小野薬品工業日本有機化工の小野薬品工業への改称と、小野市兵衛商店の吸収合併による製販一本化
創業以来つないだ薬種問屋の商号を、九代目小野市兵衛はなぜ製造会社の側へ畳んだか
- 概要
- 1947年、専務取締役の小野雄造氏は、生き抜く道は医薬品の製造しかないとして、合名会社小野市兵衛商店の医薬品製造部門を日本有機化工株式会社に、医薬用硝子資材部門を日本理化学工業株式会社に分けて設立した。1948年に日本有機化工を小野薬品工業株式会社と改称し、1949年には小野市兵衛商店そのものを吸収合併して、製造と販売を一つの会社に束ねた。
- 背景
- 1717年に大阪道修町で薬種仲買人として創業した小野家は、輸入薬を選んで各地の薬種商へ卸す問屋として続いてきた。1934年に合名会社小野市兵衛商店へ改組したものの、戦火の拡大とともに統制経済が敷かれ、医薬品も配給統制の下に置かれて、仕入れた薬を裁量で売る商いは成り立ちにくくなっていた。
- 内容
- 1947年に日本有機化工(資本金19万5千円)と日本理化学工業を設立し、翌1948年に前者を小野薬品工業へ改称、後者を解散して工場を小分包装の淡路工場に切り替えた。1949年に合名会社小野市兵衛商店を吸収合併し、製造と販売の部門を一体にしている。
- 含意
- 改称と同じ1948年、大阪大学との共同開発でエフェドリンの工業化に成功し、自社製剤を持つメーカーとしての基礎が固まった。1962年の大阪証券取引所第二部上場、1968年の中央研究所新設とプロスタグランジン全合成へ続く道が、この一本化から始まったとみることができる。
商号を畳むということ
1949年の合併を、戦後にありふれた組織の整理として読むと、この判断の芯を取り逃す。合併の向きは、230年余の歴史を持つ小野市兵衛商店が2年前に設けたばかりの製造会社を子会社として抱える形ではなく、その逆であった。専務取締役の小野雄造氏が進むべき道は医薬品の製造しかないと考えた以上、会社の名も資本も薬をつくる側へ寄せるほかなかったとみられる。創業以来の商号を残す道を捨てたところに、この一本化の性格が表れている。
もっとも、製造業へ移ったからといって、すぐに独創的な新薬の会社になったわけではない。1950年代の小野薬品工業を支えたのはテレビの歌で名を広めた大衆薬であり、自社研究が世界水準の成果を出すのは、中央研究所を建ててプロスタグランジンの全合成に届いた1968年まで待たねばならなかった。一本化から20年である。商号を畳む決定そのものが会社を変えたのではなく、畳んだ後に何をつくり続けたかが会社を変えたとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
道修町の薬種問屋という出自
小野家の商いは1717年、初代小野市兵衛が大阪道修町で「伏見屋市兵衛」の屋号を掲げ、薬種仲買人として店を開いたところに始まる。道修町は幕府が公認した薬種問屋街で、1735年には株仲間として名が正式に登録されている。輸入された唐薬を選び、各地の薬種商へ卸してはじめて商いが成り立つ土地であり、求められたのは製造の技術ではなく、良い薬を見分けて届ける目利きと信用であった[1][2]。
1934年、八代目小野市兵衛氏は創業以来の屋号を改め、資本金16万円の合名会社小野市兵衛商店へ改組した。小野家は1918年に東洋製薬化成株式会社を設けており、この頃には製薬の研究にも手をつけている。近代的な経営への切り替えを図る動きであった。しかし戦火が広がるにつれて統制経済が敷かれ、医薬品も配給統制の下に置かれた。仕入れた薬を自らの裁量で売り捌く問屋の商いは、統制のもとで細っていった[3][4][5]。
決断
「進むべき道は医薬品の製造しかない」
