昭和飛行機工業 の歴史

創業

1937年

創業者

牧田環

創業地

東京市外昭島(現・東京都昭島市)

直近売上高(2019/3)

254億円

長期業績と転換点(1990/3〜2019/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1937年に、三井にも住友にも断られた航空機会社が設立できたのか
A 計画の発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三氏で、米国へ工作機械を発注したものの引取代金60数万円を用意できずに行き詰まっていた。協力を求められた石橋正二郎氏が三井と住友へ出資を打診したが、飛行機はすぐに商売になるものではないとして断られた。組織の投資判断としては採算の見込みが立たなかったからである。計画が動いたのは、伊藤氏に頼み込まれた牧田環氏が引き受ける決意を固めてからだった。設立は財閥の戦略ではなく、個人の決断から始まっている。
Q なぜ1976年に、返還された飛行場跡地を売らずに貸す道を選んだのか
A 1969年8月に米軍から返還された昭島の敷地は約40万坪におよび、滑走路を敷けるだけの平地が鉄道駅から歩ける距離にまとまって残った。会社は容積率を上げず、道路計画を整えて街のインフラを作る方向を採った。戸建て住宅やマンションとして分譲すれば短期の利益は出たが、その道は選んでいない。売れば一度きりの代金で終わり、貸せば毎年の収入になるからである。2019年3月期の不動産賃貸事業は営業利益23.8億円を稼ぎ、同期の連結経常利益22億円を単独で上回った
Q なぜ2020年に上場を廃止し、投資ファンドへ売却されたのか
A 決めたのは昭和飛行機ではなく、親会社の三井E&Sホールディングスである。同社は2019年6月に保有株の売却を模索し、声をかけた複数社のうち1社がベインキャピタルだった。ベインは株式を取得するだけでなく、公開買付けを通じた完全子会社化の方針で資産査定を進めた。買付けは2020年3月10日に終了して成立し、株式売渡請求を経て同年4月20日に上場が廃止された。取得価額は特別配当を含めて約850億円だったが、翌年2月に売却されたゴルフ場など3施設だけで1,256億円が計上された

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1937年〜 三井にも住友にも断られた計画から始まった輸送機会社(1937〜1945)

  1. 1937年 各種飛行機・発動機の製造販売を目的に資本金3,000万円で設立

三井も住友も断った航空機会社の設立

昭和飛行機工業は1937年6月5日[1]、資本金3,000万円[2]で設立された。初代社長には牧田環氏[3]が就いたが、この会社は三井が最初から計画したものではない。発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三氏[4]で、航空機を将来の有望な事業と見込んで米国へ工作機械を発注したものの、引取代金60数万円[5]を用意できずに行き詰まった。協力を求められたブリヂストンの石橋正二郎氏[6]が三井と住友に出資を打診したが[7]、飛行機はすぐに商売になるものではないとして断られた。計画が動いたのは、伊藤氏に頼み込まれた牧田氏が引き受ける決意を固めてから[8]だった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [1]昭和飛行機工業は1937年6月5日に設立された
    • [2]設立時の資本金は3,000万円だった
    • [3]初代社長は牧田環が務めた
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [4]発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三で、航空機会社を計画した
    • [5]米国へ発注した工作機械の引取代金60数万円を用意できずに行き詰まった
    • [6]伊藤久米三に協力を求められたのはブリヂストンの石橋正二郎だった
    • [7]石橋正二郎が三井と住友に出資を打診したが、飛行機はすぐに商売にならないとして断られた
    • [8]伊藤久米三に頼み込まれた牧田環が引き受ける決意を固めたことで設立が実現した

設立に先立って海軍省の意向が打診されたが、大角大将は生易しいことではできないとして消極的だった[9]。ところが1938年ごろになると空気が変わり[10]、昭和飛行機は陸軍と海軍の双方から注文を抱えた。戦争が進むと、三井系から株式を譲ってほしいという相談[11]が石橋氏のもとへ持ち込まれた。三菱は軍需生産に協力しているのに三井は目立った貢献をしていない[12]と軍部ににらまれており、昭和飛行機を三井の事業とすることで申し開きにしようという趣旨だった。石橋氏の関与は、事業が軌道に乗る前後までの短い期間で終わった[13]。この会社は三井が作ったのではなく、三井へ移された会社[14]である。

