クラフティア空調・管工事と水処理工事への参入による総合設備工事会社への転換
電力会社の配電工事を請け負う会社から、建物の設備一式を引き受ける会社へ——1964年から1970年代前半にかけての業域の組み替え
- 概要
- 1964年7月に空気調和・冷暖房・管工事の営業を開始し、1971年7月には水処理工事へ参入して、電気工事の専業から建物の設備一式を引き受ける総合設備工事会社へ業域を組み替えた経営判断。1972年2月の九州電工ホーム設立による住宅事業への進出も同じ流れに置かれる。
- 背景
- 1947年の配電工事委託契約以来、受注は九州配電(現九州電力)の設備投資計画に連動していた。1953年に発電・変電・送電の工事を分社したため、本体に残ったのは配電線工事と屋内線工事であり、建物の内部で完結する空調・給排水は業域の外にあった。
- 内容
- 1964年7月に空調・冷暖房・管工事、1971年7月に水処理工事の営業を開始し、1965年2月には大阪支社(現関西支店)を設置した。1971年12月に株式会社明光社の株式を取得、1972年2月に九州電工ホーム株式会社を設立して、施工の品目と地域を同時に広げた。
- 含意
- 1974年10月の半期で16%だった空調管工事の売上比は1984年4月期に22%へ上がり、2025年3月期には1,649億円・売上比35%を占めるまでになった。参入から10年単位で効いてくる遅い転換であり、1989年の「九電工」への商号変更もこの業域拡張を社名の側で追認したものであった。
品目を足すという遅い手
1964年の決定は、事業の買収でも大型の設備投資でもなく、営業品目を一つ増やすという地味な手であった。効き始めるまでには時間がかかる。参入10年後の空調管工事は売上の16%、20年後で22%にとどまり、主力を置き換えるほどの勢いはない。それでも、電力会社の設備投資という一つの蛇口に受注を委ねていた会社が、建築主・自治体という別の蛇口を自分で開ける手立てを持った意味は小さくなかった。1971年の水処理、1972年の住宅と続く並びをみると、品目を足す手が繰り返し選ばれている。
転換の遅さは、工事業の性格にもよる。技術者を育て、実績を積み、発注者の名簿に載るまでの時間が、そのまま新規品目の立ち上がりの時間になる。1962年に研修所を整えてから空調・管工事に入り、水処理へ進み、公共下水道と海外の環境事業へ広げるという順序は、その時間を織り込んだ歩き方であった。1964年に加えた一行の営業品目は、いま1,649億円を売っている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
配電工事一本の受注構造
1947年6月に九州配電株式会社(現九州電力株式会社)と配電工事委託契約を締結して以来、九州電気工事の受注は発注元の設備投資計画に連動していた。1951年の電気事業再編成で九州配電が九州電力へ移ると、その性格はいっそう明確になる。電柱を立て、配電線を張り、変電所を据える工事は、電力会社が年度ごとに決める設備投資の量がそのまま施工量になる。営業をかけて需要を掘り起こす必要がない代わりに、受注の総量を自社では決められない事業であった[1]。
業域はさらに絞られていた。1953年7月に発電・変電・送電を担う建設工事部門を分離して九州電気建設工事株式会社(現株式会社九建)を設立したため、本体に残ったのは配電線工事と、建物側の配線を担う屋内線工事の二つになった。電気に関わる工事のなかでも川下側を受け持つ構えである。10年後の1963年7月には大分電設を皮切りに県別の子会社網の整備も始まり、九州における施工体制は厚みを増していたが、扱う品目そのものは動いていなかった[2]。
電気工事の外側にあった設備工事
ビルや工場の建設では、電気の配線と、空調・給排水の配管は別々の業者が請け負う。屋内線工事で建物に入っている会社にとって、同じ現場でとなりの職種が施工する光景は日常であった。1974年10月の半期の売上構成をみると、内線工事184億円(構成比62%)、配電線工事67億円(同23%)に対し、参入から10年を経た空調管工事は46億円(同16%)を占めている。参入から10年で内線・配電線に次ぐ三本目の柱に育っていたことが、この構成比からうかがえる[3]。
施工の対象を建物の内部へ広げれば、発注元も変わる。配電線工事の相手が電力会社一社であるのに対し、空調・管工事の相手はビルを建てる不動産会社・ゼネコン・事業会社であり、数のうえでは比較にならない。1965年2月には大阪支社(現関西支店)を設置し、九州・首都圏に続く三つ目の都市圏へ拠点を置いた。建物の設備工事を扱うのであれば、建物が建つ場所に拠点が要る。品目の追加と拠点の追加は、同じ考えの両面にあたる[4]。
