いすゞ自動車 の歴史

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創業 1937年
母体 東京石川島造船所+東京瓦斯電気工業
創業地 東京都品川区
創業
1937年4月、商工省と陸軍の主導で東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同し、東京自動車工業が発足した。母体の一つ東京石川島造船所は1916年に自動車製造の調査を始め、英ウーズレーと提携して乗用車の組立から入ったが、時期尚早として中止し、トラックへ重点を移していた。1941年にヂーゼル自動車工業へ改称して軍需生産を全国へ広げ、1949年5月に東京証券取引所へ上場、同年7月にいすゞ自動車へ商号を変更する。ただし1942年、陸軍直轄で管轄の異なった日野製造所を日野重工業として分離しており、国策で統合された組織は、戦後に相対することになる相手を自ら生み出していた。
決断
広げようとして行き詰まるたび、作る対象を絞り直してきた。乗用車の量産へ資金を割いた結果、主力トラックの商品力整備が遅れ、1969年にトラック事業は単体で赤字へ転落した。資本自由化を前にした1971年7月、いすゞは米GMと全面提携し、第三者割当増資で世界最大手を筆頭株主に迎えた。主力の中小型トラックがGMの販売網と競合せず、社名と経営の独立は残った。それでも乗用車は黒字化せず、毎年300億円を超える赤字を重ねて1991年10月期に無配へ転じる。翌1992年12月、関和平社長は40年続けた乗用車の自社生産と開発から撤退した。作る対象をトラック・バスとディーゼルエンジンへ絞ったことが高コスト体質を解き、1996年3月期の連結純利益375億円という黒字回復を生んだ。
現況
現在の売上の6割は日本の外にあり、国内のトラック需要はもう主役ではない。2026年3月期の売上高3兆4,790億円のうち日本は4割弱で、残りはタイを軸とする東南アジア向けの小型商用車と北米向けトラックが埋めている。区分は自動車事業と金融事業の二つだけで、金融は車の販売に随伴する販売金融であり、稼ぎの中身はボルボからUDトラックスを取得したことで軽から大型まで揃えた商用車である。ただし営業利益は2024年3月期を頂点に2期続けて減っており、北米向けの関税と台数減、部品調達コストの上昇が、統合で増やした台数の利益を侵食している。
競合
同じ商用車でも、統合する相手を自分で選べたかどうかで日野自動車との差がついた。1942年に自ら切り離した日野は、車両総重量11トン超のトラックで長く国内首位を占めた相手である。いすゞは中小型トラックと産業用ディーゼルエンジンで優位を得て、大型と欧州の販売網では劣位に置かれたまま半世紀を過ごしたが、2020年にボルボ・グループと提携してUDトラックスを取得し、軽から大型までを買い手の側から揃えた。一方の日野は認証不正のあと三菱ふそうとの統合へ進み、2026年3月に上場を廃止した。1942年に分けた相手はもう単独では現れず、いすゞが競うのはトヨタとダイムラーが後ろに立つ連合そのものになった。
いすゞ自動車:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

設立ストーリー 国策合同と商用車専業化への道程、エルフの登場 (1937年〜)

日野分離が生んだ80年越しの競合相手

いすゞの源流は、明治末から大正期に自動車製造へ乗り出した二つの母体に遡る。東京石川島造船所(1889年創立)は1916年に自動車製造の調査に着手し[1]、1918年に英国ウーズレー自動車と提携、1920年に深川区富川町へ自動車工場を新設してウーズレーA9型乗用車の組立と製造を始め[2]、1922年に粗材こそ輸入品ながら国産車といえる最初の乗用車を完成させた。[3]乗用車の製造は時期尚早として間もなく中止され、以後はトラック製造に重点が移って販売台数を伸ばし、1927年にウーズレーとの契約を円満に解約した。[4]もう一方の東京瓦斯電気工業(1910年創立)も1916年から自動車製造に着手し[5]、軍用貨物自動車を手がけていた。石川島造船所は1929年に自動車部を独立させて石川島自動車製作所とし、1933年にダット自動車製造と合併して自動車工業を設立[6]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]東京石川島造船所は1916年に自動車製造の調査を開始(明治百年は1916年と記す)
    • [2]1918年に英国ウーズレー自動車と提携、1920年に深川区富川町へ工場新設しウーズレーA9型乗用車の組立・製造を開始
    • [3]1922年(1922年12月31日)に粗材は輸入品ながら国産車といえる最初の乗用車を完成
    • [4]1927年(昭和二年)にウーズレーとの契約を円満解約し以後トラック製造に重点
    • [5]東京瓦斯電気工業(1910年=1910年創立)は1916年から自動車製造に着手し軍用貨物自動車を生産
    • [6]1929年(昭和四年五月)に石川島造船所が自動車部を独立させ石川島自動車製作所とし、1933年(昭和八年三月)ダット自動車製造と合併して自動車工業を設立

