うま味調味料の単品依存から総合食品企業への転換

発酵法の逆転で単品の優位が崩れたとき、味の素は何を作る会社になろうとしたか

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時期 1956年11月
意思決定者 経営陣 取締役会
論点 単品依存と事業多角化
概要
1956年、協和発酵工業が直接発酵法によるグルタミン酸ナトリウム(MSG)の製造を発表し、抽出法で守ってきた味の素の製法上の優位が揺らいだ。味の素は技術対立を訴訟に持ち込まず、協和発酵のMSGを全量買い取る契約で市場の混乱を避けつつ、うま味調味料の単品依存を脱し、総合食品企業への転換を選んだ。1963年のクノール食品発足を最初の具体化とし、以後およそ四半世紀をかけて固まった面的な戦略である。
背景
抽出法によるMSG製法の独自性と全国特約店網が、戦前から味の素の競争優位を支えてきた。直接発酵法は副産物の制約なくMSGを増産できる技術で、単品に依存した収益モデルの脆弱性を市場に突きつけた。同時に、特約店網を維持するには調味料単品を超える品揃えが要るという販路側の要請も、多角化を促す構造要因として社内に根づいていた。
内容
協和発酵のMSGを全量買い取って市場秩序を保ちながら、経営陣は「単体的であった味の素を、総合食品会社の形態に変える」ことを責務と位置づけた。1963年に米コーンプロダクツ社と提携してクノール食品を発足させ、スープを軸に加工食品市場へ参入した。外部ブランドと自社販路を結ぶ提携型の拡張、スーパーマーケット直販路の並行、多品目化で流通パイプを太くする「食卓包囲網」を並行して進めた。
含意
1970年代に「脱調味料」路線は加速し、1983年には周辺食品への展開で総合食品会社化を一応果たしたと評された。一方で調味料以外に決定的なトップブランドを欠き、利益成長は有力食品会社のなかで最下位級との評価も受けた。単品の強さと総合化の収益課題という、後年へ持ち越される論点がこの転換から生まれている。
筆者の見解

単品の強さと、総合化という選択

この転換の中心にあったのは、うま味調味料という強い単品を持っていたがゆえの難しさであった。抽出法と特約店網に守られた独占は、直接発酵法という一手で優位の根拠を失いかねない構造でもあった。訴訟でなく全量買取を選び、競合技術を取り込みながら事業の幅を広げていった判断は、単一技術への依存から抜け出す現実的な道であったとみることができる。守り切れないものを、抱え込むかたちで乗り越えようとした点に、この時期の判断のありようがうかがえる。

ただ、幅を広げることと、稼ぐ力を高めることは同じではなかった。周辺食品へ品目を増やすほど流通網は太くなった一方、それぞれの市場では先行者に届かず、総合化の収益力は長く問われ続けた。何を作る会社になるかという1950年代の選択は、抱え込んだ事業群をどう選び直すかという後年の課題へと、静かに接続していく。総合食品化は答えであると同時に、次の問いの出発点でもあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

直接発酵法という技術の逆転

味の素の競争優位は、長く二本の柱に支えられてきた。ひとつは小麦や大豆のたんぱく質からグルタミン酸ソーダ(MSG)を取り出す抽出法の製造技術であり、もうひとつは全国に張り巡らせた特約店網であった。両者が結びつくことで後発の参入は難しくなり、うま味調味料の国内市場は実質的な独占のもとに置かれていた。ところが1956年、協和発酵工業が糖蜜などを原料に微生物でMSGを直接つくる発酵法を発表し、この構図の土台が揺らいだ[1]

発酵法の意味は、単に製法がひとつ増えたということにとどまらなかった。抽出法では原料に含まれる分だけしかMSGを得られなかったのに対し、発酵法は副産物の制約から解放され、需要に応じて自由に増産できた。業界誌はこれを製造法に革命をもたらす発明と評し、市場では味の素の斜陽化を見込む声が広がった。単一技術に依存した収益モデルがいかにもろいかが、株価の下落というかたちで経営に突きつけられていた[2]

販路が求めた品揃え

多角化を促した力は、技術の逆転だけではなかった。味の素が築いた特約店網は、調味料単品を流すだけでは求心力を保ちにくくなっていた。販売店が扱う商品が少なければ取引上の立場が弱くなり、抱き合わせられる品目を増やす必要が生じる。総合食品化の必要性は、競争環境の変化とともに、自社が育てた流通網の側からも要請されていた。技術と販路の双方から同じ方向へ圧力がかかっていた点に、この時期の味の素が置かれた構図があった[3][4]

