トヨタ紡織定款に自動車部品の製造を追加し紡織から自動車部品メーカーへ転換

紡績の採算が細るなかで、豊田紡織は営業の目的をどう書き換えたか

時期 1972年12月
意思決定者(推定) 豊田紡織 株主総会・取締役会
論点 事業領域の転換と定款変更
概要
1972年12月、豊田紡織は営業の目的に「自動車部品の製造、加工並びに販売」を追加した。1918年の創立以来、紡績と織布を営んできた会社が、定款の事業目的そのものを書き換えて自動車部品の領域へ入った判断である。
背景
1967年からの再建で紡績会社としては立ち直ったものの、収益力は薄かった。1973年4月期の単独売上高211億5,700万円に対し経常利益は5億3,900万円にとどまる。一方で、同社を第二会社として切り出した同系のトヨタ自動車工業は生産を伸ばし続けていた。
内容
定款変更に続き、1973年2月にイグニッションコイル、同年9月にシートファブリック(自動車シート用織物)の製造を開始した。前者は紡織と関係のない電装部品、後者は織物技術をそのまま転用できる内装材で、性質の異なる二つの入口から自動車部品へ入った。
含意
転換の成果はすぐには出ていない。1978年4月期は売上高305億円で経常損益が赤字となり、1984年4月期も売上高376億円・経常利益5億円と薄いままであった。シートファブリックを軸とする内装が収益の柱になるまでには十数年を要し、2004年のトヨタ紡織誕生へつながった。
筆者の見解

定款の一行が持っていた時間

1972年12月の決議は、工場の建設でも他社の買収でもなく、営業の目的に一行を足しただけの手続きであった。それでも、この一行がなければ紡績会社は自動車部品を作れない。1966年のボーリング進出が数年で6億円の赤字に終わったのに対し、同じ「紡織の外側」への進出でありながら今回が続いたのは、シートファブリックという織物の延長線上の商品を用意していたからだとみることができる。技術の連続性がある領域を選んだかどうかが、二度の多角化の分かれ目にあった。

見落としやすいのは、この転換が実を結ぶまでにかかった時間である。定款を書き換えてから10年以上、決算の売上高は300億円台で足踏みし、経常損益は赤字と数億円の黒字を往復していた。会社の輪郭が変わったと数字で言えるようになるのは1990年代以降であり、2006年3月期の単独売上高8,776億円は1973年4月期の約40倍にあたる。豊田佐吉氏が織機の販路として起こした紡織会社は、30年をかけて自動車の内装をまるごと供給する会社になった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

再建を終えた紡績会社

1966年4月の多角化失敗で6億円の赤字を出して無配へ落ちた民成紡績は、1967年6月にトヨタグループの総帥である石田退三氏を代表取締役会長に迎え、同年8月に社名を豊田紡織株式会社へ戻した。遊休資産を処分し、1968年3月に子会社の岐阜紡績、同年8月に民成化学繊維紡績を合併して拠点を集約している。1968年の時点で翌4月期の復配が見込まれるところまで、財務は戻っていた[1]

ただし、立ち直った先にあったのは紡織専業の会社であった。1950年5月にトヨタ自動車工業から分離独立して以来、20年余りにわたり綿紡績・毛織を本業として独自の経営を続けてきた。1966年の異業種進出が失敗に終わったことで、繊維の外側へ出る道はいったん閉ざされ、本業の採算をどう保つかという問いだけが残っていた[2]

薄い採算と、隣にある自動車の需要

紡織専業のままでの収益力は高くなかった。会社年鑑に残る1973年4月期の単独業績は、売上高211億5,700万円に対して経常利益5億3,900万円、当期純利益1億6,200万円である。売上高に対する経常利益の比率は2.5%あまりにとどまり、設備の重い装置産業としては薄い。綿糸・綿布の国際競争が韓国・台湾勢の台頭で厳しさを増すなか、この水準を紡績だけで押し上げる見通しは立ちにくかった[3]