1937年4月、商工省と陸軍の主導で東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同し、東京自動車工業が発足した[7]。前身の石川島造船所はディーゼルエンジンの技術蓄積を持ち、1934年に設置された『ディーゼル機関研究委員会』が国産ディーゼル商用車の技術基盤となっていた。1938年に川崎工場を新設して車両総重量11トン超のトラック量産を開始し[8]、1941年にはヂーゼル自動車工業と改称して軍需向け生産を全国規模で強化した。[9]陸軍の要請で東京都日野市に戦車の専用工場を新設したが、本体のヂーゼル自動車工業は商工省管轄、日野製造所は陸軍直轄という管轄の違いから、組織内部には深刻な軋轢が生じていた。

  • いすゞ自動車 有価証券報告書 第123期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1937年4月 東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同し東京自動車工業が発足
    • [8]1938年に川崎工場を新設
    • [9]1941年4月 商号をヂーゼル自動車工業に改称

1942年に日野製造所は日野重工業として分離された。[10]戦時合理化で統合されたはずの両社はここに袂を分かち、同じ国産ディーゼル商用車を主戦場とする競合他社を自ら生み出した。戦後は1946年にTX80型ガソリントラックを発表して生産を再開し[11]、全国に17社の特約販売店網を整えた。[12]1949年5月にヂーゼル自動車工業は東京証券取引所に上場し、同年7月に社名をいすゞ自動車に変更して[13]、戦前の国策統合で蓄積した工場設備と技術者集団を基盤に再出発した。1955年時点では自社の経営方針を『当社は、堅実をモットーにする会社である。眼に見えぬ合理化には、日夜、いそしんでいるが、大々的な拡張は、積極的にやらない』[引用元]と表現するなど[14]、日野との市場競合を意識した堅実路線が経営の基調となった。

  • いすゞ自動車 有価証券報告書 第123期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1942年 日野製造所を分離(日野自動車の前身)
    • [13]1949年5月に東京証券取引所へ上場(旧商号ヂーゼル自動車工業のまま)、同年7月に商号をいすゞ自動車へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]1946年(1946年11月)にTX80型ガソリントラックを発表して戦後生産を再開
    • [12]全国的な販売・サービス網として17社のいすゞ特約販売店を発足させた
  • 臨時増刊ダイヤモンド(1955年11月20日)
    • [14]1955年時点の経営方針引用(臨時増刊ダイヤモンド 1955/11/20)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]東京石川島造船所は1916年に自動車製造の調査を開始(明治百年は1916年と記す)
    • [2]1918年に英国ウーズレー自動車と提携、1920年に深川区富川町へ工場新設しウーズレーA9型乗用車の組立・製造を開始
    • [3]1922年(1922年12月31日)に粗材は輸入品ながら国産車といえる最初の乗用車を完成
    • [4]1927年(昭和二年)にウーズレーとの契約を円満解約し以後トラック製造に重点
    • [5]東京瓦斯電気工業(1910年=1910年創立)は1916年から自動車製造に着手し軍用貨物自動車を生産
    • [6]1929年(昭和四年五月)に石川島造船所が自動車部を独立させ石川島自動車製作所とし、1933年(昭和八年三月)ダット自動車製造と合併して自動車工業を設立
    • [11]1946年(1946年11月)にTX80型ガソリントラックを発表して戦後生産を再開
    • [12]全国的な販売・サービス網として17社のいすゞ特約販売店を発足させた
  • いすゞ自動車 有価証券報告書 第123期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1937年4月 東京瓦斯電気工業の自動車部門とダット自動車製造が合同し東京自動車工業が発足
    • [8]1938年に川崎工場を新設
    • [9]1941年4月 商号をヂーゼル自動車工業に改称
    • [10]1942年 日野製造所を分離(日野自動車の前身)
    • [13]1949年5月に東京証券取引所へ上場(旧商号ヂーゼル自動車工業のまま)、同年7月に商号をいすゞ自動車へ変更
  • 臨時増刊ダイヤモンド(1955年11月20日)
    • [14]1955年時点の経営方針引用(臨時増刊ダイヤモンド 1955/11/20)

