SMC東京証券取引所市場第二部への株式上場と社名のSMCへの変更
設備投資を自己資金で賄える会社が、なぜ5年をかけて株式を公開したか
- 概要
- 1987年12月23日、空気圧機器専業のSMC(旧・焼結金属工業)が東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。準備は1982年ごろに始まり、1986年4月の社名変更を挟んで5年を費やしている。上場翌月の講演で大村進社長は、1992年3月期までの国内250億円の設備投資を利益と償却で賄えるとの見通しを示しており、資金繰りに追われた公開ではなかった。
- 背景
- 1959年に焼結金属のフィルターから出発した同社は、1971年までに空気圧機器の主要品種を自社で揃え、1986年度の国内シェアは42%へ達していた。海外は主要30カ国に販売とサービスの網を敷き、円高への対処としてシンガポールでの現地生産にも着手していた。
- 内容
- 1986年4月に社名を焼結金属工業からSMC株式会社へ改め、海外で通っていた呼称と国内の商号を一致させたうえで、1987年12月23日に東証第二部へ上場した。1992年3月期までの設備投資は国内だけで約250億円を計画し、その資金は利益と償却で足りるとした。
- 含意
- 上場後の業績は社長自身の見通しを上回り、1989年3月期の売上高772億円は中期計画が1992年3月期に置いた目標を3年早く超えた。1989年9月には東証第一部の銘柄に指定され、釜石工場や筑波技術センターの設置が続いた。
資金が要る前ではなく、要らなくなった後の公開
1987年12月の上場を、成長資金を集めるための調達と読むと説明が合わない。大村進社長は上場の翌月、1992年3月期までの国内250億円の設備投資を利益と償却だけで賄えると述べている。国内シェア42%、経常利益率11〜13%という数字を先に作り、公開はその後に置かれた。1982年ごろから5年をかけた準備は、資金の必要に追われた動きではなく、事業の型が固まった会社が対外的な資格を整える手続きであったとみることができる。
もっとも、自己資金で賄えるという見通しは、その時点の高い利益率に支えられた条件付きのものであった。24万種類の品目を構えて短い納期に応じるやり方は、設備と在庫へ資金を寝かせ続けることを前提とし、海外生産の現地化まで含めれば投資は国内の250億円にとどまらない。上場から3年余りで釜石工場と筑波技術センターが加わった。資本市場に足場を置いた意味は、調達の額よりも、投資を止めずに済む余地を先に確保した点にあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
焼結金属のフィルターから空気圧機器の専業へ
SMCは1959年4月、焼結濾過体の製造・販売を目的として、東京都千代田区に焼結金属工業株式会社の名で設立された。焼結金属のフィルターは圧縮空気に混じるごみを取り除く部品であり、この製品を入口に、同社は空気の扱いへ深く関わっていく。1961年9月に空気圧補助機器の製造・販売を始め、1970年6月に駆動機器、1971年1月に方向制御機器へと品種を広げ、コンプレッサーを除く主要な機器を自社で揃える総合メーカーとなった[1][2]。
上場を前にした同社は、空気圧機器が全製品の90%以上を占める専業メーカーになっていた。用途ごとに形状や容量が異なるため品種は24万種類を超え、1986年度の国内シェアは42%と、第2位のメーカーの21%の2倍に達した。世界市場でも約10%を占め、3大メーカーの一角に並ぶ。技術を担う社員が全体の4分の1を占め、売上高比6%ほどを研究開発に充てる体質が、過去数年にわたる11〜13%の経常利益率を支えていた[3][4]。
株式を公開しないまま広げた海外網
販売の網は早い時期から国外へ伸びていた。1967年11月にSMCオーストラリアへ資本参加したのを皮切りに、1974年8月にシンガポール、1977年3月に米国、1978年に英国とドイツ、1981年12月にイタリアへ現地法人を置き、上場の時点で主要30カ国に販売とサービスの拠点を構えていた。国内でも1983年1月に筑波工場を設けている。株式を公開しないまま、専業の中堅企業には不相応な規模の網を敷いていた[5][6]。
1985年以降の円高は、輸出比率の高い同社に価格競争力の低下という圧力をかけた。大村進社長は円高と競争激化への対処として、シンガポールにある直営の生産拠点を充実させ、原価を下げると同時に為替へのヘッジ力を高める方針を挙げている。1986年9月にはSMCシンガポール製造を設立し、1974年の販売子会社設立から12年を経て東南アジアに生産の機能を持った。海外での事業がすでに投資の対象になっていた[7][8]。
決断
5年をかけた上場準備と社名の統一
上場の準備が始まったのは1982年ごろであった。大村社長は後に、昭和57年ごろには業容がかなり安定してきたので先行き上場するための準備に取りかかったと述べている。設立から23年、空気圧機器の主要品種を揃えてから10年余りを経た時点にあたる。資金の不足に追われて公開を急ぐ順序ではなく、事業の型が固まったところで公開の条件を整えていく順序を、同社は取っていた[9]。
準備の途中に置かれたのが1986年4月の社名変更であった。SMCは旧社名・焼結金属工業の英語名の頭文字であり、創業時から商標として使い、1967年に資本参加した豪州子会社を皮切りに海外各社の社名にも一貫して用いてきた。高田芳行氏は後年、ルノーが欧州で製品を採用した際に日本でSMCという会社を探しても誰も知らなかったと振り返っている。商号と看板の食い違いを解いたうえで、1987年12月23日に東証第二部へ上場した[10][11]。
調達を当てにしない設備投資計画
上場から1カ月足らずの1988年1月20日、大村社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で会社の方針を語っている。設備投資は1992年3月期までの5年間に国内だけで約250億円を計画し、質疑ではこれが全体のおよそ8割にあたると答えた。資金の手当てについて、大村社長は利益と償却だけで十分に賄える見通しであると述べている。公開で得た資金を投資の原資に据える説明を、同社は取らなかった[12]。
投資の向かう先として挙げられたのは、即納に応じるためのデポジットの設置、シンガポールの直営生産拠点の充実、欧米とNICSを中心とする海外販売網の強化と生産の現地化、そして先端技術との融合を図る研究所の新設であった。輸出は主要部品にとどめる方針も示している。株主への還元については、配当を1株12円50銭の水準で保ちたいとし、無償交付は考えているが具体化していないと答えるにとどめた[13][14]。
結果
中期計画の3年前倒しと一部指定
上場直後の業績は、社長自身の見通しを上回った。大村社長は1988年3月期の売上高を540億円と計画し、内需の追い風から560億円程度への上方修正もあり得るとしていたが、実績は590億円となり、当期純利益は40.6億円に達した。翌1989年3月期の売上高は772億円へ伸び、中期計画が1992年3月期の目標に置いていた750億円を3年早く超えた[15][16]。
資本市場での評価も続いた。上場から1年9カ月後の1989年9月、SMCは東京証券取引所市場第一部の銘柄に指定される。同じ月に高田芳行氏が代表取締役社長へ就いた。設備は1991年1月の釜石工場、同年4月の筑波技術センターと積み増され、高田氏は後に、売れる量の予測が立てば作る能力を先に備えるという考えのもとで、競合相手より設備投資を先行させてきたと語っている[17][18]。
- 証券アナリストジャーナル 1988年2月号「SMC」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 大村進社長 講演要旨)
- あさひ銀総研レポート 1992年10月号(1巻1号・通巻67号)「SMCの社名の由来と空気圧機器の用途、ホロン経営」(高田芳行)
- SMC 有価証券報告書 第66期(2025年3月期)【沿革】
- SMC 会社年鑑(単体業績・1988年3月期/1989年3月期)