決断

訴訟でなく全量買取という選択

直接発酵法の登場に対し、味の素は特許や技術の優劣を法廷で争う道を選ばなかった。1956年11月、協和発酵工業とのあいだでそのMSGを全量買い取る契約を結び、価格や数量の混乱を市場に持ち込まずに秩序を保った。競合技術を排除するのではなく取り込むことで、当面の動揺を抑え、対立を協調へと転じさせた。技術で守り切るという発想から距離を置いた点に、この判断の分かれ目があった[5]

買取契約で時間を稼ぐ一方、味の素は単品依存そのものから抜け出す方針を固めていった。1960年代半ば、経営陣は課せられた責務を、単体的であった味の素を総合食品会社の形態に変えることだと明言した。未開発の分野を開拓し、うま味調味料の専業から総合食品メーカーへ姿を変えるという課題が、社内の基本方針として据えられた。技術の逆転を、事業の幅を広げる契機として引き受けようとしたことがうかがえる[6]

外部ブランドと自社販路を結ぶ拡張

総合食品化が具体的に動き出したのは、1963年3月の提携であった。味の素は米コーンプロダクツ社と手を組み、合弁会社クノール食品を発足させてスープを軸に加工食品市場へ入った。自社で一から製品を育てるのではなく、外部のブランドや製品開発力を自社の生産と全国販路に結びつける。後発の不利を提携で補うこの分業のかたちが、以後の多角化の基本モデルとして定着していった[7]

販路の側でも新しい経路を開いた。1966年、味の素は伸長するスーパーマーケットを見据え、加工食品ほどスーパーへの適合度が高いという調査を踏まえて、特約店経由を保ちつつ大手スーパーと直接取引する経路を並行させた。1970年には業界誌が、取扱品種を増やして系列問屋と末端小売との結びつきを太くする多品目化を「食卓包囲網」と呼んだ。すでに市場が形成された分野へ後発で挑む戦略を、流通パイプを太くする狙いから整理してみせた[8][9]

結果

脱調味料の加速と総合食品会社化の到達

多品目化は1970年代に入って一段と速まった。1973年、業界誌は味の素の事業転換を「脱調味料」路線が加速する動きとして伝えている。売上高も伸び、単独ベースで1971年3月期の1,252億円は、1975年3月期には2,588億円へとおよそ二倍に達した。うま味調味料の一本足から、スープやマヨネーズ、冷凍食品といった周辺食品を束ねる企業へと、事業の中心が移りつつあった[10][11]

1983年になると、業界誌は味の素が総合食品会社化を果たしたと総括した。主力の化学調味料は国内シェア6割近くを保ち、それを土台にスープ・マヨネーズ・冷凍食品へ事業を広げてきた道のりが、一応の完成として描かれた。協和発酵ショックから四半世紀を経て、単品専業から総合食品メーカーへという転換は、事業構成の面ではおおむね形になったといえる[12]

総合化が残した収益の課題

もっとも、同じ業界誌は、総合化の到達と裏腹の弱さも指摘していた。味の素は老舗の優良企業でありながら、1965年当時と比べた利益成長は有力食品会社のなかで最下位級の「ブービー」にとどまったという評価である。事業の幅は広がっても、調味料以外に決定的なトップブランドを持てず、周辺食品の多くが二番手にとどまる。総合化の成果と、その収益力の物足りなさが、この時点で並んで表面化していた[13]

出典・参考
  • ダイヤモンド 1956年10月30日号「味の素は新製法を併用」
  • ダイヤモンド 1956年11月19日号「発酵工業を飛躍させる世界的な発明」
  • ダイヤモンド臨時増刊 1965年9月30日号「味の素」
  • 読売新聞 1966年10月10日「スーパーへ直通」
  • 週刊東洋経済 1970年5月23日号「味の素の食卓包囲網作戦」
  • 日経ビジネス 1973年6月25日号「ピッチ上がる“脱調味料”路線」
  • 日経ビジネス 1983年2月7日号「企業家精神薄れた“優良企業”」
  • 味の素株式会社 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑 1976年版(味の素・単独業績)