ノーリツ鋼機創業家2代目の動議による経営陣刷新と事業投資会社への転換

主力市場そのものが消えるとき、会社に何を残すか——ミニラボ世界首位が選んだ業態の入れ替え

時期 2010年4月
意思決定者(推定) 西本博嗣・2010年4月に社長就任 創業家2代目
論点 経営体制と業態転換
概要
2008年、創業者の孫にあたる西本博嗣氏が株主提案の動議で経営陣の刷新を主導し、写真現像機メーカーから事業ポートフォリオを組み替える投資会社型へ会社の性格を移した判断。2010年4月に西本博嗣氏自身が社長へ就いた。
背景
デジタルカメラの普及で町の写真店が減り、ノーリツ鋼機が世界の過半を握っていたミニラボ市場そのものが縮んだ。売上高は2004年3月期の907億円を頂点に下がり続け、2006年3月期には73億円の純損失を計上していた。
内容
経営陣を入れ替えたうえで、写真処理機器の外側に新会社を並べる方針をとった。2009年にNKリレーションズとNKアグリ、2011年に新設分割でNKワークスを設立し、持株会社が複数の事業会社を持つ形へ組織を組み替えた。
含意
祖業の改良で市場の消滅に抗うのではなく、祖業を子会社へ括り出して売却可能な資産に変えた。2016年2月にはNKワークスがグループを離れ、社名の由来となった写真処理機器事業は手元から消えた。
筆者の見解

機械を守るか、会社を残すか

主力製品の性能で世界の過半を取った会社が、その製品の市場ごと消える場面に立った。とりうる道は二つあった。ひとつは機械の側で戦い続ける道で、デジタル対応のミニラボを出し、写真店の減少を単価と保守で埋める。もうひとつは、機械を持つ会社という定義を捨てる道である。西本博嗣氏が2008年に動議で求めたのは後者であり、その意味で刷新の対象は経営陣というより、会社の自己規定そのものだったとみられる。

判断の是非は、稼いだ現金をどこへ置いたかで測られる。ミニラボが積み上げた250億円は農業にも医療にも流れ、多くは数年で手放された。残ったものもある。2013年にオリンパスから引き取った日本医療データセンターは後のJMDCとなり、2022年にオムロンへ株式33%を約1,118億円で譲る資産に育った。写真店に置く機械の代金として集まった資金が、医療データの会社を経由して1,000億円台の売却代金に姿を変えた事実は、この転換のいちばん具体的な結末である。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ミニラボ世界首位という一本足

ノーリツ鋼機は1976年に、フィルムの現像からカラープリントの仕上げまでを45分で終える「QSS-1型」を世に出した。それまで街の写真店は預かったフィルムを集配ラボへ送り、客を数日待たせていた。処理を店内で完結させるこの機械は、写真店の商売の形そのものを変えた。1996年の時点で、ミニラボ市場に占める同社のシェアは国内47.5%、日本を除く海外で50.2%に達していた。和歌山の一メーカーが、世界の写真小売の裏側を握っていた[1]

収益もその独占に見合っていた。1995年度上半期の輸出比率は52%で、売上の半分が海外の写真店から入る構造にあった。連結売上高は2002年3月期の666億円から伸び続け、2004年3月期に907億円、経常利益137億円で頂点を打った。フィルムが消費され、写真店がプリントを刷るかぎり、機械は世界中で売れ続ける。その前提が崩れる可能性は、当時の決算数字のどこにも現れていなかった[2][3]

デジタルカメラが客の側から市場を消した

崩れ方は速かった。DPE(現像・焼き付け・引き伸ばし)の国内市場は1993年の5,900億円を頂点にじりじりと縮み、2001年には5,000億円台を割った。国内出荷台数では2001年に銀塩カメラ300万台に対しデジタルカメラ480万台と順位が入れ替わり、2002年の予想はそれぞれ260万台と610万台であった。デジタルカメラの画像はパソコンに残せば足りる。フィルムも印画紙もいらない購買行動が広がれば、機械を置く写真店の側から順に消えていく[4]

