この再建で実際に効いたのは、新規事業でも増資でもなく、社名と資産の整理であった。ボーリングという畑違いの領域で開いた損失を、豊田紡織という古い商号の信用と、遊休資産の売却と、子会社の吸収でふさいでいる。石田退三氏が持ち込んだのは資金ではなく、規模を追わずまず採算を取るという順序であった。傘下会社の危機に対してグループの最上位者が会長として入る型は、当時のトヨタグループが持っていた再建の手続きをよく示している。
もっとも、この立て直しは紡績会社としての延命でしかなかった面もある。復配の見込みが立った1968年の時点で、繊維の国際競争はすでに厳しく、5年後には第一次石油危機が原料価格を押し上げる。豊田紡織が本当の答えを出したのは1972年12月、定款の営業目的に自動車部品を書き加えたときであった。1967年の再建は、その書き換えに間に合うだけの体力を会社に残した処置にあたる。"民成"から"豊田"へ戻した社名は、37年後に"トヨタ紡織"となる。