ホシザキジュース自販機から業務用製氷機への転換と直販販社網の構築

氷を買う国で氷を作る機械を売れるか——星崎電機が選んだ商品と売り方

時期 1965年1月
意思決定者(推定) 坂本薫俊(社長)・坂本精志 取締役
論点 主力商品の入れ替えと販売チャネル
概要
1965年1月、星崎電機(現ホシザキ)はジュース自動販売機に代わる主力として業務用の全自動製氷機の販売を始め、あわせて代理店に頼らず自社の販売会社で飲食店を回る売り方へ切り替えた経営判断。
背景
創業以来、計算尺・ミシン部品・冷水機・ジュース自販機と商品を替えてきた同社にとって、自販機は大手の参入で守りにくい商品となっていた。手元にあったのは冷却と水回りの技術であった。
内容
4年の開発を経て全自動製氷機を完成させ、1965年1月に販売を開始。1966年12月のホシザキ東京を皮切りに1969年の4販社体制、1988年の15地域分社へと直販網を広げ、営業と保守を自社で一体化した。
含意
氷は氷屋から買うものという慣習が残る市場に、機械という商品と直販という売り方を同時に持ち込んだ。この販社網はのちに他社が追随しにくい流通基盤となる一方、本社の統制が届きにくい構造も残した。
筆者の見解

需要のない商品を、誰が売って誰が直すか

この決断の中心にあるのは、商品の入れ替えそのものよりも、商品と売り方を同時に選び直した点にあるとみることができる。氷を機械で作るという商品には、当時の日本に買い手がいなかった。買い手がいない以上、既存の代理店に預けても売れる道理がない。星崎電機が自社で飲食店を一軒ずつ回る方式を採ったのは、販路の効率を求めた結果ではなく、需要そのものを自分たちで作るしかなかった事情の裏返しだったとみられる。結果として同社は、製氷機という商品と、営業と保守を一体で担う販社という仕組みを、二つで一つの資産として手に入れた。

もっとも、この仕組みは無条件に強かったわけではない。地域に根ざした会社へ判断を委ねる構造は、顧客に近い機動力を生むと同時に、本社から見えにくい領域を作る。2018年に販売子会社で表面化した問題は、その裏側が半世紀を経て現れたものといえる。市場が存在しない商品を売り切るために築いた仕組みが、市場が成熟したあとも同じ形で有効か——ホシザキが今日まで抱えてきた問いは、1965年の選択の延長線上にあるとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

売れる商品を探し続けた創業期

星崎電機は1947年2月、名古屋市瑞穂区桃園町に資本金18万円で設立された。創業者の坂本薫俊氏はブラザー工業に勤めた後に独立し、当初はミシン部品の下請けで工員の給与をまかなった。創業の翌月に世に出した自社第一号の製品は計算尺「BANTO」で、命名は坂本薫俊氏と開発を担った大東氏の名前による。肉屋や魚屋といった小売店に売れると見込んだこの製品は動かず、同社は車両用クラクションなどを試しながら、自社で売れる商品を探した[1][2]

商品が定まったのは米国視察がきっかけであった。坂本薫俊氏は現地で冷水機を知り、帰国後にその製造を始める。そこへ百貨店の経営者から「10円玉を入れてジュースが出てくるようにできないか」という注文が入り、社内で仕立てた機械が1957年10月の名古屋まつりで披露された。自動販売機を手がける会社がほとんど存在しなかった当時の市場で、噴水型のジュース自販機は主力商品となり、星崎電機は1960年代の前半までを自販機メーカーとして過ごした[3][4]

シカゴで聞いた「水と紙と氷」

次の商品の手がかりは、1960年に米国で得られた。のちに社長となる坂本精志氏がマイアミへ向かう視察の途中、シカゴでフレークアイスの発明者の一人と会い、これからは水と紙と氷が伸びるだろうと助言された。冷水機から自販機へ進んできた星崎電機の手元には、冷却と水回りの技術が残っていた。助言は、その技術をまったく別の商品へ向け直す道筋を示すものであった[5][6]