会社の側にも自覚はあった。2002年の取材で、副社長の佐谷勉氏は「小売りも含めてミニラボ以外の新規事業も常に模索している」と語っている。当のノーリツ鋼機を、同じ記事は「今はミニラボの一本足打法」と書いた。模索は間に合わず、連結売上高は2005年3月期に738億円、2007年3月期には589億円まで落ちた。2006年3月期には73億円の純損失を計上している。デジタル対応機の投入では、市場そのものの縮小を埋められなかった[5][6]

決断

2008年の動議

2008年、創業家の西本博嗣氏が株主提案による動議を出し、経営陣の刷新を主導した。創業者の西本貫一氏が1943年に和歌山で始めた写真館を出発点とする会社で、その孫にあたる人物が、株主の立場から当時の経営陣に退場を求めた形になる。西本博嗣氏は写真現像機メーカーという業態そのものを畳み、事業ポートフォリオを組み替える運営会社へ移す方針を掲げた。祖業の建て直しではなく、祖業を含めた事業構成の入れ替えを最初から前提に置いていた[7]

西本博嗣氏は1993年に近畿大学商経学部を出てノーリツ鋼機に入り、2006年にいったん会社を離れている。復帰は2009年で、副社長として経営に戻った。そして2010年4月1日付で社長へ就いた。それまで社長を務めた茶山幸彦氏は取締役相談役へ移っている。動議から2年をかけて、提案した本人が執行の責任を負う位置に着いた。当時39歳であった[8]

現金の置き場所を選ぶ会社へ

転換を可能にしたのは、ミニラボで稼いだ現金であった。当時のノーリツ鋼機は250億円程度の手元資金を持ち、それを使って業態の変更を含むM&Aを探していた。主力製品が売れなくなっても、過去に積み上げた資金は残る。その資金を写真処理機器の次世代機へ再投資するか、まったく別の事業を買う元手に回すか。西本博嗣氏の選択は後者であった。稼ぐ機械を作る会社から、稼ぐ事業を選んで持つ会社へ、経営の仕事の中身が入れ替わった[9]

手は早かった。2009年4月にNKリレーションズを設立して新規事業の受け皿を用意し、同年11月にはNKアグリを設立して生鮮野菜の生産・販売に入った。写真とも機械とも縁のない農業への参入は、事業の隣接性を投資の条件にしないという宣言に近い。2010年6月には遠隔画像診断のドクターネットを買収し、翌7月にNKメディコを設立して医療分野に足を入れた。祖業の外側に、系統の異なる会社が並び始めた[10][11]

結果

持株会社化と、底を打った本業

2011年2月、ノーリツ鋼機は新設分割でNKワークスを設立し、写真処理機器の事業一式をそちらへ承継させた。本体は持株会社となり、複数の事業会社を持つ形に組織が変わった。祖業は、会社そのものではなく、保有する子会社のひとつになった。事業ごとに損益と資産が切り分けられれば、売る判断も買う判断も個別に下せる。転換の方針は、この組織変更で機械的に実行できる形を得た[12]

数字の底は2010年3月期であった。連結売上高280億円、営業損失69億円、純損失209億円。ピークの907億円から3分の1以下まで落ちている。翌2011年3月期は売上293億円で営業利益2億円を確保したものの、純損失58億円が残った。転換の判断が下されたのは、この落下の途中である。手元資金が尽きてからでは、買う側に回る選択肢は残らなかった[13]

社名の由来がグループを離れる

2016年2月、ノーリツ鋼機は写真処理機器事業を営むNKワークスをグループ外へ譲渡した。創業から55年、QSS-1型から40年である。NKワークスは譲渡後にノーリツプレシジョンとなり、ミニラボの保守を引き受け続けた。前年の2015年6月には本店を東京都港区へ移しており、和歌山で写真の機械を作る会社という実体は、この2年でほぼ消えている[14]

一方、買った側の事業は入れ替わりながら残った。2018年6月には創業家以外から岩切隆吉氏を社長に迎え、西本博嗣氏は代表権のない会長へ退いている。日本経済新聞は交代の理由を、今後の海外事業の拡大や新規事業の育成には外部人材が必要と判断したためと伝えている。株主提案で経営陣を替えた本人が、10年後には自ら執行の座を外部へ渡した[15]

出典・参考

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