  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [9]設立前に打診した海軍省では大角大将が消極的だった
    • [10]1938年ごろから空気が変わり、陸軍と海軍の双方から受注を抱えた
    • [11]戦争が進むと三井系から株式の譲渡を求める相談が石橋正二郎に持ち込まれた
    • [12]三菱は軍需生産に協力しているのに三井は貢献していないと軍部ににらまれていた
    • [13]石橋正二郎の関与は事業が軌道に乗る前後までの短期間で終わった
    • [14]戦争中に三井系が株式の譲渡を求め、昭和飛行機は三井の事業となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [1]昭和飛行機工業は1937年6月5日に設立された
    • [2]設立時の資本金は3,000万円だった
    • [3]初代社長は牧田環が務めた
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [4]発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三で、航空機会社を計画した
    • [5]米国へ発注した工作機械の引取代金60数万円を用意できずに行き詰まった
    • [6]伊藤久米三に協力を求められたのはブリヂストンの石橋正二郎だった
    • [7]石橋正二郎が三井と住友に出資を打診したが、飛行機はすぐに商売にならないとして断られた
    • [8]伊藤久米三に頼み込まれた牧田環が引き受ける決意を固めたことで設立が実現した
    • [9]設立前に打診した海軍省では大角大将が消極的だった
    • [10]1938年ごろから空気が変わり、陸軍と海軍の双方から受注を抱えた
    • [11]戦争が進むと三井系から株式の譲渡を求める相談が石橋正二郎に持ち込まれた
    • [12]三菱は軍需生産に協力しているのに三井は貢献していないと軍部ににらまれていた
    • [13]石橋正二郎の関与は事業が軌道に乗る前後までの短期間で終わった
    • [14]戦争中に三井系が株式の譲渡を求め、昭和飛行機は三井の事業となった

輸送機の国産化を担った昭島の飛行場

会社は東京市外の昭島に東京製作所を設け[15]、1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた[16]。当時の日本は軍用機の技術では高い水準にあったが、輸送機では欧米に後れを取っており[17]、その国産化が設立の目的だった。工場は昭和村と拝島村、砂川村にまたがる用地[18]に、飛行場を併設して建設された。DC3は日本で零式輸送機[19]として生産され、同機も軍用に供された。日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した[20]と日本産業史は記すが、昭和飛行機もその例に漏れなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [15]東京市外の昭島に東京製作所を設置した
    • [16]1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
    • [17]当時の日本は軍用機の技術では高水準だったが輸送機では後れを取っており、その国産化が設立の目的だった
    • [18]工場は昭和村・拝島村・砂川村にまたがる用地に飛行場を併設して建設された
    • [19]DC3は日本で零式輸送機として生産された
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [20]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した

事業は戦時下で膨らみ、1943年9月には事業拡張のため資本金を6,000万円へ増やし[21]、1945年10月には長野県の東京航空工業を合併して6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた[22]。もっとも国全体の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に落ち込み[23]、1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で急落した[24]。設立から敗戦までの8年間、昭和飛行機は軍需に応える輸送機メーカーであり、その存立は軍の需要に全面的に依存した[25]。敗戦はその依存先を一夜で消したが、輸送機を作るために確保した昭島の広大な用地は会社に残った[26]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [21]1943年9月に事業拡張のため資本金を6,000万円へ増資した
    • [22]1945年10月に長野県の東京航空工業を合併して資本金6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [23]日本の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落した
    • [24]1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で航空機生産は急落した
    • [25]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
  • 有価証券報告書
    • [26]昭島の用地は接収されたまま会社が保有し、1969年8月に返還された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [15]東京市外の昭島に東京製作所を設置した
    • [16]1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた
    • [21]1943年9月に事業拡張のため資本金を6,000万円へ増資した
    • [22]1945年10月に長野県の東京航空工業を合併して資本金6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
    • [17]当時の日本は軍用機の技術では高水準だったが輸送機では後れを取っており、その国産化が設立の目的だった
    • [18]工場は昭和村・拝島村・砂川村にまたがる用地に飛行場を併設して建設された
    • [19]DC3は日本で零式輸送機として生産された
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [20]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
    • [23]日本の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落した
    • [24]1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で航空機生産は急落した
    • [25]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
  • 有価証券報告書
    • [26]昭島の用地は接収されたまま会社が保有し、1969年8月に返還された

