この転換を垂直統合と呼ぶと、10年という時間が見えなくなる。焼結金属工業が1961年9月に手にしたのは空気圧補助機器という一区間だけで、シリンダーは1970年6月、電磁弁は1971年1月まで自社の製品にならなかった。1971年にすべて作れるようになったという大村進社長の言葉は、回路を端から端まで埋めるのに要した年月の長さを示している。部品屋が完成品へ飛躍したのではなく、受け持てる区間を一つずつ増やした結果であった。
もっとも、回路をひととおり自社で作れたことが、そのまま業績を押し上げたわけではない。1971年3月期の売上高は35.1億円にとどまり、1974年3月期の70.1億円は翌期に68.5億円へ減少している。数字が伸びるのは、約5,000種類の基本形を在庫して量産の効果を持ち込む生産方式が働き出してからで、内製化はその前提を用意したにすぎない。作れる範囲を広げる判断は、供給の設計と組み合わさって初めて利幅に変わったといえる。