野村不動産ホールディングス独立した不動産持株会社の設立と東証一部上場

銀行借入と証券グループの傘に頼り続けるか、資本市場から自ら資金を取りにいくか

時期 2004年6月
意思決定者(推定) 鈴木弘久 社長
論点 資本構造と資金調達
概要
2004年6月に野村不動産ホールディングス株式会社を設立して持株会社体制へ移り、2006年10月3日に東京証券取引所市場第一部へ上場した、資本政策上の一連の判断。
背景
「プラウド」を主力にマンション開発で規模を伸ばした一方、2006年3月期の有利子負債は4,000億円を超え、自己資本比率は9%未満にとどまっていた。銀行借入に依存した資金調達では開発量の拡大に限界があった。
内容
2004年6月に持株会社を設立し、同年10月に野村土地建物から野村不動産の発行済株式全部の現物出資を受けて業務を開始。同年12月の会社分割でグループ再編を終え、2006年10月に上場した。
含意
公募価格3,500円に対し初日終値は4,120円、時価総額は6,152億円に達した。自己資本比率は25%程度まで上がり、直後のジオ・アカマツ買収・東芝不動産買収を支える調達力となった。
筆者の見解

傘を出るということ

この判断の中心にあるのは、資金の出所を銀行と親会社グループから資本市場へ広げた点にあるとみることができる。自己資本比率9%未満という水準は、用地を先に買って寝かせる事業を営むには薄い。借入で伸ばせる量には限りがあり、その限りが開発の規模を決めていた。持株会社を立てて資本関係を整理し、外部株主を迎え入れる——2004年から2006年にかけての一連の手続きは、事業の中身を変える判断というより、事業を回すための燃料の取り方を変える判断であったといえる。

もっとも、資本の傘を出ることは、四半期ごとに数字を問われる立場に自ら移ることでもある。上場から2年でリーマンショックが訪れ、2009年3月期の経常利益は前期の6割減となった。それでも同社は市場での増資を用地仕入れに回し、買収した資産を抱えたまま次の周期を待った。証券会社の社屋を預かる会社として生まれ、証券出身の経営者が率いてきた不動産会社が、自らも市場から評価される側に立つ——1957年から数えて約49年を経たこの選択は、同社の来歴を考えると相応の重みを持っていたとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

銀行借入では届かなくなった開発量

2000年代前半の野村不動産は、マンション開発を主体に事業を広げていた。マンションの年間発売は5,000戸規模に達し、非上場のまま業界4位級の大手であった。「プラウド」シリーズは立地と企画で同業他社から評価を得ており、在庫率は1%台と売れ残りの少ない商品だった。だが用地を仕入れて造り、売れて初めて回収する事業を伸ばすには資金が要る。2006年3月期の有利子負債は4,000億円を超え、自己資本比率は9%未満にとどまっていた[1][2]

そこに至るまでには回復の過程があった。1990年代半ばには経常赤字も経験している。前社長の中野淳一氏がマンション事業を強化し、有利子負債を削って財務を立て直したことで、株式上場が視野に入った。売上高は2005年3月期に3,000億円を超え、同期は売上高3,300億円・経常利益250億円と当時の最高を記録した。数字の上では上場に耐える会社になっていた一方、自己資本の薄さは残ったままであった[3][4]

証券グループの内側にあった不動産

野村不動産はもともと野村證券の本店・支店のビルの賃貸と管理を目的として設立された会社で、上場前まで野村證券の関連会社であり続けた。歴代の社長は野村證券の出身者が務めている。2004年6月に社長に就いた鈴木弘久氏も1967年に野村證券へ入り、1987年に取締役、1992年に野村ファイナンス専務、1998年に野村土地建物社長を経ての就任であった。証券出身者が不動産会社の経営を担うという系譜は、上場後の経営陣にも引き継がれていく[5][6]

事業側の準備も先行していた。2001年4月に「住宅」「法人」「資産運用」の社内カンパニー制を敷き、事業別に責任を負う体制へ移している。2000年11月に不動産仲介の野村不動産アーバンネット、2001年12月に私募不動産運用の野村不動産インベストメント・マネジメント、2003年1月にREIT運用の野村不動産投信を設立し、住宅分譲とビル賃貸の外側に仲介と資産運用の会社を並べた。親会社の野村證券本体も2001年10月に金融持株会社の野村ホールディングスへ移っており、事業ごとに器を分ける考え方はグループ全体で共有されていた[7][8]