1945年〜 接収された工場で自動車を直し、九割減資で生き延びた(1945〜1959)

米軍直轄下で始めた自動車の分解修理

終戦直後、東京製作所は米軍に接収された[27]。昭和飛行機は軍の直轄下に置かれ、各種自動車の完全分解修理と部品製造[28]にあたった。航空機の製造を禁じられた会社は、米軍の車両を直すことで食いつないだ[29]。1947年4月には工場を昭和工場と改称し[30]、この事業を全面的に自社で経営した。それまでは米軍の管理下で作業を請け負う立場[31]だった。設立以来の主力だった航空機は作れず、昭島の飛行場は米軍が使い続けた[32]。接収が解かれて飛行場地域が返還されるのは1969年8月[33]で、終戦から24年が経過したあとのことである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [27]終戦直後に東京製作所は米軍に接収された
    • [28]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [29]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [30]1947年4月に昭和工場と改称し、事業を全面的に自社で経営することになった
    • [31]1947年4月に昭和工場と改称するまでは米軍直轄下で作業を行った
  • 有価証券報告書
    • [32]返還は1969年まで行われず、昭島の飛行場は米軍が使い続けた
    • [33]米軍接収施設の飛行場地域が返還されたのは1969年8月である

1955年時点の社長は石塚粂蔵氏[34]で、資本金は1億2,400万円[35]、事業は航空機と同発動機、自動車の修理[36]と記録された。石塚氏は1945年12月に日本製鋼所の社長となったのち公職追放を受け[37]、1951年8月に追放が解けると同社の相談役に迎えられた[38]。昭和飛行機の社長はその相談役と兼ねる形で務め、1954年3月[39]に日本製鋼所の会長へ移った。本社は東京都中央区日本橋室町に置かれ[40]、工場のある昭島とは離れていた。生産の現場は昭島に、経営の中枢は日本橋[41]にあった。この二拠点の体制は、1992年6月に本店が新宿区へ移った[42]あとも変わらず、本店が昭島市へ移る2006年10月[43]まで半世紀にわたった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [34]1955年時点の社長は石塚粂蔵だった
    • [35]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [36]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理だった
    • [40]本社は東京都中央区日本橋室町に置かれていた
    • [41]本社は東京都中央区日本橋室町2の1に置かれていた
  • 私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)
    • [37]石塚粂蔵は1945年12月に日本製鋼所の社長となったのち公職追放を受けた
    • [38]石塚粂蔵は1951年8月に追放解除となり日本製鋼所の相談役に迎えられた
    • [39]石塚粂蔵は1954年3月に日本製鋼所の会長へ移った
  • 有価証券報告書
    • [42]1992年6月に本店所在地を東京都中央区から東京都新宿区へ移転した
    • [43]2006年10月に本店所在地を東京都新宿区から東京都昭島市へ移転した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [27]終戦直後に東京製作所は米軍に接収された
    • [28]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [29]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [30]1947年4月に昭和工場と改称し、事業を全面的に自社で経営することになった
    • [31]1947年4月に昭和工場と改称するまでは米軍直轄下で作業を行った
    • [34]1955年時点の社長は石塚粂蔵だった
    • [35]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [36]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理だった
    • [40]本社は東京都中央区日本橋室町に置かれていた
    • [41]本社は東京都中央区日本橋室町2の1に置かれていた
  • 有価証券報告書
    • [32]返還は1969年まで行われず、昭島の飛行場は米軍が使い続けた
    • [33]米軍接収施設の飛行場地域が返還されたのは1969年8月である
    • [42]1992年6月に本店所在地を東京都中央区から東京都新宿区へ移転した
    • [43]2006年10月に本店所在地を東京都新宿区から東京都昭島市へ移転した
  • 私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)
    • [37]石塚粂蔵は1945年12月に日本製鋼所の社長となったのち公職追放を受けた
    • [38]石塚粂蔵は1951年8月に追放解除となり日本製鋼所の相談役に迎えられた
    • [39]石塚粂蔵は1954年3月に日本製鋼所の会長へ移った

