参考
  • 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
  • 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
  • 日本の経営者 平成5年版(時評社・1992年)

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