賀来龍三郎の社長抜擢と事業部制による事務機集中
1977年実施電卓の失敗で無配に沈んだキヤノンを、常務から抜擢された賀来龍三郎氏はどう立て直したか
- 概要
- 1977年、電卓事業の採算悪化で無配に転落したキヤノンが、前田武男社長の急逝を受けて常務の賀来龍三郎を社長に抜擢した経営判断。賀来は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制で各事業の損益を見えるようにして、多角化を整理し事務機へ研究開発を集中させた。
- 背景
- 「右手にカメラ、左手に事務機」の多角化のもとで参入した電卓は値下げ競争で採算が悪化し、1975年6月にキヤノンは無配へ転落して電卓から撤退した。カメラは成熟期に入り、多角化の絞り込みの甘さに市場も疑問を向けていた。
- 内容
- 常務から副社長・専務を飛び越えて社長に就いた賀来龍三郎が、事業部制を敷いて各事業の損益責任を分け、採算の薄い事業を整理して複写機とレーザープリンターへ開発資源を寄せた。1985年にはヒューレット・パッカードと提携し、レーザープリンターをOEM供給した。
- 含意
- 危機のさなかの抜擢人事が、事業部制による損益の可視化と事務機への集中を持ち込んだ。無配に沈んだ1975年からおよそ10年で、キヤノンは連結売上高1兆円規模の企業へ変わり、のちの御手洗期の連結経営・自前主義へつながる型を用意した。
危機下の抜擢が持ち込んだもの
この経営判断の核心は、財務の危機そのものよりも、危機に乗じて経営のかたちを組み替えた点にある。無配という数字は、多角化で広げた事業の採算が社内で溶け合い、誰がどこで損を出しているかが見えなくなった結果でもあった。賀来社長は事業部制でその採算を切り分け、見込みの薄い事業をたたんで事務機へ資源を寄せた。危機の直後に外から招かれたのではなく、内側で常務にとどまっていた人物が前任の甘さを名指しできたことに、この人事の性格がうかがえる。
1985年のHP提携は、自前の販売網に頼らず、相手の販路へ中核部品を載せて量を取る設計だった。開発の強みを、どの事業とどの売り方で現金に変えるか——賀来社長が事業部制で持ち込んだこの問いは、のちの御手洗期に連結経営と自前主義として引き継がれ、いまも巨額買収や事業の入れ替えのたびに立ち返る論点となる。危機の底で下した抜擢人事が、選択と集中という後年の経営の型を早い時期に用意した点で、この決断は示唆に富む。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「右手にカメラ、左手に事務機」の多角化
キヤノンは1960年代、カメラの需要変動を補う第二の柱を求め、「右手にカメラ、左手に事務機」を掲げて多角化へ進んだ。1964年に電子式卓上計算機を発売して事務機の分野に足を踏み入れ、1968年には独自方式の普通紙複写機NPシステムを開発し、複写機の量産へ道を開いた。カメラの一本足から、事務機を含む複数の商品群を抱える会社への組み替えを、この時期に始めていた[1]。
広げた事業がすべて実を結んだわけではない。とりわけ電卓は各社の値下げ競争が激しく、量産しても利益の薄い商品だった。参入企業がひしめく市場で、キヤノンは価格の下落に採算を削られていった。週刊東洋経済は1972年、キヤノンの多角化を「キメ手か欠く多角化路線」[2]と見出しに掲げ、手を広げた事業を束ねる決め手を欠く経営に疑問を向けた。
無配転落という谷
多角化のひずみは1975年に表面化した。電卓事業の採算悪化が響き、キヤノンは同年6月に無配へ転落し、電卓から撤退した。売上高749億円に対し当期純利益は8.2億円まで細り、社内の士気も沈んだ。のちに日経ビジネスは、この時期のキヤノンを電卓の失敗で意気消沈していた頃と振り返り、当時を「ダメ会社」と呼んだ[3]。
谷の底で、次の柱になる技術は育っていた。無配へ落ちる直前の1975年5月、キヤノンはレーザープリンターの開発に成功していた。感光体とトナーを使う複写機の技術を、コンピューターの出力機へ応用したもので、のちに事務機事業を世界へ広げる中核の製品となる。無配という数字の悪化とは裏腹に、次の事業を担う種は手元にそろっていた[4]。
決断
前田社長の急逝と常務からの抜擢
1977年、経営の立て直しを担うべき社長の座が、突然空いた。キヤノンは長く御手洗毅氏が率い、1974年に前田武男氏が3代目を継いでいた。その前田氏が急逝すると、キヤノンは常務にとどまっていた賀来龍三郎を、副社長と専務を飛び越えて社長に据えた。無配からの再建を託す非常の人事だった。賀来社長は前任の経営陣に「経営に甘さが出ていた」と公言し、業績悪化の責任の所在を曖昧にしないところから始めた[5]。
改革の中心に置いたのが事業部制の導入だった。カメラ、事務機、光学機器といった事業ごとに損益の責任を分け、どの製品がもうかり、どの製品が損を出しているかを数字で見えるようにした。多角化の名のもとに社内で混ざり合っていた採算を切り分けたことで、たたむべき事業と伸ばすべき事業の判断がつけやすくなった。前年の電卓撤退も、この物差しの延長にある選択だった[6]。
事務機への集中と当初の懐疑
賀来社長は限られた開発費を、複写機とレーザープリンターを核とする事務機へ寄せた。多角化で抱えた事業のうち採算の見込みが薄いものを整理し、勝ち残る見込みの立つ領域に資源を集めた。もっとも市場の見方は当初から温かくはない。週刊東洋経済は1977年、事務機の総合化はキヤノンの命題だとしつつ、付加価値の高い製品差別化と販売力の強化を欠けば「優良企業」への道は険しいと、集中の先行きに慎重な見立てを示した[7]。
結果
HP提携と一兆円企業への再生
事務機への集中は、販路の設計にも独自の色を残した。1985年、キヤノンは米ヒューレット・パッカードと業務協力で提携し、レーザープリンターのエンジンをOEM供給する道を選んだ。自前の販売網を世界に張り巡らせるのではなく、相手の販路に自社の中核部品を載せる設計であり、開発力を売上に変える速度を優先した判断だった。プリンター事業はこの提携を足がかりに、世界市場での量を確保していった[8]。
賀来社長の在任は、キヤノンを無配企業から高収益企業へ塗り替えた。就任前年に1,019億円だった単体売上高は、1979年に1,874億円、1984年に4,850億円へ伸び、1985年には連結売上高が9,557億円に達した。無配に沈んだ1975年からおよそ10年で、キヤノンは連結売上高1兆円規模の会社へ変わった計算になる。1983年、日経ビジネスは、電卓の失敗で意気消沈したキヤノンに生気を吹き込み「不死鳥のようによみがえらせた」経営者として賀来社長を描いた[9]。
- 日経ビジネス 1983年10月31日号「エクセレンスに挑む男」(日経BP)
- 週刊東洋経済 1972年1月15日号(東洋経済新報社)
- 週刊東洋経済 1977年7月30日号(東洋経済新報社)
- キヤノン 有価証券報告書【沿革】