九割減資を経た再建と航空機修理への復帰

戦後処理は資本の整理から始まり、決定整備計画により、1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立する[44]一方で会社存続の認可を受け、同年7月に九割の減資を行った[45]。九割減資は株主の持分を10分の1へ切り縮める処理[46]である。資本金は1953年4月の抱合せ増資で6,200万円へ復元し[47]、1954年末には倍額増資に踏み切った[48]。1937年の設立時に3,000万円だった資本金は、戦時下の増資で6,200万円へ膨らみ、減資で一度10分の1に落ち、1955年には1億2,400万円まで戻った[49]。減らしてから積み直すまでに3年半を要した[50]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [44]決定整備計画により1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立し、会社存続の認可を受けた
    • [45]1951年7月に九割減資を行った
    • [46]1951年7月に九割減資を実施した
    • [47]1953年4月の抱合せ増資により資本金6,200万円へ復元した
    • [48]1954年末に倍額増資を行った
    • [49]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [50]1951年7月の九割減資から1954年末の倍額増資まで3年半を要した

事業の側では航空機への復帰が進み、1952年7月から航空機と発動機、ヘリコプターの完全分解修理を手がけ[51]、1953年10月には大神作業所を設けて航空機工業へ進む準備を整えた[52]。ただし戻れたのは製造ではなく修理であり、ダグラスDC3を作っていた会社は、他社の機体を直す会社として再出発[53]した。1955年の事業内容が航空機と発動機、自動車の修理と並んでいるのは、この時期の会社が修理業で成り立っていた[54]ことを示す。自社の製品を持つ製造業へ戻るのは、米国ヘキセル社と技術援助契約を結ぶ1960年[55]まで待たねばならなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [51]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [52]1953年10月に大神作業所を設置し航空機工業へ進む準備を整えた
    • [53]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [54]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理であった
  • 有価証券報告書
    • [55]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [44]決定整備計画により1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立し、会社存続の認可を受けた
    • [45]1951年7月に九割減資を行った
    • [46]1951年7月に九割減資を実施した
    • [47]1953年4月の抱合せ増資により資本金6,200万円へ復元した
    • [48]1954年末に倍額増資を行った
    • [49]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [50]1951年7月の九割減資から1954年末の倍額増資まで3年半を要した
    • [51]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [52]1953年10月に大神作業所を設置し航空機工業へ進む準備を整えた
    • [53]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [54]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理であった
  • 有価証券報告書
    • [55]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結した

1960年〜 ハニカムとトラック組立に求めた航空機の外の活路(1960〜1975)

  1. 1960年 米ヘキセル社との技術援助契約により金属ハニカムの製造を開始
  2. 1960年 日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結
  3. 1961年 東京証券取引所市場第二部に上場
  4. 1967年 独スピッツァ社との技術援助契約により粉粒体バルク車の製造を開始
  5. 1969年 米軍接収施設の飛行場地域が返還、パブリックゴルフ場を開設

ヘキセル社の技術と日野自動車の車体

1960年、昭和飛行機は航空機の外へ出た[56]。1月に米国ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を結んで製造を始め[57]、11月には日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した[58]。ハニカムは蜂の巣状の芯材を板で挟んだ構造材で、軽さと強度を両立する航空機の技術である。一方のトラック組立は、機体を組む設備と人手を自動車の車体へ振り向けるものだった。技術は航空機から、仕事は自動車から取ってくる形である。1961年10月には東京証券取引所市場第二部[59]に株式を上場した。設立から24年、工場が自社の経営へ戻ってから14年[60]が経っていた。