エルフの成功と乗用車投資の副作用

戦後の民需転換を受けて1947年にディーゼル商用車の開発と量産を再開し、1953年には英国ルーツ社と技術提携して中型乗用車『ヒルマン・ミンクス』のノックダウン生産を神奈川県川崎市で開始した。[15]1957年にはヒルマンの完全国産化を成し遂げ[16]、外国技術の導入から自前の量産へと乗用車事業を前進させた。1959年に投入した小型トラック『エルフ』は国産ディーゼル小型商用車の代表として[17]宅配便や中小企業の業務用途で支配的な地位を築き、1961年にディーゼル乗用車『ベレル』を投入した。1962年には敷地34.5万坪という国内最大級の藤沢工場を神奈川県藤沢市に新設し[18]、量産体制を整えた。1966年にはタイ国バンコク近郊に泰国いすゞ自動車を設立し、三菱商事が[19]先行して構築していた現地販売網を基盤に現地組立生産を始めた。

  • いすゞ自動車 有価証券報告書 第123期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1953年 英国ルーツ社と技術提携しヒルマン・ミンクスのノックダウン生産を開始
    • [17]1959年 小型トラック「エルフ」を投入
    • [18]1962年 敷地34.5万坪の藤沢工場を新設(社内最大級)
    • [19]1966年 泰国いすゞ自動車を設立、三菱商事の販売網を基盤に現地組立を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1957年(1957年10月)にヒルマンの完全国産化に成功

1960年代後半にはトヨタや日産の乗用車攻勢が強まり、いすゞの乗用車事業への投資は逆に商用車事業の販売網整備と商品力強化を遅らせる副作用を生んだ。国内トラック市場シェアは1960年代初頭の30%台から末期には25%以下に落ち[20]、1969年にはトラック事業が単体で赤字に転落した。1970年代初頭、米自動車大手3社の対日進出と資本自由化が迫るなか、業界紙には『トヨタ?日産?フォード?』[引用元]と資本再編を予測する見出しが掲げられ[21]『フォード・東洋工業、資本提携に動く』[引用元](日経 1970/1/11)の記事も並んだ。商用車専業メーカーとしての立ち位置が根底から揺らぎ、1971年にGM提携交渉が本格化する頃には[22]、いすゞ経営陣は資本と技術の両面で外部提携が不可欠だと認識していた。

  • いすゞ自動車 有価証券報告書 第123期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]国内トラックシェアは1960年代初頭の30%台から末期に25%以下へ低下し1969年にトラック事業が単体赤字
    • [22]1971年にGM提携交渉が本格化
  • 週刊東洋経済(1970年1月17日)
    • [21]1970年の業界紙見出し(週刊東洋経済 1970/1/17)
  • いすゞ自動車 有価証券報告書 第123期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1953年 英国ルーツ社と技術提携しヒルマン・ミンクスのノックダウン生産を開始
    • [17]1959年 小型トラック「エルフ」を投入
    • [18]1962年 敷地34.5万坪の藤沢工場を新設(社内最大級)
    • [19]1966年 泰国いすゞ自動車を設立、三菱商事の販売網を基盤に現地組立を開始
    • [20]国内トラックシェアは1960年代初頭の30%台から末期に25%以下へ低下し1969年にトラック事業が単体赤字
    • [22]1971年にGM提携交渉が本格化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1957年(1957年10月)にヒルマンの完全国産化に成功
  • 週刊東洋経済(1970年1月17日)
    • [21]1970年の業界紙見出し(週刊東洋経済 1970/1/17)

