東芝メディカルシステムズの6655億円買収と医療への本格参入

2016年実施

停滞する祖業カメラをどう越えるか——独占禁止法の事前届出を先回りした「灰色」の買収スキームをめぐる問い

時期 2016年3月
論点 事業転換と買収手法の適法性
概要
2016年、キヤノンは経営再建中の東芝から医療機器子会社の東芝メディカルシステムズを6655億円で買収した。富士フイルムやコニカミノルタとの入札を制し、CTや超音波診断装置などの医療事業を主力の一角に据える事業転換であった。ただ、独占禁止法の事前届出の前に代金を東芝へ払い込む複雑な手法を用いたため、公正取引委員会は買収そのものは承認しつつ、その手法に異例の「注意」を行った。
背景
リーマン・ショック後、キヤノンの祖業であるカメラはスマートフォンに市場を侵食され、収益を支えてきた複写機やプリンターの事務機も伸びが鈍っていた。社内で育てた新規事業も未成熟のなか、御手洗冨士夫会長兼社長CEOは巨額のM&Aによる事業転換を探った。折しも、不正会計で経営危機に陥った東芝が、数少ない優良事業である医療子会社の売却に動いた。
内容
キヤノンは6655億円で東芝メディカルの全株取得に合意した。同社にとって過去最大級の買収である。東芝が2016年3月期決算に売却益を間に合わせる必要から、独占禁止法の事前届出の前に、東芝メディカル株を種類株式と新株予約権に組み替え、議決権付き株式を第三者の特別目的会社「MSホールディング」へ移し、キヤノンが代金を先に払い込む手法をとった。各国の独禁法審査を経て、同年12月に買収を完了した。
含意
公取委は競争を制限するものではないとして買収を承認しつつ、事前届出前の一連の行為は制度の趣旨を逸脱し、独占禁止法第10条第2項に違反するおそれがあるとしてキヤノンに注意した。入札で敗れた富士フイルムは「アンフェア」と反発し、2019年には米司法省とも和解金を払った。それでも医療は、キヤノンの成長の柱の一つに育った。
筆者の見解

事業転換の必然と、手段の際どさ

この買収の核心は、停滞する本業をどう越えるかという問いに、キヤノンが社外の巨額買収という答えを出した点にある。祖業のカメラがスマートフォンに削られ、事務機の成長も鈍るなか、光学と精密機械の技術が生きる医療機器へ本格的に踏み込む選択には、確かな合理があった。6655億円という価格は過去最大級だったが、東芝の危機という好機がなければ、優良な診断画像の事業をまとめて手に入れることは難しかった。事業転換の方向として、この判断は理にかなっていた。

残るのは、手段の是非である。独占禁止法の事前届け出は、競争への影響を当局が前もって確かめる仕組みであり、その前に代金を動かす株式の組み替えは、制度が想定した順序を先回りするものであった。公取委が違反とは断じずに「注意」にとどめ、富士フイルムがアンフェアと憤り、のちに米司法省が和解金を科した結末は、この手法が白とも黒とも言い切れない際どさを抱えていたことを物語る。事業転換の必然と、それを急ぐ手段の正しさは、分けて問われる。売り手の決算の都合に買い手がどこまで合わせてよいのか——医療という新たな柱を得たこの買収は、成果と手続きの緊張を今も残している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

祖業カメラの停滞と事務機の成熟

キヤノンの収益を長く支えてきたのは、祖業のカメラと、複写機やプリンターを主とする事務機であった。しかし2008年のリーマン・ショック後、高機能スマートフォンの普及がデジタルカメラの市場を侵食し、事務機もペーパーレス化とソフトウェアの台頭で伸びが鈍った。社内で育てた新規事業はなお小さく、次の収益の柱が見えないなか、御手洗冨士夫会長兼社長CEOは巨額のM&Aによる事業転換を探った[1]

不正会計に揺れる東芝と入札

売り手の東芝は、2015年に発覚した不正会計で経営の立て直しを迫られていた。2016年3月期に過去最大級の連結最終赤字を見込むなか、数少ない優良事業である医療子会社の東芝メディカルシステムズを売却し、多額の売却益を計上する道を選んだ。入札には富士フイルムホールディングスやコニカミノルタも参加し、最も高い価格を示したキヤノンが6655億円で交渉権を得た[2]

決断

6655億円という決断

2016年3月17日、キヤノンは東芝メディカルの全株式を6655億円で取得する契約を結んだと発表した。同社にとって過去最大級の買収であり、CT(コンピューター断層撮影装置)や超音波診断装置を持つ東芝メディカルの取り込みで、医療機器を主力の一角に据える構えであった。各国の独占禁止法の審査を経て、買収は同年12月19日に完了した[3]

御手洗にとって、この買収は場当たりの拡大ではなかった。スマートフォンにカメラ市場を奪われ、事務機の成長も頭打ちになるなか、次の収益源を社外に求める判断だった。自伝で本人は、医療とネットワークカメラを次の二本の柱に定めたと記している。診断画像の領域はキヤノンが戦前に手がけたX線撮影装置の系譜にも連なり、光学と精密機械の技術を生かせる事業でもあった[4]

事前届出を先回りする買収スキーム

買収には独特の手法がとられた。東芝は2016年3月期の決算に売却益を計上する必要から、独占禁止法の承認を待たずに代金を得ようとした。そこで東芝メディカル株を、議決権のあるA種株式と議決権のないB種株式、新株予約権に組み替え、A種を第三者が設けた特別目的会社「MSホールディング」へ、B種と新株予約権をキヤノンへ譲渡したうえで、キヤノンが契約日に代金を払い込んだ。各国の承認を得たのち、キヤノンが全株を握る筋書きであった[5]

結果

公取委の異例の「注意」と各国の承認

公正取引委員会は2016年6月30日、この買収が競争を実質的に制限するものではないとして承認した。ただ同時に、事前の届け出をせずに株式の組み替えと代金の授受を進めた一連の行為を問題視した。公取委は、これらが事前届出制度の趣旨を逸脱し、独占禁止法第10条第2項に違反するおそれがあるとして、キヤノンに文書で「注意」を行った。買収を認めながら手法をとがめる、異例の判断であった[6][7]

入札で敗れた富士フイルムは、この決着に強く反発した。競争法にのっとってフェアに臨んだ自社に対し、届け出を先送りする手法が通ったのはアンフェアだとして、公取委に説明を求めた。手法をめぐる問題は日本にとどまらず、2019年6月にはキヤノンと東芝が、事前届け出を回避したとする米司法省と和解し、約5億円の和解金を折半して支払った。それでも、買い取った東芝メディカルはのちにキヤノンメディカルシステムズと社名を変え、医療をキヤノンの主力事業の一つに押し上げた[8][9]

出典・参考