1937年〜 三井にも住友にも断られた計画から始まった輸送機会社(1937〜1945)
- 1937年 各種飛行機・発動機の製造販売を目的に資本金3,000万円で設立
三井も住友も断った航空機会社の設立
昭和飛行機工業は1937年6月5日[1]、資本金3,000万円[2]で設立された。初代社長には牧田環氏[3]が就いたが、この会社は三井が最初から計画したものではない。発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三氏[4]で、航空機を将来の有望な事業と見込んで米国へ工作機械を発注したものの、引取代金60数万円[5]を用意できずに行き詰まった。協力を求められたブリヂストンの石橋正二郎氏[6]が三井と住友に出資を打診したが[7]、飛行機はすぐに商売になるものではないとして断られた。計画が動いたのは、伊藤氏に頼み込まれた牧田氏が引き受ける決意を固めてから[8]だった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [1]昭和飛行機工業は1937年6月5日に設立された
- [2]設立時の資本金は3,000万円だった
- [3]初代社長は牧田環が務めた
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
- [4]発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三で、航空機会社を計画した
- [5]米国へ発注した工作機械の引取代金60数万円を用意できずに行き詰まった
- [6]伊藤久米三に協力を求められたのはブリヂストンの石橋正二郎だった
- [7]石橋正二郎が三井と住友に出資を打診したが、飛行機はすぐに商売にならないとして断られた
- [8]伊藤久米三に頼み込まれた牧田環が引き受ける決意を固めたことで設立が実現した
設立に先立って海軍省の意向が打診されたが、大角大将は生易しいことではできないとして消極的だった[9]。ところが1938年ごろになると空気が変わり[10]、昭和飛行機は陸軍と海軍の双方から注文を抱えた。戦争が進むと、三井系から株式を譲ってほしいという相談[11]が石橋氏のもとへ持ち込まれた。三菱は軍需生産に協力しているのに三井は目立った貢献をしていない[12]と軍部ににらまれており、昭和飛行機を三井の事業とすることで申し開きにしようという趣旨だった。石橋氏の関与は、事業が軌道に乗る前後までの短い期間で終わった[13]。この会社は三井が作ったのではなく、三井へ移された会社[14]である。
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
- [9]設立前に打診した海軍省では大角大将が消極的だった
- [10]1938年ごろから空気が変わり、陸軍と海軍の双方から受注を抱えた
- [11]戦争が進むと三井系から株式の譲渡を求める相談が石橋正二郎に持ち込まれた
- [12]三菱は軍需生産に協力しているのに三井は貢献していないと軍部ににらまれていた
- [13]石橋正二郎の関与は事業が軌道に乗る前後までの短期間で終わった
- [14]戦争中に三井系が株式の譲渡を求め、昭和飛行機は三井の事業となった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [1]昭和飛行機工業は1937年6月5日に設立された
- [2]設立時の資本金は3,000万円だった
- [3]初代社長は牧田環が務めた
- 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
- [4]発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三で、航空機会社を計画した
- [5]米国へ発注した工作機械の引取代金60数万円を用意できずに行き詰まった
- [6]伊藤久米三に協力を求められたのはブリヂストンの石橋正二郎だった
- [7]石橋正二郎が三井と住友に出資を打診したが、飛行機はすぐに商売にならないとして断られた
- [8]伊藤久米三に頼み込まれた牧田環が引き受ける決意を固めたことで設立が実現した
- [9]設立前に打診した海軍省では大角大将が消極的だった
- [10]1938年ごろから空気が変わり、陸軍と海軍の双方から受注を抱えた
- [11]戦争が進むと三井系から株式の譲渡を求める相談が石橋正二郎に持ち込まれた
- [12]三菱は軍需生産に協力しているのに三井は貢献していないと軍部ににらまれていた
- [13]石橋正二郎の関与は事業が軌道に乗る前後までの短期間で終わった
- [14]戦争中に三井系が株式の譲渡を求め、昭和飛行機は三井の事業となった
輸送機の国産化を担った昭島の飛行場
会社は東京市外の昭島に東京製作所を設け[15]、1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた[16]。当時の日本は軍用機の技術では高い水準にあったが、輸送機では欧米に後れを取っており[17]、その国産化が設立の目的だった。工場は昭和村と拝島村、砂川村にまたがる用地[18]に、飛行場を併設して建設された。DC3は日本で零式輸送機[19]として生産され、同機も軍用に供された。日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した[20]と日本産業史は記すが、昭和飛行機もその例に漏れなかった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [15]東京市外の昭島に東京製作所を設置した
- [16]1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた
- 週刊東洋経済 2021年1月23日号
- [17]当時の日本は軍用機の技術では高水準だったが輸送機では後れを取っており、その国産化が設立の目的だった
- [18]工場は昭和村・拝島村・砂川村にまたがる用地に飛行場を併設して建設された
- [19]DC3は日本で零式輸送機として生産された
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
- [20]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
事業は戦時下で膨らみ、1943年9月には事業拡張のため資本金を6,000万円へ増やし[21]、1945年10月には長野県の東京航空工業を合併して6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた[22]。もっとも国全体の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に落ち込み[23]、1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で急落した[24]。設立から敗戦までの8年間、昭和飛行機は軍需に応える輸送機メーカーであり、その存立は軍の需要に全面的に依存した[25]。敗戦はその依存先を一夜で消したが、輸送機を作るために確保した昭島の広大な用地は会社に残った[26]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [21]1943年9月に事業拡張のため資本金を6,000万円へ増資した
- [22]1945年10月に長野県の東京航空工業を合併して資本金6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
- [23]日本の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落した
- [24]1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で航空機生産は急落した
- [25]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
- 有価証券報告書
- [26]昭島の用地は接収されたまま会社が保有し、1969年8月に返還された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
- [15]東京市外の昭島に東京製作所を設置した
- [16]1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた
- [21]1943年9月に事業拡張のため資本金を6,000万円へ増資した
- [22]1945年10月に長野県の東京航空工業を合併して資本金6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた
- 週刊東洋経済 2021年1月23日号
- [17]当時の日本は軍用機の技術では高水準だったが輸送機では後れを取っており、その国産化が設立の目的だった
- [18]工場は昭和村・拝島村・砂川村にまたがる用地に飛行場を併設して建設された
- [19]DC3は日本で零式輸送機として生産された
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
- [20]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
- [23]日本の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落した
- [24]1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で航空機生産は急落した
- [25]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
- 有価証券報告書
- [26]昭島の用地は接収されたまま会社が保有し、1969年8月に返還された