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いすゞ自動車の沿革1937〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1937〜1970年国策合同と商用車専業化への道程、エルフの登場東京自動車工業を設立
川崎工場を新設
商号をヂーゼル自動車工業に変更
日野製造所を日野自動車として分離★★
三宮吾郎民需転換によりディーゼル商用車を開発
三宮吾郎東京証券取引所に株式上場
三宮吾郎商号をいすゞ自動車に変更
三宮吾郎ルーツ社と技術援助提携に調印(乗用車生産開始)★★
三宮吾郎小型トラック「エルフ」を発表
楠木直道ディーゼル乗用車ベレルを発表
楠木直道藤沢工場を新設
大橋英吉泰国いすゞ自動車(IMCT)を設立
大橋英吉乗用車クーペを発売
荒牧寅雄トラック事業で赤字転落★★
1971〜2005年GM提携と乗用車撤退、商用車専業メーカーへの回帰荒牧寅雄いすゞ自動車のGMとの全面提携と株式34.2%の受け入れ

1971年7月、いすゞ自動車は伊藤忠商事の仲介で世界最大手の米ゼネラル・モーターズ(GM)と全面提携し、第三者割当増資で株式34.2%を割り当てて筆頭株主に迎えた。乗用車への先行投資で主力トラックの競争力を落とし、資本自由化で外資の対日進出が迫るなか、単独での世界競争を断念した中堅メーカーが、過半を渡さない一線を引いて世界最大手の資本と技術を招き入れた経営判断。

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★★★
荒牧寅雄栃木工場を新設
荒牧寅雄乗用車ジェミニを発売(GMと共同開発)
岡本利雄経常赤字に転落
岡本利雄米国いすゞ自動車を設立
飛山一男北海道工場を新設(Rカー量産)
飛山一男富士重工と北米現地生産の合弁会社を設立(IF提携)
飛山一男鶴見製造所を閉鎖★★
関和平いすゞの乗用車事業からの全面撤退と商用車・ディーゼルへの集中

1992年、連続赤字の乗用車事業について、関和平社長が就任直後に自社生産・開発からの全面撤退を決断した。筆頭株主の米ゼネラル・モーターズ(GM)を自ら説得し、トラック・バスとディーゼルエンジンへ経営資源を集中した、いすゞ最大の選択と集中である。

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★★★
稲生武GMと合弁会社DMAXを設立
井田義則希望退職者の募集★★
井田義則過去最大の赤字転落
井田義則川崎工場を閉鎖
井田義則関係会社を子会社化
2006〜2023年グローバル商用車連合の形成とUDトラックス統合井田義則GMと資本提携を解消
片山正則ピックアップトラックの組立工場を新設
片山正則いすゞ自動車のボルボとの戦略的提携とUDトラックスの取得

2021年、いすゞ自動車は片山正則社長のもとで、スウェーデンのボルボ・グループと商用車で20年以上の戦略的提携を結び、ボルボ傘下のUDトラックス(旧・日産ディーゼル工業)を企業価値2,430億円で取得した経営判断。中小型トラックに強いいすゞが大型トラックとアジア網を補い、国内中大型トラックの体制を固めた。

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★★★
片山正則トヨタ・日野自動車と商用事業で協業
南真介トヨタ自動車・スズキ・日野自動車・ダイハツ工業と商用事業で協業★★
南真介トヨタ自動車・スズキ・日野自動車・ダイハツ工業との協業を終了★★
出典・参考
  • いすゞ自動車 有価証券報告書 第123期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 臨時増刊ダイヤモンド(1955年11月20日)
  • 週刊東洋経済(1970年1月17日)

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