  • 有価証券報告書
    • [56]1960年に金属ハニカム製造とトラック組立という航空機以外の事業を開始した
    • [57]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [58]1960年11月に日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した
    • [59]1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [60]1947年4月に事業を全面的に自社で経営するようになってから14年後に上場した

1967年2月には西独のスピッツァ社と技術援助契約を結び[61]、粉粒体バルク輸送車の製造を始めた。セメントや穀物を粉のまま運ぶタンク車で、のちにタンクローリーやトレーラーと並ぶ特装車事業の柱になった[62]。ハニカムもバルク車も、技術は海外メーカーとの援助契約によって導入したもの[63]で、自社の研究から生まれたものではない。ヘキセル社もスピッツァ社も、日本での製造を昭和飛行機に委ねる形で契約[64]している。航空機メーカーとして設立された会社は、設立から30年で、トラックの車体と特装車、ハニカムを作る会社[65]に変わった。昭和飛行機という社名だけが、航空機を作っていた時代のまま[66]残った。特装車はタンクローリーやトレーラーとして市場に出て、輸送用機器関連事業の主力[67]になった。

  • 有価証券報告書
    • [61]1967年2月に独スピッツァ社と技術援助契約を締結し粉粒体バルク車の製造を開始した
    • [62]特装車は輸送用機器関連事業の主力製品となった
    • [63]ハニカムは米ヘキセル社、粉粒体バルク車は独スピッツァ社との技術援助契約により製造を開始した
    • [64]米ヘキセル社および独スピッツァ社と技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [65]1960年から1967年にかけてトラック組立・ハニカム・粉粒体バルク車を事業化した
    • [66]商号は昭和飛行機工業のまま変更されなかった
    • [67]2019年3月期の輸送用機器関連事業の売上は101.2億円だった
  • 有価証券報告書
    • [56]1960年に金属ハニカム製造とトラック組立という航空機以外の事業を開始した
    • [57]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [58]1960年11月に日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した
    • [59]1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [61]1967年2月に独スピッツァ社と技術援助契約を締結し粉粒体バルク車の製造を開始した
    • [62]特装車は輸送用機器関連事業の主力製品となった
    • [63]ハニカムは米ヘキセル社、粉粒体バルク車は独スピッツァ社との技術援助契約により製造を開始した
    • [64]米ヘキセル社および独スピッツァ社と技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [65]1960年から1967年にかけてトラック組立・ハニカム・粉粒体バルク車を事業化した
    • [66]商号は昭和飛行機工業のまま変更されなかった
    • [67]2019年3月期の輸送用機器関連事業の売上は101.2億円だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [60]1947年4月に事業を全面的に自社で経営するようになってから14年後に上場した

米軍から返還された四十万坪の飛行場跡地

1969年8月[68]、米軍に接収されていた飛行場地域が返還された。昭島の敷地は約40万坪[69]におよび、会社は返還された施設にパブリックゴルフ場を開設した[70]。工場用地に戻すのではなく、レジャー施設として使い始めた[71]。開設されたゴルフ場は昭和の森ゴルフコースとして運営され、隣接する400ヤードの打ちっぱなし練習場[72]は敷地の広さを生かして両側に打席を設けた。滑走路を敷けるだけの平地が、JR青梅線の昭島駅[73]から歩ける距離に、まとまった一区画として戻ってきた。昭島市は立川市の西部に隣接[74]し、市の北側を玉川上水が流れる。

  • 有価証券報告書
    • [68]1969年8月に米軍接収施設の飛行場地域が返還され、返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [70]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [71]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
    • [69]返還された昭島の敷地は約40万坪におよぶ
    • [72]昭和の森ゴルフコースに隣接する400ヤードの練習場は両側に打席がある構造である
    • [73]昭島市の中央部をJR青梅線が東西に走り、街の中心は昭島駅周辺である
    • [74]昭島市は立川市西部に隣接し、市の北側には玉川上水が流れる

