クラフティア大証二部・福証上場から4年での東証・大証一部指定替え

九州電力の工事会社が、地場の非上場企業から全国区の一部上場企業へ移った1968年から1972年までの4年間

時期 1972年9月
意思決定者(推定) 九州電気工事 取締役会
論点 資本市場での地位と成長資金の確保
概要
1968年11月に大阪証券取引所市場第二部および福岡証券取引所へ上場して資本金5億円となり、1971年11月に東京証券取引所市場第二部へ、1972年9月には東証二部上場から10ヶ月で東京・大阪両取引所の市場第一部へ指定替え上場した資本政策。設立から28年、初上場から4年での一部昇格にあたる。
背景
1944年の設立から24年、九州電力の配電工事委託契約を軸とする安定受注と九州各県の地域子会社網で規模を積み上げてきたが、資本市場との接点は持たなかった。1964年の空調・管工事参入以降、業域と拠点の拡張には自己資本の増強が要った。
内容
資本金は上場時の5億円から東証二部上場時に8億2,500万円、一部指定替え時に11億円へ増えた。上場と並行して1971年7月に水処理工事へ参入し、同年12月に株式会社明光社を子会社化、1972年2月に九州電工ホーム株式会社を設立している。
含意
一部上場後の単体売上高は1973年4月期の386億円から1981年4月期に1,051億円へ伸び、1987年3月には第一回無担保転換社債100億円を発行した。九州の工事会社が全国の資本市場から資金を調達する経路は、この4年で開いた。
筆者の見解

借りずに広げるための4年間

上場は、それ自体が事業を変える決定ではない。1968年から1972年までの4年間に会社が実際に手を付けたのは、水処理工事への参入、首都圏の施工会社の子会社化、住宅事業の立ち上げであり、上場はその費用の出どころを借入から資本へ移し替える作業にあたる。九州電力の工事という安定した収益がありながら、そこで得た信用を担保にした借入だけで拡張を進めなかった点に、この時期の経営の選択が現れている。

速度も目を引く。大阪と福岡の市場に名を連ねてから東京の一部まで4年、東証二部からは10ヶ月で駆け上がった。工事業の売上は受注残に規定され、急に倍増するものではない。それでも資本金は5億円から11億円へ、単体売上高は1971年4月期の269億円から1981年4月期の1,051億円へ伸びた。2022年4月、その株式は市場区分の見直しでプライム市場へ移った。1972年に得た「一部」の二文字は、50年で呼び名を替えている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

24年間、資本市場の外にいた会社

1944年12月に資本金250万円で設立された九州電気工事が、初めて証券取引所に上場したのは1968年11月であった。設立から24年、その間の資金は九州電力の配電工事委託契約に支えられた収益と借入で賄われている。発注元の設備投資計画に受注が連動する事業では、受注残の見通しが立ちやすく、金融機関からみた与信も安定する。増資によって不特定多数の株主を迎える必要が、長らく生じなかった会社であった[1]

一方で、組織は着々と厚みを増していた。1953年7月に建設工事部門を分離して九州電気建設工事株式会社(現株式会社九建)を設け、1963年7月の大分電設を皮切りに、小倉電設・長営電設・南九州電設と九州各県へ地域子会社を置いていく。1962年6月には社員研修所(現九電工アカデミー)も整えた。子会社の設立には出資が要り、研修所や拠点の整備には設備投資が要る。九州を一面で押さえる体制は、そのまま資金需要の積み上がりでもあった[2]

業域拡張が呼び込んだ資金需要

1964年7月の空気調和・冷暖房・管工事への参入以降、会社は電気工事の外へ品目を広げていた。翌1965年2月には大阪支社(現関西支店)を設置し、九州・首都圏に続く三つ目の都市圏に拠点を構えている。新しい品目で実績のない会社が受注を取るには、技術者の採用と育成、機材の手当て、拠点の開設が先に要る。売上が立つ前に支出が先行する構えであり、自己資本の増強が現実の課題になった[3]

