芝浦メカトロニクス東芝メカトロニクスとの合併による液晶製造装置への参入と芝浦メカトロニクスへの社名変更
家電用モータを守るか、製造装置の会社へ移るか——東芝発祥企業が名を替えた1998年の再編
- 概要
- 1998年5月12日に東芝が発表した再編スキームに沿って、同年10月1日、芝浦製作所が東芝グループの東芝メカトロニクスを吸収合併し、商号を芝浦メカトロニクス株式会社へ変更した経営判断。同じ月に主力の家電用モータ事業を新会社の芝浦電産へ営業譲渡し、半導体・液晶製造装置を柱とする会社へ移った。
- 背景
- 芝浦製作所のモータはエアコン向けを中心に国内シェア約4割を占めたが、需要は前年比20%前後の減少が見込まれ、好調な年でも収支の均衡がやっとであった。1997年度はモータ部門の6億円の赤字を、半導体関連部門の16億円の黒字が埋めていた。
- 内容
- 液晶パネル製造装置に強い東芝メカトロニクスを吸収合併し、自動機システム事業部・メカトロ機器事業部・さがみ野事業所として継承。東精エンジニアリングを子会社化した。新会社の売上高は1998年3月期の単純合計で約520億円(旧芝浦製作所のモータ部門を除く分が約290億円、東芝メカトロニクスが約230億円)となった。
- 含意
- 1939年に東京芝浦電気の兵器・機械部門を切り出して生まれた会社が、半世紀余り支えたモータを手放し、社名から「製作所」の三文字を外した。1998年に社名変更を実施・予定した上場・店頭公開会社33社の一例として、同時代の誌面にも記録された。
社名を返上した側の勘定
この決断の芯は、株式の61.6%を握る親会社が、発祥企業の中身を入れ替えたところにある。1997年度のモータ部門が出した6億円の赤字を、半導体関連部門の16億円の黒字が埋めていた。数字だけを見れば整理の対象ははっきりしていたが、切り離す相手は東京芝浦電気の「芝浦」の由来にあたり、東芝の重電部門の本流でもあった会社である。東芝の内山淳見副社長が、その名前がなくなることを正直に感慨深いと述べた一言に、判断の重さがうかがえる。合併相手として選ばれたのは、売上約230億円と芝浦製作所の装置部門とほぼ同じ規模の東芝メカトロニクスであった。
もっとも、この入れ替えが実を結んだと言えるのは、その後の数字を知っているからにすぎない。装置に絞った会社の最初の2年は2002年3月期・2003年3月期の連続赤字で、合併時に掲げた海外売上高比率50%前後という目標も、2006年3月期は39.5%にとどまった。それでも2005年3月期の売上高885億円は、合併時に単純合計で520億円とされた規模の1.7倍にあたる。手放したモータを引き取った日本電産の永守重信社長が営業の訪問件数を月20件から月120件へ増やすと語っていた頃、残された装置事業は顧客の設備投資の周期に業績を預ける会社へ変わっていた。1939年に東芝の兵器・機械部門として切り出された会社は、59年後に東芝への部品供給元であることをやめている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
東芝発祥企業が抱えた二本柱
芝浦製作所は1939年10月、東京芝浦電気が兵器・機械部門を分離して設立した会社で、社名は東芝の前身である旧・芝浦製作所から受け継いだ。戦後は福井県の小浜工場で作る小型電動機を頼りに再建し、東芝向けの洗濯機用モータや家庭用電動井戸ポンプへ広げた。1982年には独自の鉄芯構造で小型・薄型化した「RPモータ」を、1983年には制御回路を組み込んだ「ICモーター」を商品化し、家電用小型モータの大手へ育った。1992年時点で東芝が株式の61.6%を保有する東芝系企業であった[1][2]。
もう一方の柱が製造装置であった。1991年10月には真空機器に強い徳田製作所と合併し、真空機器システム事業部・相模工場として継承するとともに芝浦エレテックを子会社化して、後の半導体製造装置につながる技術を取り込んだ。二本柱の収益力は1990年代後半に開いた。1997年度はモータ部門が6億円の赤字を出し、半導体関連部門の16億円の黒字がそれを埋めていた。エアコンなど白物家電の売れ行きに左右されるモータは、かなり好調な年でも収支の均衡がやっとという事業であった[3][4]。
二つの逆風と、親会社の数値目標
1998年に入ると、二つの柱がそろって逆風を受けた。エアコンの需給が悪化し、一部メーカーが一時帰休の実施や雇用調整助成金の申請を検討するなかで、モータは前年比20%前後の需要減が見込まれた。液晶製造装置の側では、上得意先である韓国の経済危機が響いた。液晶の生産量で日本に次ぐ韓国向けの輸出は、当時の経済状況からみて回復を期待しにくかった。国内シェア4割を持つモータを単独で国際競争力のある事業として維持するのは難しい、という見立てがこの時期に固まった[5][6]。
親会社の側にも事情があった。1998年の東芝は、本体から空調機事業を米キャリア社との合弁へ、複写機事業をグループ会社のテックへ移し、昇降機事業と重電事業をフィンランドのコネ社・米GE社との提携でてこ入れするなど、グループの整理を急いでいた。数値としてはROE10%以上・負債比率100以下をグループ目標に掲げ、非中核の子会社の扱いが課題であった。東芝は今回の再編でこの目標を満たす見込みを得ており、芝浦製作所のモータ分離はその整理の一環に置かれた[7][8]。
決断
1998年5月12日のスキーム
