昭和飛行機工業米軍接収下での自動車修理への転換と、第二会社の設立・九割減資による資本の清算
航空機を作れない会社を畳むか、資本を10分の1に切り縮めて残すか——企業再建整備下の選択
- 概要
- 1951年、昭和飛行機工業が決定整備計画により、5月に第二会社の昭和食料工業を設立する一方で会社存続の認可を受け、同年7月に九割の減資を行った経営判断。終戦直後に米軍へ接収された東京製作所で各種自動車の完全分解修理に転じており、その事業を続けながら資本だけを清算した。
- 背景
- 敗戦で航空機の製造が止まり、1946年10月の戦時補償特別措置法で軍需補償の請求は打ち切られた。同じ月に公布された企業再建整備法は、その損失を資本金と債権の切捨てで埋めるよう定めており、戦時に6,200万円まで増資した昭和飛行機工業も資本の整理を避けられなかった。
- 内容
- 決定整備計画にもとづき1951年5月に第二会社の昭和食料工業を設立し、本体は会社存続の認可を受けた。同年7月の九割減資で資本金は10分の1に切り縮められた。事業は米軍直轄下で始めた自動車の完全分解修理を、1947年4月の昭和工場への改称を機に全面的に自社で経営していた。
- 含意
- 資本は1953年4月の抱合せ増資で6,200万円へ復元し、1954年末の倍額増資で1億2,400万円となった。1952年7月からは航空機と発動機、ヘリコプターの完全分解修理を始め、1953年10月に大神作業所を設けた。ただし戻れたのは製造ではなく修理であった。
資本を捨てて、仕事を残した
620万円まで落ちた資本金は、3年半後に1億2,400万円へ達した。この会社が生き延びたのは、減資という処理そのものよりも、米軍に接収された工場で他人の自動車を直すという、航空機会社らしからぬ仕事を引き受けていたからである。企業再建整備法は損失を株主に負わせる仕組みを用意したが、切り縮めた資本を積み直せるかどうかは、その間に稼ぐ事業があるかに懸かっていた。昭和飛行機工業には、占領軍の車両という需要があった。
ただ、その需要は自ら作り出したものではない。工場は接収されたままで、飛行場地域の返還は1969年8月、減資から18年後であった。1952年に再開できた航空機の仕事も製造ではなく完全分解修理で、ダグラスDC3を作った会社は他社の機体を直す会社として戻っている。資本を清算して残した会社の中身は、他者の需要と他者の機体に支えられていた。第二会社の社名が昭和食料工業であった事実は、そのとき本体から移せる事業がいかに乏しかったかを示している。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
需要と資本を同時に失った軍需会社
昭和飛行機工業は1937年に資本金3,000万円で設立され、昭島の東京製作所でダグラスDC3型輸送機を作り、1943年9月と1945年10月の増資で資本金を6,200万円まで積み上げた会社であった。敗戦はその需要を絶った。連合国軍総司令部は1946年の1月と8月の二度にわけて、軍工廠をはじめ航空機や兵器、工作機械などの生産工場あわせて1,007を賠償工場に指定し、保全管理を命じた。航空機の製造は、会社の手の届かないところへ移された[1][2]。
打撃は資本の側にも重なった。政府は1946年10月に戦時補償特別措置法を公布し、戦時中に軍需企業へ約束していた補償の請求に応じない方針を採った。大蔵省が同年4月1日現在で推定した請求額は749億5,400万円、うち軍需産業分は539億2,000万円にのぼる。同じ月に公布された企業再建整備法は、その損失と在外資産の損失を資本金の切捨て、債権の切捨てなどで埋めるよう定めた。軍需に深く依存した会社ほど、資本を削られる仕組みであった[3][4]。
米軍直轄下で始めた自動車の分解修理
昭島の東京製作所は終戦直後に米軍へ接収された。会社は軍の直轄下に置かれ、各種自動車の完全分解修理と部品製造にあたった。輸送機を作っていた工場が、占領軍の車両を直す工場に変わっている。1947年4月、会社はこの工場を昭和工場と改称し、それまで米軍の管理下で請け負ってきた事業を全面的に自社の経営へ移した。扱う対象は航空機から自動車へ、立場は請負から経営へと入れ替わった[5]。
修理業への転換は、残った資産の使い道でもあった。工場用地は当時の昭和村と拝島村、砂川村にまたがり、滑走路を備えるほどの広さがあった。もっとも、その飛行場地域が米軍から返還されるのは1969年8月で、終戦から24年を要している。接収が続くあいだ、会社は敷地の一部で他人の車両を直して食いつないだ。戦時に積み上げた用地と工員だけが、需要を失った会社の手元に残っていた[6][7]。