開発にあたって会社は容積率を上げず、道路計画を整えて街のインフラを作る方向を採った[75]。戸建て住宅やマンションとして分譲すれば短期の利益は出た[76]が、会社はその道を選ばなかった。昭島駅の北側には駅前ロータリーと整然とした街区が先に作られ、そのうえに商業施設やホテル、オフィスビルが置かれた[77]。街区を進むとケーズデンキやカインズといった大型物販店[78]、昭和の森テニスセンターが並び、玉川上水沿いにはゴルフ場までが整備された。区画を整えてから貸すという順序が、この時期に定まった。返還地は分譲されないまま[79]、会社の帳簿に残り続けた。

  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
    • [75]開発にあたっていたずらに容積率を上げず、道路計画を作成して街のインフラ整備に寄与した
    • [76]戸建て住宅やマンションとして分譲して短期的な利益を狙う道は選ばなかった
    • [77]昭島駅北口には商業施設・ホテル・オフィスビルが整備された
    • [78]街区にはケーズデンキ、カインズ、昭和の森テニスセンター、フォレスト・イン昭和館がある
  • 有価証券報告書
    • [79]返還地は分譲されず会社が保有を続け、1976年から賃貸に供された
  • 有価証券報告書
    • [68]1969年8月に米軍接収施設の飛行場地域が返還され、返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [70]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [71]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [79]返還地は分譲されず会社が保有を続け、1976年から賃貸に供された
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
    • [69]返還された昭島の敷地は約40万坪におよぶ
    • [72]昭和の森ゴルフコースに隣接する400ヤードの練習場は両側に打席がある構造である
    • [73]昭島市の中央部をJR青梅線が東西に走り、街の中心は昭島駅周辺である
    • [74]昭島市は立川市西部に隣接し、市の北側には玉川上水が流れる
    • [75]開発にあたっていたずらに容積率を上げず、道路計画を作成して街のインフラ整備に寄与した
    • [76]戸建て住宅やマンションとして分譲して短期的な利益を狙う道は選ばなかった
    • [77]昭島駅北口には商業施設・ホテル・オフィスビルが整備された
    • [78]街区にはケーズデンキ、カインズ、昭和の森テニスセンター、フォレスト・イン昭和館がある

1976年〜 土地を貸す会社への転身と、その土地ごと買われた結末(1976〜2020)

昭和飛行機工業の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1976年 米軍返還地・約40万坪の分譲の不採用と、不動産賃貸業への進出 工場に戻すか、売るか、貸すか——返還された飛行場跡地40万坪の使い道
  2. 1982年 昭和アラミッドハニカムが米ボーイング社の品質認定を取得
  3. 1984年 昭島駅北口に大型ショッピングセンター「モリタウン」を開業
  4. 1998年 都市型リゾートホテル「フォレスト・イン昭和館」を開業
  5. 2003年 日野自動車とのトラック組立事業から撤収
  6. 2014年 三井造船が公開買付けで株式を取得し親会社化
  7. 2020年 三井E&Sホールディングス保有株のベインキャピタルへの売却と、公開買付けを経た上場廃止 多角化を続ける会社を買ったのか、昭島の土地を買ったのか——簿価と時価の開き

不動産賃貸業の開始からモリタウンまで

返還から7年後の1976年7月、昭和飛行機は賃貸を目的とする不動産業務を始めた[80]。1984年4月には昭島駅北口に大型ショッピングセンターのモリタウンを建設して賃貸を開始し[81]、1998年11月には都市型リゾートホテルのフォレスト・イン昭和館を開業した[82]。2004年10月にはモリタウンを増床してリニューアル開業し、2015年3月には複合商業施設のモリパークアウトドアヴィレッジを開いた[83]。工場の隣に商業施設とホテル、ゴルフ場が並ぶ配置は、この40年の積み重ね[84]で作られた。会社は施設ごとに子会社を設け[85]、運営を分けた。