敗戦から2年後の1947年、専務取締役であった小野雄造氏は、時代の流れのなかで生き抜くために進むべき道は医薬品の製造しかないと考え、商店の医薬品製造部門を日本有機化工株式会社として設立した。資本金は19万5千円であった。あわせて注射アンプルなど医薬用硝子資材を担う日本理化学工業株式会社を興し、薬をつくる側へ回る足場を二つ同時に置いている[6][7]。
小野雄造氏はのちに九代目小野市兵衛を襲名し、自著『わたしの歩み 苦痛と病気への挑戦』のなかで、工場を借りて製薬業の仕事を始めることにしたと当時を振り返っている。自前の工場すら持たない出発であった。それでも硝子資材の会社まで同時に立てたのは、資材の乏しい戦後にあって、材料から製造・販売までを一貫して回さなければ薬を出荷できないという読みがあったからとみられる[8][9]。
商号を製造会社の側へ寄せる
1948年、小野家は日本有機化工を「小野薬品工業株式会社」と改称した。同時に工場を東成区の現城東工場へ移し、日本理化学工業を解散して、その工場を小分包装を担う淡路工場に切り替えている。硝子資材まで自ら作る構えは2年で畳んだ。戦後の2年で設けた二つの会社を製造の実体を持つ一社へまとめ直す整理であり、新しい社名には創業家の個人名ではなく「薬品工業」の語が据えられた[10]。
翌1949年、合名会社小野市兵衛商店を小野薬品工業に吸収合併し、製造と販売の部門を一体にした。創業から230年余りにわたって商いの看板であった小野市兵衛の名は、2年前に生まれたばかりの製造会社のなかへ収められた。問屋が製造子会社を傘下に抱えるのではなく、製造会社が問屋を呑み込む向きを選んだところに、この一本化の性格が表れている。以後の小野薬品工業は、薬を仕入れて売る会社ではなく、自ら作って売る会社として動いた[11][12]。
結果
自社製剤を持つメーカーへ
製造への転換は、改称と同じ1948年に最初の成果を出した。小野薬品工業は大阪大学の村橋俊介教授との共同開発により、当時は合成が至難とされたエフェドリンの工業化に成功し、喘息鎮咳剤「エフェドリン錠」を発売した。日本で最初の合成エフェドリンの工業化であった。仕入れた薬を選んで売る問屋ではなく、自社の製剤を持つメーカーとしての基礎が、この年に固まっている[13][14]。
1950年から1960年代半ばにかけては大衆薬を広げ、広告宣伝に力を入れた。コレステロール代謝改善剤「アテロ」や総合強精活力剤「リキホルモ」を送り出し、朝日放送の番組を通じて薬の名を茶の間へ届けている。1961年には綜合製剤工場である城東工場が完成し、1962年に大阪証券取引所市場第二部、翌1963年に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した[15][16]。
独創新薬を出す会社への延長
一本化から16年を経た1965年11月期の売上高は43億円、1968年11月期には70億円に伸びた。生産設備の増強も続き、1960年から1961年に近代的な総合製剤工場である城東第三工場を新設したのを皮切りに、1963年に第一・第二工場、1965年に第四工場を相次いで建てている。1968年には三島郡島本町に中央研究所を新設し、同じ年に生理活性物質プロスタグランジンの全化学合成に成功した[17][18]。
1968年の時点では、鎮痛剤オートン、高血圧治療剤トラポン、糖尿病治療剤メリトスといった自社開発の製品が並び、売上の9割を医家向け薬が占めていた。主力は循環呼吸器系の薬である。輸入薬を選んで卸す仲買人から、処方薬を自ら創る会社へ、事業の中身は二十年で入れ替わっている。1949年の製販一本化は、その入れ替えを可能にする前提を整えた手続きであった[19]。
- 小野薬品工業 有価証券報告書(沿革欄)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 小野薬品工業 公式サイト「小野薬品300年のあゆみ」
- 会社年鑑(1976年版)