この判断の中心にあるのは、資金の出所を銀行と親会社グループから資本市場へ広げた点にあると推察される。自己資本比率9%未満という水準は、用地を先に買って寝かせる事業を営むには薄い。借入で伸ばせる量には限りがあり、その限りが開発の規模を決めていた。持株会社を立てて資本関係を整理し、外部株主を迎え入れる——2004年から2006年にかけての一連の手続きは、事業の中身を変える判断というより、事業を回すための燃料の取り方を変える判断であったといえる。
もっとも、資本の傘を出ることは、四半期ごとに数字を問われる立場に自ら移ることでもある。上場から2年でリーマンショックが訪れ、2009年3月期の経常利益は前期の6割減となった。それでも同社は市場での増資を用地仕入れに回し、買収した資産を抱えたまま次の周期を待った。証券会社の社屋を預かる会社として生まれ、証券出身の経営者が率いてきた不動産会社が、自らも市場から評価される側に立つ——1957年から数えて約49年を経たこの選択は、同社の来歴を考えると相応の重みを持っていたと思われる。