決断
1964年7月、空気調和・冷暖房・管工事の営業開始
1964年7月、九州電気工事は空気調和・冷暖房・管工事の営業を開始した。社名にある「電気工事」の枠を、会社みずから外側へ広げる決定であった。電気工事会社が空調と配管を手がけるには、冷凍機や配管の施工に慣れた技術者を抱え、建築の工程に合わせて工事を組み立てる段取りを覚えなければならない。設立以来20年、電力会社の計画に沿って配電線を張ってきた組織にとって、施工の作法から違う仕事であった[5]。
この参入がもたらしたのは、一つの現場で電気と空調・給排水をまとめて引き受けられる体制であった。屋内線工事に空調管工事が加われば、ビルの内部で完結する設備をほぼ一式で受注できる。発注する側からみれば、業者を分けずに済む。1962年6月に社員研修所(現九電工アカデミー)を整えていたことも、新しい職種の技術者を内部で育てる支えになった。品目を増やす決定は、育成の仕組みを先に持っていた会社の判断でもあった[6]。
1971年7月の水処理工事という次の一手
1971年7月、水処理工事の営業を開始した。電気・空調・管に続いて加えた工事品目であり、上場によって資本市場から資金を得た時期と重なる。水処理は自治体の下水道や工場の排水設備を対象とし、公共投資と環境規制に需要が結びつく分野にあたる。電力会社の設備投資、民間建築、公共投資という性格の異なる三つの発注源を、10年足らずのあいだに自社の受注構成へ並べたことになる[7]。
業域の拡張は、品目の追加だけで進んだわけではない。1971年12月に株式会社明光社の株式を取得して首都圏の施工力を子会社として取り込み、1972年2月には九州電工ホーム株式会社(現株式会社九電工ホーム)を設立して住宅事業へ進んだ。工事を請け負う相手を電力会社から建築主へ、さらに個人の住宅までたどる並べ方である。1981年8月には公共下水道工事の営業を開始し、自治体向けの工事にも正面から入った[8]。
結果
品目構成に現れた転換
転換の速度は緩やかであった。1974年10月の半期で空調管工事は売上の16%を占め、10年後の1984年4月期には274億円・構成比22%まで伸びた。同じ期の内線工事は563億円(45%)、配電線工事は386億円(31%)、兼業事業が17億円(1%)で、単体売上高は1,242億円である。1964年に加えた品目が全体の2割を超えるまでに20年を要した。一方で、この20年に売上高は1971年4月期の269億円から4.6倍になっている[9]。
業績の側でも、この期間は拡大が続いた。単体売上高は1971年4月期の269億円から1974年4月期に496億円、1981年4月期には1,051億円へ届き、同期の経常利益は79億円となった。石油危機を挟んで受注環境は揺れたが、品目を三つ持つ構成が振幅を吸収する側に働いた。工事の種類ごとに景気の波の来かたが違う以上、複数の品目を持つこと自体が受注の平準化につながる[10]。
社名の追認と、今日の1,649億円
1989年12月、株式会社九電工へ商号を変更した。創業時の「九州電気工事」から45年を経て、電気工事から空調・水処理・住宅・海外環境事業まで業域が広がったことを社名で表す変更であり、業界内で略称として通用していた実態を追認するものでもあった。1985年5月には台湾で合弁会社「九連環境開發股份有限公司」を設立し、水処理で培った環境事業を初の海外進出の題材にしている。1964年に加えた一行の営業品目は、四半世紀後に社名を書き換えるところまで及んだ[11]。
参入から60年後の2025年3月期、設備工事業の売上構成は屋内線工事2,380億円(売上比50%)、空調管工事1,649億円(同35%)、配電線工事513億円(同11%)となった。祖業の配電線工事は1割まで比重を下げ、1964年に始めた空調管工事は連結売上高4,740億円の3分の1を超える。屋内線と空調管を合わせた8割強が、建物の内側で完結する工事である。会社の主戦場は、電柱の側から建物の側へ移った[12]。
- クラフティア(旧 九州電気工事)有価証券報告書【沿革】
- クラフティア(旧 九電工)有価証券報告書(2025年3月期)
- 九州電気工事 会社年鑑(1976年版・単体、品目別売上高/単体業績)
- 九州電気工事 会社年鑑(1986年版・単体、品目別売上高/単体業績)