昭和食料工業の設立と減資(1951年・昭和飛行機工業の決断)1951年 | 昭和飛行機工業の決断更新:2026/08/09意思決定した企業昭和飛行機工業決断年1951年何をなぜ決めたか:米軍接収下での自動車修理への転換と、第二会社の設立・九割減資による資本の清算概要概要1951年、昭和飛行機工業が決定整備計画により、5月に第二会社の昭和食料工業を設立する一方で会社存続の認可を受け、同年7月に九割の減資を行った経営判断。終戦直後に米軍へ接収された東京製作所で各種自動車の完全分解修理に転じており、その事業を続けながら資本だけを清算した。背景背景敗戦で航空機の製造が止まり、1946年10月の戦時補償特別措置法で軍需補償の請求は打ち切られた。同じ月に公布された企業再建整備法は、その損失を資本金と債権の切捨てで埋めるよう定めており、戦時に6,200万円まで増資した昭和飛行機工業も資本の整理を避けられなかった。内容内容決定整備計画にもとづき1951年5月に第二会社の昭和食料工業を設立し、本体は会社存続の認可を受けた。同年7月の九割減資で資本金は10分の1に切り縮められた。事業は米軍直轄下で始めた自動車の完全分解修理を、1947年4月の昭和工場への改称を機に全面的に自社で経営していた。沿革:意思決定前後の出来事9件考察:資本を捨てて、仕事を残した考察考察:資本を捨てて、仕事を残した620万円まで減少した資本金は、3年半後に1億2,400万円へ達した。この会社が生き延びたのは、減資という処理そのものよりも、米軍に接収された工場で他人の自動車を直すという、航空機会社らしからぬ仕事を引き受けていたからである。企業再建整備法は損失を株主に負わせる仕組みを用意したが、切り縮めた資本を積み直せるかどうかは、その間に稼ぐ事業があるかに懸かっていた。昭和飛行機工業には、占領軍の車両という需要があった。ただ、その需要は自ら作り出したものではない。工場は接収されたままで、飛行場地域の返還は1969年8月、減資から18年後であった。1952年に再開できた航空機の仕事も製造ではなく完全分解修理で、ダグラスDC3を作った会社は他社の機体を直す会社として戻っている。資本を清算して残した会社の中身は、他者の需要と他者の機体に支えられていた。第二会社の社名が昭和食料工業であった事実は、そのとき本体から移せる事業がいかに乏しかったかを示している。Yutaka Sugiura, 2026年8月参考文献参考文献参考会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「戦後経済再建期の会社」私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)「石塚粂蔵」私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)「石橋正二郎」昭和飛行機工業 有価証券報告書【沿革】×出所