1998年5月12日、東芝は芝浦製作所を二つに割る再編スキームを発表した。二本柱のうち半導体製造装置の部門は別の系列会社と合併させて存続会社とし、もう一方のモータ事業は芝浦製作所と日本電産が各40%、東芝が20%を出資する新会社「芝浦電産」へ丸ごと譲渡する内容であった。存続会社に残るのは装置事業で、社名も装置の会社にふさわしいものへ改める前提が置かれた。合併相手として指名されたのが、東芝グループで液晶パネル製造装置を手がける東芝メカトロニクスであった[9]。
東芝メカトロニクスの1998年3月期の売上高は約230億円で、モータ部門を除いた芝浦製作所の約290億円と合わせると、新会社の売上高は単純合計で約520億円となる計算であった。売上約200億円のモータを手放せば事業規模はいったん半分近くまで縮むが、ほぼ同規模の半導体製造装置を手がける相手と組むことで液晶製造装置を強化する、という組み立てである。合併により液晶の製造装置で世界的な競争力を持つ会社が生まれるとされ、海外子会社の営業・サービス拠点を共有して海外売上高比率を50%前後まで高める方針も示された[10][11]。
「製作所」を返上する
1998年10月1日、芝浦製作所は東芝メカトロニクスを吸収合併し、自動機システム事業部・メカトロ機器事業部・さがみ野事業所として継承した。合併にともなって東精エンジニアリング(現・芝浦プレシジョン)を子会社化し、商号を芝浦メカトロニクス株式会社へ改めた。同じ月にモータ応用機器事業部と小浜工場の一部を分離して芝浦電産を設立し、家電用モータの営業譲渡を実行した。液晶製造装置と半導体製造装置、電子部品向けの装置を並べる会社が、旧来の社名を離れて発足した[12]。
社名の変更には、東芝グループにとっての別の意味もついて回った。芝浦製作所は東京芝浦電気の「芝浦」の由来にあたる会社で、東芝の重電部門の本流でもあった。東芝の内山淳見副社長は、その名前がなくなることを正直に感慨深いと述べている。同じ1998年に社名変更を実施・予定した上場・店頭公開会社は33社にのぼり、1997年の25社、1996年の22社を上回った。事業内容の見直しと合併が相次いだ年の一例として、芝浦製作所の改称も同時代の誌面に並んだ[13][14]。
結果
ITバブル崩壊と、その後の回復
装置に絞った会社の出発は平坦ではなかった。半導体と液晶の設備投資はITバブルの崩壊で冷え込み、2002年3月期の連結売上高は549億円、経常損失19億円・当期純損失11億円となった。翌2003年3月期も売上高548億円で経常損失21億円・当期純損失14億円と、赤字が続いた。量産のモータを外したことで、顧客の設備投資の循環がそのまま業績に出る収益構造へ変わっていた。自己資本比率も2002年3月期には27.4%まで下がっていた[15]。
反転は2004年3月期からであった。同期の連結売上高は675億円・当期純利益9億円、続く2005年3月期は売上高885億円・当期純利益51億円と、当時の過去最高を記録した。液晶パネル基板の大型化に対応した縦型洗浄装置や配向膜インクジェット塗布装置、300ミリウェーハ対応の枚葉式ドライ・ウェット複合機、高速フリップチップボンディング装置など、合併で並んだ二系統の装置がそろって伸びた。合併時に単純合計で520億円とされた売上高は、7年で1.7倍になった[16][17]。
装置の会社として測られる
合併から8年目にあたる2006年3月期の連結売上高749億円の内訳をみると、液晶・半導体製造装置のファインメカトロニクス部門が538億円で全体の72%を占めた。メディアデバイス製造装置やレーザ応用装置の電子・真空機器部門が121億円、たばこ自販機と券売機の流通機器システム部門が70億円、不動産賃貸が18億円と続く。合併で取り込んだ液晶製造装置と、旧・芝浦製作所が育てた半導体製造装置が同じ部門にまとまり、売上の7割超を製造装置が占める会社になった[18]。
一方、合併時に掲げた海外売上高比率50%前後という目標には届いていない。2006年3月期の海外向け連結売上高は296億円で、比率は39.5%であった。台湾で凍結されていた液晶投資の再開や韓国の設備投資に支えられた年もあれば、その反動で海外が減る年もあり、比率は期ごとに振れた。液晶製造装置で世界的な競争力を持つ会社という合併時の説明は、単一の指標より、装置の種類の幅と国内外の顧客構成の広がりに表れていったとみることができる[19][20]。
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- 日本の経営者 平成5年版(時評社・1992年)
- 産業と経済 52巻10号(プリントワン・1998年)
- 週刊東洋経済 1998年5月23日号「[フラッシュ]日本電産 対東芝M&A成功の裏側」
- 週刊東洋経済 1998年6月6日号「[特集]身内会社の値段 身内企業の取捨選択が始まった 疲弊する親会社、戸惑う子会社」
- 週刊東洋経済 1998年10月17日号「[特集]急ピッチ!企業内再編 日立製作所、東芝解体の命運「総合電機」遅すぎる決断」
- 週刊東洋経済 1998年11月21日号「[今週のデータ&ランキング]25社(97年)→33社(98年)社名・呼称の変更会社」
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書(2006年3月期・連結)