決断

持株会社を立て、株式を現物出資で移す

2004年6月、東京都新宿区に野村不動産ホールディングス株式会社が設立された。同年10月、この持株会社は野村土地建物株式会社から野村不動産株式会社の発行済株式全部の現物出資を受け、持株会社としての業務を開始する。1970年の機能分離以来、野村證券グループのなかで二社に分かれていた不動産事業の資本の系列が、ここで組み替えられた。同年12月には会社分割によるグループ再編を実施し、ホールディングス体制が固まった[9][10]

初代社長は中野淳一氏が務め、同年中に鈴木弘久氏へ交代した。持株会社化は上場をにらんだ布石であり、鈴木社長のもとで上場までの2年が準備に充てられる。同社長は「コア事業をきっちりと位置づけ、伸ばすもの、再構築するもの、撤退・縮小するものを見極めていく」と述べ、撤退事業の選別、減損などの財務面の整理、グループ会社の資本関係の整理、野村證券グループとの提携拡充、内部管理体制・情報開示体制の強化を課題として挙げていた。上場は、器を作るだけで済む手続きではなかった[11][12]

2006年10月3日、36年ぶりの大手上場

2006年10月3日、野村不動産ホールディングスは東京証券取引所市場第一部へ上場した。総合不動産大手の新規公開は1970年の住友不動産以来36年ぶりであった。初日の終値は4,120円で、公募価格3,500円を大きく上回っている。2006年3月期の売上高3,503億円は業界5位だが、終値ベースの時価総額6,152億円は業界4位の東急不動産の6,016億円をやや超えた。長く非上場を通してきた総合不動産5強の一角が、株式市場に姿を現した[13][14]

上場のねらいを、鈴木社長は「銀行借り入れだけでは限界があった」と語っている。上場に伴う資金調達で自己資本比率は9%未満から25%程度へ上がった。三井不動産の28.7%や三菱地所の34.6%には届かないものの、15〜16%台であった住友不動産・東急不動産は上回る水準になる。借入の余力そのものが開発量の天井を決めていた会社にとって、自己資本の厚みは仕入れられる用地の量に直結した[15][16]

結果

調達力を用地とビル開発へ回す

上場後最初の通期となる2007年3月期の連結売上高は3,672億円、経常利益は475億円であった。当時の同社は住宅事業が連結売上高の6割超を占め、ビル賃貸は13%にとどまる。鈴木社長は「ビル賃貸事業の売上比率を高めるつもりはない」と述べ、代わりにビルなどを開発して投資ファンドへ売る資産運用開発事業に力を入れる考えを示した。同事業の売上は2006年3月期で連結の1割程度だが、営業利益では3割近くを稼いでいた。ビル開発事業の棚卸資産は同期に前期比1.6倍の1,373億円まで膨らんでいる[17][18]

上場で得た調達力は、まもなく買収と増資に使われる。2007年7月に商業施設の企画・運営を手がける株式会社ジオ・アカマツがグループへ入り、2008年12月には東芝不動産の株式65%を取得して連結子会社とした。2009年6月には市場から650億円を調達し、鈴木社長はその半分を借入金の返済に充て、300億円を用地仕入れに回す方針を明らかにしている。銀行との関係だけで資金を賄っていた会社が、株式市場を使い分ける会社になった[19][20]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2005年2月12日号「[トップの履歴書]鈴木弘久 野村不動産社長 06年秋上場へ最後の詰め 野村グループと協力強化」
  • 週刊東洋経済 2006年10月14日号「The Headline ニュース最前線 不動産 名門・野村不動産が上場後に狙う“変身”」
  • 週刊東洋経済 2009年10月10日号「INTERVIEW 鈴木弘久 野村不動産ホールディングス社長 不動産市場に底打ち気配 ファンドの資産運用を強化」
  • 野村不動産ホールディングス 公式IR沿革ページ
  • 野村不動産ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 野村不動産ホールディングス 有価証券報告書(2007年3月期・連結)
  • 野村不動産ホールディングス 統合レポート2023

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