いすゞ自動車の決断社史:経営の意思決定を振り返る

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決断

広げようとして行き詰まるたび、作る対象を絞り直してきた。乗用車の量産へ資金を割いた結果、主力トラックの商品力整備が遅れ、1969年にトラック事業は単体で赤字へ転落した。資本自由化を前にした1971年7月、いすゞは米GMと全面提携し、第三者割当増資で世界最大手を筆頭株主に迎えた。主力の中小型トラックがGMの販売網と競合せず、社名と経営の独立は残った。それでも乗用車は黒字化せず、毎年300億円を超える赤字を重ねて1991年10月期に無配へ転じる。翌1992年12月、関和平社長は40年続けた乗用車の自社生産と開発から撤退した。作る対象をトラック・バスとディーゼルエンジンへ絞ったことが高コスト体質を解き、1996年3月期の連結純利益375億円という黒字回復を生んだ。

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