もっとも、当時の日本の飲食店は氷を地場の氷屋から買うのが当たり前で、機械で氷を作るという発想そのものが薄かった。開発を進めた側も、何で氷をつくるのに機械がいるんだと相手にされなかったと振り返っている。買い手のいる自販機で大手と競り合うか、買い手のいない製氷機に主力を移すか。1960年代半ばの星崎電機が向き合ったのは、需要の有無を自社で作り出せるかどうかという問いであった[7]

決断

4年の開発を経た1965年の販売開始

星崎電機は製氷機の開発に4年をかけ、日本で初めて全自動製氷機を完成させた。販売の開始は1965年1月で、有価証券報告書の沿革も同月を製氷機事業の開始として記録している。自販機と製氷機は、いずれも冷却と水回りの技術を使う点で地続きであった。だが売る相手は入れ替わる。街頭やイベント会場で不特定多数を相手にする自販機に対し、製氷機の買い手は飲食店であり、一台ずつ据え付けて何年も使い続けてもらう商品であった[8][9]

商品の性格が変われば、賭ける相手も変わる。氷を機械で作る需要は、外食が家庭の食卓から切り離されて産業になり、飲食店が自前で氷をまかなう必要に迫られてはじめて生まれる。星崎電機が主力を入れ替えた判断は、日本人の食生活がその方向へ動くという読みの上に立っていた。製氷機は同社の現在の主力製品の源流となり、以後60年にわたって事業の中心に残っている[10]

代理店を通さず自社で売り、自社で直す

商品と同時に、売り方も決め直した。製氷機は代理店に預けても動かず、星崎電機は自社の販売会社で飲食店を回る方式を選ぶ。1966年12月のホシザキ東京を皮切りに、1969年1月にホシザキ東海、同年3月にホシザキ京阪・北九を置いて4販社体制とし、以後は各エリアで分社を重ねた。1978年3月のホシザキ阪神、同年12月のホシザキ北海道で全国の主要地域が埋まり、1988年には15の地域に販社が並んだ[11][12]

直販にこだわった理由は、業務用厨房機器という商品の性格にあった。飲食店にとって製氷機や冷蔵庫の故障は営業の停止に直結するため、壊れたときにすぐ来る会社かどうかが購入の決め手となる。代理店経由ではその品質が販売業者の力量に左右されるのに対し、自社の販社であれば営業と修理を一体で引き受けられる。日経ビジネスはこの保守販売網を同社の強みとして挙げ、製氷機の発売から間もない1966年に保守を手がける子会社を設け、それを全国へ広げた経緯を伝えている[13]

結果

品目を載せ替えられる販路という資産

販社網の整備は、外食産業がチェーン化する時期と重なった。多店舗の外食企業にとって、全国どこでも同じ会社が納入と保守を受け持つ体制は、それ自体が取引の条件となる。星崎電機は製氷機に続いて1970年2月に生ビールディスペンサ、1972年2月に業務用冷蔵庫と扱う品目を増やし、いずれも同じ販社網に載せて売った。品目ごとに販路を作り直す必要がないため、扱う商品を増やすほど取引先一社あたりの売上が積み上がる構造ができた[14]

一方で、地域ごとに独立した会社へ営業を任せる仕組みは、本社の統制が届きにくい面も残した。2018年、子会社のホシザキ東海での不適切な取引を受けて四半期報告書の提出が遅れ、東京証券取引所は同年12月14日にホシザキ株式を監理銘柄(確認中)へ指定した。指定の理由は、延長承認を受けた法定提出期限までに四半期報告書を提出できる見込みがない旨の開示が行われたことにある。日経ビジネスは、この上場廃止の危機からの復活として同社の近年を描いている。1965年に選び取った売り方は、半世紀を超えたのちに競争力と統制の課題を同時に残した[15][16]

出典・参考

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