御手洗冨士夫の社長就任と連結経営・自前主義への転換
1995年実施消耗品で稼ぐ強いモデルの死角に、実質創業家の御手洗冨士夫氏はどう先手を打ったか
- 概要
- 1995年9月、御手洗冨士夫が代表取締役社長に就任し、事業部ごとの採算から、子会社を含む連結全体の利益とキャッシュフローを物差しにする経営へ改めた。技術と販路の自前主義を徹底し、セル生産で在庫を絞って「稼ぐ会社」へ作り替えた経営判断。
- 背景
- 事務機と消耗品で高成長を続けたが、1990年に日経ビジネスは「絶好調キヤノンの不安」として、事務機のネットワーク化とソフトの比重の高まりのなかで、成長感の薄い企業に転落しかねない死角を指摘していた。
- 内容
- 連結経営とキャッシュフロー重視、採算の見えにくい事業からの撤退、1998年のセル生産導入による在庫圧縮、研究開発の集約と技術の自前主義、年功から実力主義への処遇改革を、トップダウンで一気に進めた。
- 含意
- 連結の利益と現金を先に見た経営が2000年代の高収益を生んだ一方、本業が細る時期には自前主義だけで次の柱を立てられず、2010年のオセ買収以降、御手洗自身が大型M&Aで自前主義の看板を下ろしていく。
自前で築いた強みを、自前のままでは越えられない
この判断の核心は、財務の危機ではなく、絶好調のなかの死角に先手を打った点にある。1990年に日経ビジネスが予告した「成長感の薄い企業への転落」を、御手洗は就任と同時に自らの課題に据えた。事業部ごとの採算を足し合わせる管理から、連結の利益とキャッシュフローを物差しにする経営へ。技術も販路も自前で握り、セル生産で在庫を絞る。単体の売上規模を競う企業が多かった1990年代の日本で、連結・利益・現金を先に見たことが、2000年代の高収益を用意した。
ただし、自前主義には折り返しがある。要素技術から販路まで自社で囲う設計は、本業が伸びる限りは分厚い利益を生む。だが事務機とカメラの市場が構造的に縮むと、自前で育てた資産だけでは次の柱に届かない。御手洗は2010年のオセ買収を皮切りに、自ら掲げた自前主義の看板を大型M&Aで下ろしていく。自前で築いた強みを、自前のままでは越えられなかった——この決断は、成功モデルを徹底することが、やがて次の転換を縛るという問いを残す。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
多角化の成功と消耗品ビジネス
キヤノンは1937年にカメラメーカーとして生まれ、複写機・プリンター・ファックスといった事務機へ多角化して成長した。1980年に連結売上高の44%を占めたカメラは、1988年12月期には9%まで比率を下げ、代わって複写機・プリンター・ファックスなどの事務機部門が83%、半導体露光装置を手がける光機部門が約8%を占めた。祖業のカメラより、事務機で稼ぐ会社へと姿を変えていた[1]。
販売でもキヤノンは早くから独自の道を選んだ。1970年ごろから販売部門を分け、米国・欧州の代理店に出資して自前の販売網を築いた。海外市場を現地代理店に任せたリコーとは対照的に、販路まで自社で握る形をとり、キヤノン単体の海外売上高比率は80%に達した。技術も販路も外に頼らず自前で持つという発想が、この時期にはすでに固まっていた[2]。
絶好調のなかの死角
多角化を支えたのは、トナーなどの消耗品で継続して稼ぐ収益構造であった。機器を売って終わりではなく、使うほど消耗品が売れる。この強いモデルが1980年代の高成長を生んだ。ただし1990年の時点で、日経ビジネスは事務機のネットワーク化とソフトの比重の高まりを挙げ、その強みが将来も続くとは言い切れないと書いた。絶好調のなかに死角がある、という指摘であった[3]。
懸念はより具体的であった。既存事業の分厚い消耗品利益は数年で崩れず、キヤノンはしばらく増収増益を続けるだろう。しかしソフトの価値が急速に高まっているのを甘く見れば、利の細い機器を売るだけの、成長感の薄い企業に成り下がりかねない。事業部ごとに最適を積み上げても、会社全体の稼ぐ力は細っていく——1990年の特集は、成熟のなかの停滞をそう予告していた[4]。
決断
トップダウンで通した連結経営
1995年9月、御手洗冨士夫が代表取締役社長に就いた。1993年に社長へ就いた御手洗肇が1995年に死去し、そのあとを継いでの就任であった。実質的な創業家に連なる新社長は、事業部ごとの採算を積み上げる管理から、子会社を含む連結全体の利益とキャッシュフローを物差しにする経営へ、管理の単位を移した。採算の見えにくい事業からは退き、複写機・プリンター・カメラ・半導体露光装置など利益率の高い事業へ資源を集めた。御手洗は「私が社長」「ツルの一声」[5]と言われるほどのトップダウンで、一連の改革を一気に通した。
自前主義とセル生産
改革の的は、本体の稼ぐ力をどう再生するかに絞られた。御手洗は妙案が浮かばずにいたが、1997年夏、周辺機器事業本部長からセル生産という方式を教わり、実践するソニーの千葉の工場へ足を運んで確かめた。翌1998年、キヤノンはベルトコンベヤーを外し、少人数の作業者が組み立てを受け持つセル生産を導入する。仕掛品と在庫を圧縮し、工程を止めずに稼ぐ体質へ作り替えていった[6]。
稼ぐ体質づくりは、技術と人の両面で自前を貫いた。要素技術は外に頼らず社内で持ち、研究開発を集約する。処遇も年功ではなく仕事の中身で決める実力主義へ寄せ、現場が自分の仕事として動くことを求めた。御手洗は後年、キヤノンの社是を「健康第一主義、実力主義、家族主義」と説明している。自前の技術と実力主義の組み合わせが、この改革の背骨であった[7]。
結果
稼ぐ経営への転換
改革は数字に表れた。就任した1995年12月期に550億円だった連結純利益は、1996年12月期に941億円へ増え、2003年12月期には2,757億円に達した。翌2004年12月期には会計基準を米国基準へ移し、営業利益5,438億円・純利益3,433億円を計上する。売上規模を追うより連結の利益とキャッシュを厚くする経営が、キヤノンを「稼ぐ会社」の代表格へ押し上げた[8]。
もっとも、自前で固めた強みには裏面があった。本業の事務機とカメラの需要が構造的に細ると、社内で育てた技術だけでは次の柱を立てにくい。御手洗自身、2000年代後半から成長の的を社外へ求め、2010年にはオランダの印刷機大手オセの買収に動く。後年、御手洗は次の成長の柱として医療とネットワークカメラに賭けたと振り返り、大型M&Aで事業の組み替えを進めた。自前主義の会社が、自前主義だけでは越えられない壁に突き当たっていた[9]。
- 日経ビジネス 1990年1月1日号「絶好調キヤノンの不安」
- プレジデント(2011年)「キヤノン会長 御手洗冨士夫 -「私が社長」と「ツルの一声」」
- 日本経済新聞(2026年1月)「私の履歴書(23)セル生産」
- 日本経済新聞(2026年1月)「私の履歴書(28)M&A」
- 財界オンライン(2023年12月25日)「キヤノン会長兼社長CEO・御手洗冨士夫 の「人をつくり、会社をつくる!」」
- キヤノン 有価証券報告書
- キヤノン pl_long(証券調査)・連結