業績の規模も、上場に見合うところまで来ていた。会社年鑑によれば、単体売上高は1971年4月期に269億円、経常利益24億円、当期純利益11億円である。翌1972年4月期は売上高315億円、経常利益24億円、当期純利益13億円となった。九州という一地域を主戦場とする工事会社としては相応の規模であり、利益も安定して出ている。数字の側からみれば、上場の準備は業域拡張の途中で整っていた[4]

決断

1968年11月、大阪と福岡から始めた上場

1968年11月、九州電気工事は大阪証券取引所市場第二部および福岡証券取引所市場に上場し、資本金は5億円となった。最初の上場先に東京を選ばず、大阪と地元の福岡を組み合わせた点に、当時の位置がよく現れている。福岡証券取引所は地場企業の受け皿であり、大阪証券取引所市場第二部は西日本の中堅企業が名を連ねる市場であった。九州の工事会社が、まず西日本の資本市場に足を掛ける順序を採った[5]

上場と前後して、業域と施工力の拡張はむしろ加速した。1971年7月に水処理工事の営業を開始し、同年12月には株式会社明光社の株式を取得して首都圏の施工会社を傘下に収めている。翌1972年2月には九州電工ホーム株式会社(現株式会社九電工ホーム)を設立して住宅事業へ進んだ。調達した資金の使い道が、品目の追加と首都圏の足場づくりに向かっていたことが、この並びからうかがえる[6]

東証二部から10ヶ月での一部指定替え

1971年11月、東京証券取引所市場第二部に上場した。資本金は8億2,500万円になっている。西日本の市場から東京の市場へ移ることは、株式の流通と知名度の両面で意味を持つ。首都圏で施工会社を子会社化し、住宅事業を立ち上げようとする時期に東京の市場へ名を連ねたことは、事業側の展開と歩調が合っていた。地場企業から全国区の企業へ移る足がかりが、ここで確保された[7]

翌1972年9月、東京証券取引所および大阪証券取引所市場第一部への指定替え上場が実現し、資本金は11億円となった。東証二部上場からわずか10ヶ月、1968年の初上場から数えても4年での一部昇格である。設立から28年目にあたる。九州配電工事委託契約を背景とする安定した収益と、地場子会社網を短期間で広げた実績が、この速度を支えたとみられる。資本金は上場の4年間で5億円から11億円へ2倍を超えた[8]

結果

一部上場後に伸びた規模

一部指定替えを含む1973年4月期の単体売上高は386億円、経常利益26億円、当期純利益15億円であった。その後、1976年4月期に売上高679億円・経常利益54億円、1981年4月期には売上高1,051億円・経常利益79億円へ届いている。指定替えから9年で売上高は2.7倍になった。1973年6月には建設業法の改正に伴い建設大臣許可を取得し、全国で元請として施工するための資格も整えた[9]

調達の手段も広がった。1976年4月に本社を福岡市南区那の川一丁目へ新築移転し、1984年10月には九興総合設備株式会社を設立してグループ内の総合設備機能をまとめている。1987年3月には第一回無担保転換社債100億円を発行した。1968年に資本金5億円で市場に登場した会社が、20年足らずで100億円規模の社債を発行する側に回っている。一部上場という肩書きは、この調達の前提になっていた[10]

三つの取引所と、消えた「一部」

1972年の時点で株式は東京・大阪・福岡の三つの取引所に上場していたが、このうち大阪証券取引所市場第一部の上場は2004年6月に廃止された。取引所の統廃合と売買の東京集中が進むなかで、複数市場への重複上場を維持する意味は薄れている。2022年4月には東京証券取引所の市場区分見直しにより、市場第一部からプライム市場へ移った。1972年の指定替えで得た「一部」という呼び名は、この時に姿を消している[11]

会社の側も名前を変えた。1989年12月に株式会社九電工へ商号を変更し、2024年12月に創立80周年を迎えたのち、2025年には社名をクラフティアへ改めている。電気新聞のトップインタビューでは、80周年を機に中期経営計画の発表・本社移転・社名変更が予定されていると語られた。1972年に上場していた「九州電気工事株式会社」という名は、市場の側にも会社の側にも残っていない。それでも上場している事実だけは、半世紀を超えて続いている[12]

出典・参考

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