  • 有価証券報告書
    • [80]1976年7月に賃貸を目的とする不動産業務を開始した
    • [81]1984年4月に昭島駅北口に大型ショッピングセンター「モリタウン」を建設し賃貸を開始した
    • [82]1998年11月に都市型リゾートホテル「フォレスト・イン昭和館」の営業を開始した
    • [83]2015年3月に複合商業施設「モリパークアウトドアヴィレッジ」を建設し賃貸を開始した
    • [84]1976年の賃貸業開始から2015年のモリパーク開業まで段階的に施設を整備した
    • [85]昭和ビル管理・アーバンリゾーツ昭和の森・昭和の森ライフサービス等の子会社を設立した

賃貸事業は工場と同じ敷地の上に築かれ、昭島の一区画には、輸送用機器を作る工場と倉庫が残る一方で、商業施設とホテル、ゴルフ場、テニスセンターが並んだ[86]。製造と賃貸のどちらが主でどちらが従かは、売上高だけを見ていては判別しにくい。判別できるのは利益の側で、2019年3月期の不動産賃貸事業は売上70億円に対して営業利益23.8億円を計上し[87]、同期の全社経常利益22億円を単独で上回った[88]。不動産賃貸事業に配分された資産は277億円[89]にのぼり、輸送用機器関連事業の114億円の2倍を超えた。物販事業の売上は32億円[90]、営業利益は0.8億円にとどまった。

  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
    • [86]昭島の敷地には輸送用機器の工場や倉庫のほか商業施設・ホテル・スポーツレジャー施設がある
  • 有価証券報告書
    • [87]2019年3月期の不動産賃貸事業は売上70.5億円・営業利益23.8億円だった
    • [88]2019年3月期の連結経常利益は22億円だった
    • [89]2019年3月期の不動産賃貸事業のセグメント資産は277.7億円だった
    • [90]2019年3月期の物販事業は売上32.3億円・営業利益0.79億円だった
  • 有価証券報告書
    • [80]1976年7月に賃貸を目的とする不動産業務を開始した
    • [81]1984年4月に昭島駅北口に大型ショッピングセンター「モリタウン」を建設し賃貸を開始した
    • [82]1998年11月に都市型リゾートホテル「フォレスト・イン昭和館」の営業を開始した
    • [83]2015年3月に複合商業施設「モリパークアウトドアヴィレッジ」を建設し賃貸を開始した
    • [84]1976年の賃貸業開始から2015年のモリパーク開業まで段階的に施設を整備した
    • [85]昭和ビル管理・アーバンリゾーツ昭和の森・昭和の森ライフサービス等の子会社を設立した
    • [87]2019年3月期の不動産賃貸事業は売上70.5億円・営業利益23.8億円だった
    • [88]2019年3月期の連結経常利益は22億円だった
    • [89]2019年3月期の不動産賃貸事業のセグメント資産は277.7億円だった
    • [90]2019年3月期の物販事業は売上32.3億円・営業利益0.79億円だった
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
    • [86]昭島の敷地には輸送用機器の工場や倉庫のほか商業施設・ホテル・スポーツレジャー施設がある

四十三年続いたトラック組立からの撤収

製造の側は先に行き詰まった[91]。1997年3月期、昭和飛行機は大型トラックの不振で減収となり、間接人員の3割削減[92]に踏み切った。株式の益出しでも金利負担を吸収しきれず[93]、経常減益と減配が続いた。2003年10月には日野自動車とのトラック組立業務契約にもとづく組立事業から撤収[94]した。1960年11月の契約から数えて43年が経っていた[95]。影響は翌々期の決算に表れた[96]。2004年3月期に294億円だった売上高[97]は、2005年3月期に181億円へ38%減り、経常損益は10億円の赤字、当期損益は14億円の赤字に転じた[98]