一方、豊田紡織を第二会社として切り出したトヨタ自動車工業は、1960年代を通じて生産を伸ばし続けていた。シートの表皮に張る織物、フィルターに使う不織布、点火装置に巻く線材と、自動車には繊維会社が手を出せる部材が数多くある。同じ豊田佐吉氏の系譜に連なる両社の距離の近さは、他の独立系紡績会社が持たない条件であった[4]

決断

1972年12月、営業の目的を書き換える

1972年12月、豊田紡織は営業の目的に「自動車部品の製造、加工並びに販売」を追加した[5]。工場を建てるでも会社を買うでもなく、定款に記された事業の範囲を広げる手続きから入っている。株主総会の決議を要する変更であり、紡績会社として集めた資本を自動車部品へ向けることを対外的に確定させる意味を持った。1918年の創立以来、社名も定款も繊維の語で書かれていた会社の、最初の書き換えにあたる。

定款変更が1972年12月に置かれた点も見落とせない。翌1973年2月には最初の自動車部品の生産が始まっており、量産の準備がすでに整った段階で、法的な裏づけだけを先に通した順序がうかがえる。紡織会社が自動車部品を作ること自体は定款変更の前から社内で動いており、この決議はその実態に登記を合わせる手続きでもあった[6]

電装部品と織物、性質の異なる二つの入口

1973年2月に始まったイグニッションコイルの製造は、紡織の技術とほとんど接点を持たない領域への参入であった。点火装置に組み込む電装部品であり、繊維の設備も熟練も転用できない。同系の日本電装がすでに電装専業として育っていたことを考えれば、豊田紡織にとっては未知の工程を新しく立ち上げる選択にあたる[7]

これに対し、同年9月に始めたシートファブリックの製造は、織物の技術をそのまま自動車の内装へ持ち込むものであった。自動車シートの表面に張る織物であり、糸を染め、織り、仕上げるという紡織会社の工程がほぼ生きる。トヨタ自動車工業は完成車一台ごとにこの織物を必要とし、需要は生産台数に比例して積み上がる。本業との連続性のある事業を、同じ年のうちに並べて立ち上げた[8]

結果

石油危機と、伸びない十年

転換の直後は数字が跳ねた。1974年4月期の単独売上高は343億3,200万円、経常利益は36億7,200万円、当期純利益は13億5,800万円へ急伸している。ただしこれは第一次石油危機前後の繊維価格の高騰を映したもので、自動車部品の寄与によるものではなかった。価格が落ち着くと反動が来る[9]

1976年4月期は売上高321億円で経常損益が7億円の赤字、1978年4月期も売上高305億円で3億円の経常赤字を計上した。1984年4月期に至っても売上高376億円・経常利益5億円と、定款を書き換えた1973年4月期の水準からほとんど動いていない。自動車部品を営業の目的に加えてから10年、事業の入れ替えは決算の表には現れていなかった[10]

内装システムサプライヤーへ

数字が動き出すのは、部品の品目が積み上がってからであった。1985年4月にエアフィルター、1990年2月にフェンダーライナー、同年5月に成形天井、1995年4月にエアバッグ用基布、同年12月にバンパー、1999年6月にオイルフィルターと、1980年代半ばから2000年代初頭にかけて生産品目が順次広がる。織物と不織布に樹脂成形を重ねる領域は、トヨタ自動車の世界販売台数の拡大と並んで規模を伸ばした[11]

2000年3月には東京証券取引所市場第一部へ上場し、同年5月には内装システムサプライヤーとしての第一車種となる新型RAV4の生産が始まった。シート・ドアトリム・インストルメントパネル・ヘッドライニングを1社でまとめて供給する立場である。2004年10月にはアラコ・タカニチと合併して社名をトヨタ紡織へ変更し、2006年3月期の単独売上高は8,776億円に達した。1973年4月期の211億円から約40倍にあたる[12][13]

出典・参考

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