決断
第二会社の設立と、会社存続の認可
企業再建整備法のもとで軍需会社が採りうる道は、大きく二つに分かれた。旧勘定の債務を抱えたまま会社を清算するか、健全な部分を第二会社へ移して本体の存続を認めてもらうかである。昭和飛行機工業は決定整備計画により、1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立する一方、会社存続の認可を受けた。設立から14年の会社を畳まず、社名と昭島の工場を残す道を選んだ[8]。
第二会社の社名が昭和食料工業であったところに、当時の事業の乏しさがうかがえる。航空機の製造は禁じられ、自動車の修理は米軍の需要に依存し、篠ノ井工場を含む戦時の生産設備は行き先を失っていた。本体に残す事業と切り離す事業を分ける作業は、どれを残せば会社が立つかを決める作業でもあった。整備計画の決定は1951年5月、資本の処理はその2か月後に続いた[9][10]。
九割減資という資本の清算
1951年7月、昭和飛行機工業は九割の減資を実施した。戦時下に6,200万円まで積み上げた資本金は10分の1へ切り縮められ、株主の持分は9割が消えた。減資は損失を株主に負担させる処理にあたる。軍需補償の打切りで空いた穴を資本金の切捨てで埋めるという企業再建整備法の建付けを、昭和飛行機工業はそのまま実行した。会社は資本を失う代わりに、法人としての存続を得た[11][12]。
この処理を決めたときの社長が誰であったかは、本稿の依拠した資料からは判明しない。1955年に社長を務めていた石塚粂蔵氏は、1945年12月に日本製鋼所の社長へ就いたのち追放令にかかり、追放が解けたのは1951年8月であった。減資はその1か月前にあたる。戦争中に三井系へ株式が移った会社であり、経営陣の顔ぶれも財閥解体と公職追放のなかで入れ替わる途中にあった。資本の清算は、個人の決断としてよりも、法の枠組みに沿った処理として進んだとみられる[13][14]。
結果
資本の積み直しと、航空機修理への復帰
切り縮めた資本は、2年足らずで積み直しに転じた。1953年4月の抱合せ増資で資本金は6,200万円へ復元し、1954年末には倍額増資に踏み切って、1955年時点で1億2,400万円となった。抱合せ増資は、株主への有償の新株割当と無償交付を組み合わせて行う増資をいう。620万円まで落ちた資本が戦時の水準を超えるまでに3年半を要している。減資は会社を縮める処理であったが、この復元の速さは、その間に資本を積み直せるだけの事業が戻っていたことを示している[15]。
戻ってきた事業は、修理であった。1952年7月から航空機と発動機、ヘリコプターの完全分解修理を手がけ、1953年10月には大神作業所を設けて航空機工業へ進む準備を整えた。ダグラスDC3を作っていた会社が、他社の機体を直す会社として航空機へ戻った。1955年の会社概要が事業を「航空機、同発動機、自動車の修理」(会社銀行八十年史 1955年)と記しているとおり、この時期の昭和飛行機工業は修理業で成り立っていた[16][17]。
追放の解けた経営者が引き受けた復元期
資本を積み直す時期の社長を務めたのが石塚粂蔵氏である。石塚氏が社長に就いた日本製鋼所は、1945年10月に4万人近い人員を整理し、同年12月の再出発にあたって7,400余名を再採用していた。軍需に依存した会社が需要を失うと何が起きるかを、実務として通った経営者であった。1951年8月に追放が解けて日本製鋼所の相談役に迎えられ、昭和飛行機工業の社長はこれと兼ねた[18][19]。
石塚氏は1954年3月に日本製鋼所の会長へ移ったのちも、昭和飛行機工業の社長を続けた。倍額増資はその年の暮れにあたる。1955年の会社概要は、本社を東京都中央区日本橋室町、資本金を1億2,400万円、社長を石塚粂蔵氏と記している。九割の減資から3年半で、資本金は設立時の4倍に達した。生産の現場は昭島に、本社は日本橋にという二拠点の姿も、この時期に定まった[20][21]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「戦後経済再建期の会社」
- 私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)「石塚粂蔵」
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)「石橋正二郎」
- 週刊東洋経済 2021年1月23日号「人が集まる街、逃げる街 第157回 昭島市 東京都 飛行場跡地が自然豊かな住みよい街に」
- 昭和飛行機工業 有価証券報告書【沿革】