SMC焼結フィルターから空気圧補助機器の製造への転換と、主要機構の内製化

濾過体の一部品を納め続けるか、空気圧回路そのものを作るか——10年かけた品種の拡大

時期 1961年9月
意思決定者(推定) 高田芳行 社長
論点 祖業の転換と生産範囲の拡大
概要
焼結濾過体の製造販売を目的に1959年に設立された焼結金属工業は、1961年9月に空気圧補助機器(エア三点セット)の製造・販売を始め、部品の供給者から空気圧機器の作り手へ移った。以後10年をかけて駆動機器・方向制御機器まで自社製品とし、1971年にコンプレッサーを除く主要機構をそろえた。
背景
祖業の焼結濾過体は圧縮空気のゴミを除く部品で、空気圧機器との結びつきが強かった。1960年に進出した当初の主力は重化学工業向けのプロセス・オートメーションだったが、同じころ自動車や工作機械の加工産業では人手不足から自動化が進み、空気圧制御機器の需要が広がり始めていた。
内容
1961年9月に空気圧補助機器、1970年6月に駆動機器(エアシリンダ)、1971年1月に方向制御機器(直動形電磁弁)の製造・販売を順に始めた。1964年5月には定款の事業目的に自動制御機器製品の製造加工および販売を加え、1968年6月には草加工場を設けている。
含意
品種の拡大は24万種類を超える製品群となり、約5,000種類の基本形を在庫する生産方式と組み合わさって、経常利益率11〜13%と国内シェア42%を支えた。1986年の社名変更と1987年12月の東証第二部上場は、この転換の延長線上にある。
筆者の見解

一区間ずつ広げた10年

この転換を垂直統合と呼ぶと、10年という時間が見えなくなる。焼結金属工業が1961年9月に手にしたのは空気圧補助機器という一区間だけで、シリンダーは1970年6月、電磁弁は1971年1月まで自社の製品にならなかった。1971年にすべて作れるようになったという大村進社長の言葉は、回路を端から端まで埋めるのに要した年月の長さを示している。部品屋が完成品へ飛躍したのではなく、受け持てる区間を一つずつ増やした結果であった。

もっとも、回路をひととおり自社で作れたことが、そのまま業績を押し上げたわけではない。1971年3月期の売上高は35.1億円にとどまり、1974年3月期の70.1億円は翌期に68.5億円へ減っている。数字が伸びるのは、約5,000種類の基本形を在庫して量産の効果を持ち込む生産方式が働き出してからで、内製化はその前提を用意したにすぎない。作れる範囲を広げる判断は、供給の設計と組み合わさって初めて利幅に変わったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

濾過体の一部品を納める会社として

焼結金属工業が設立されたのは1959年4月、東京都千代田区であった。目的は焼結濾過体、すなわちフィルタ用焼結金属の製造と販売にある。創業した高田芳行氏は、金属粉を焼き固めて微細な孔を残すこの部品一点で会社を立ち上げた。焼結濾過体は圧縮空気に混じるゴミを取り除く用途に使われ、空気圧機器の内側に収まる。会社は機器そのものではなく、その部品を供給する側から出発した[1][2]

祖業がフィルターであったことが、そのまま次の進路を決めた。大村進社長は1988年に、焼結金属フィルターが空気圧機器のゴミを取り除く濾過体であるため、以後は空気とのつながりが強くなったと述べている。1960年には空気圧機器の分野へ進んだが、当初の主力は重化学工業向けのプロセス・オートメーションであった。同じころ自動車や工作機械の加工産業では人手不足から自動化が進み、空気圧制御機器が採り入れられ始めていた[3][4]

決断

空気圧補助機器という完成品への参入

1961年9月、焼結金属工業は空気圧補助機器の製造・販売を始めた。エア三点セットと呼ばれるこの機器は、送られてきた圧縮空気を必要な圧力に調整すると同時にゴミを取り除き、次の工程へ渡す。祖業の焼結濾過体は、その内部で濾過を受け持つ一部品にすぎない。部品を納める立場から、空気圧回路の一区間を装置として引き受ける立場へ移った。1964年5月には定款の事業目的に自動制御機器製品の製造加工および販売を加えている[5][6]

品種を広げる方針は、この参入の直後に定まった。大村進社長は、加工産業の自動化という時代の要請に応じ、1961年以降は一貫して空気圧制御機器の品種を拡大してきたと述べている。空気圧制御は、圧縮空気を作り、除湿し、圧力を整え、流れる向きを切り替え、シリンダーで仕事をさせるという一連の流れで成り立つ。焼結金属工業が引き受けたのはそのうち圧力調整と除塵の一区間で、残りの機器は他社の製品に頼っていた[7][8]

回路の残りを自社で作るまでの10年

残る区間を自社製品で埋めるまでには10年近くを要した。1970年6月に駆動機器すなわちエアシリンダの製造・販売を始め、翌1971年1月には方向制御機器である直動形電磁弁を加えた。シリンダーは空気の力を直線の動きに変えて実際の作業をこなす部分、電磁弁はその動きの向きを切り替える部分にあたる。空気そのものを作り出すコンプレッサーを除けば、回路を構成する機器はこれで自社の製品でそろった[9]

大村進社長は、1960年には空気圧補助機器だけだったものが1971年にはすべて作れるようになり、以後は空気圧機器の総合メーカーとして歩んできたと述べている。内製化の順序は、技術の易しい順ではなく、顧客の工程で自社が受け持てる範囲を広げる順であった。1968年6月には草加工場を設け、生産の場も広げている。機器の組み合わせを客先に委ねるのではなく、一続きの回路として提案できる会社に変わった[10][11]

結果

品種の多さが利幅に変わるまで

回路の全体を自社で作れる会社になった直後の1971年3月期、売上高は35.1億円、当期純利益は0.8億円であった。品揃えを整えた効果がただちに数字へ表れたわけではない。売上高は1973年3月期に82.3億円まで伸びたのち、1974年3月期70.1億円、1975年3月期68.5億円と二期続けて減った。増勢に転じたのは1976年3月期の106億円からで、以後は増加が続いた[12]

利幅を生んだのは、品種の多さと生産方式の組み合わせであった。製品は1988年時点で24万種類を超えたが、大村進社長によれば、約5,000種類の基本形と中間段階の組み立て部品を在庫することで、多品種少量でありながら量産の効果を引き出せる。他社より製造原価が安く利益が出やすい体質になったという。経常利益率は数年にわたり11〜13%を保ち、1986年度の国内シェアは42%と2位の21%の2倍に達した[13][14]

空気圧機器の専業メーカーとしての定着

品種を増やし続ける前提には、需要より先に生産の備えを持たせる方針があった。創業者の高田芳行氏は後年、どれだけ売れるかの予測が立てば、その製品を作る能力を備えるために前もって投資してきたと語っている。数学を専攻した4、5人が数理統計を用いて需要を予測し、その予測をもとに確信をもって準備できたという。競合に比べて設備投資が先行していた点を、同氏は有利に働いたと述べている[15]

焼結金属工業は1986年4月に社名をSMCへ改め、1987年12月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。SMCは旧社名の英語名Sintered Metal Companyの頭文字で、創業時から製品の商標に使ってきた呼称である。上場のころには空気圧機器が全製品の90%以上を占め、世界市場でも約10%のシェアを持ち、英国のIMI、米国のパーカーハネフィンと並ぶ3大メーカーの一つに数えられていた[16][17]

出典・参考

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