  • 有価証券報告書
    • [91]1997年3月期に大型トラック不振で減収となり、2003年に組立事業から撤収した
    • [94]2003年10月に日野自動車とのトラック組立業務契約にもとづく組立事業から撤収した
    • [95]1960年11月の契約から2003年10月の撤収まで43年である
    • [96]2003年10月の撤収の影響は翌々期の2005年3月期に現れた
    • [97]2004年3月期の売上高は294億円だった
    • [98]2005年3月期の売上高は181億円で前期比38%減となり、経常損失10億円・当期純損失14億円を計上した
  • 週刊東洋経済 1997年4月5日号
    • [92]1997年3月期は大型トラック不振で減収となり間接人員3割削減を行った
  • 週刊東洋経済 1997年4月5日号「「会社四季報」最新情報 4/5号:出直し日本経済」
    • [93]株式の益出しがあっても金利負担に食われ経常減益となり減配した

撤収後の会社は規模を戻さなかった[99]。売上高は2007年3月期に252億円まで回復した[100]ものの、以後は200億円台で推移し、2002年3月期の354億円[101]のような300億円超の規模には戻らなかった。一方で経常利益は2014年3月期の17億円から2016年3月期に11億円まで落ち[102]、そこから3期続けて戻して2019年3月期に22億円へ達した。上場最終年度となった2019年3月期は売上高254億円、経常利益22億円[103]で、規模を縮めて収益性を取った形になった。2019年3月期のセグメント別では、輸送用機器関連事業が売上101億円に対して営業利益3.8億円[104]、ホテル・スポーツ・レジャー事業は3.9億円の営業赤字だった[105]。製造とレジャーの損益を、不動産賃貸が埋める構造[106]である。

  • 有価証券報告書
    • [99]撤収前の売上高300億円台に対し、以後は200億円台で推移した
    • [100]売上高は2007年3月期に252億円まで回復した
    • [101]2002年3月期の売上高は354億円だった
    • [102]経常利益は2014年3月期17.0億円、2016年3月期10.9億円、2019年3月期22.2億円と推移した
    • [103]2019年3月期の売上高は254億円、経常利益は22億円だった
    • [104]2019年3月期の輸送用機器関連事業は売上101.2億円・営業利益3.8億円だった
    • [105]2019年3月期のホテル・スポーツ・レジャー事業は3.9億円の営業損失だった
    • [106]2019年3月期は不動産賃貸の営業利益23.8億円が製造とレジャーの損益を補った
  • 有価証券報告書
    • [91]1997年3月期に大型トラック不振で減収となり、2003年に組立事業から撤収した
    • [94]2003年10月に日野自動車とのトラック組立業務契約にもとづく組立事業から撤収した
    • [95]1960年11月の契約から2003年10月の撤収まで43年である
    • [96]2003年10月の撤収の影響は翌々期の2005年3月期に現れた
    • [97]2004年3月期の売上高は294億円だった
    • [98]2005年3月期の売上高は181億円で前期比38%減となり、経常損失10億円・当期純損失14億円を計上した
    • [99]撤収前の売上高300億円台に対し、以後は200億円台で推移した
    • [100]売上高は2007年3月期に252億円まで回復した
    • [101]2002年3月期の売上高は354億円だった
    • [102]経常利益は2014年3月期17.0億円、2016年3月期10.9億円、2019年3月期22.2億円と推移した
    • [103]2019年3月期の売上高は254億円、経常利益は22億円だった
    • [104]2019年3月期の輸送用機器関連事業は売上101.2億円・営業利益3.8億円だった
    • [105]2019年3月期のホテル・スポーツ・レジャー事業は3.9億円の営業損失だった
    • [106]2019年3月期は不動産賃貸の営業利益23.8億円が製造とレジャーの損益を補った
  • 週刊東洋経済 1997年4月5日号
    • [92]1997年3月期は大型トラック不振で減収となり間接人員3割削減を行った
  • 週刊東洋経済 1997年4月5日号「「会社四季報」最新情報 4/5号:出直し日本経済」
    • [93]株式の益出しがあっても金利負担に食われ経常減益となり減配した

三井造船からベインキャピタルへの転売

2014年3月、三井造船が公開買付けにより[107]昭和飛行機の株式を取得し、親会社になった。もっとも三井との関係はこのとき始まったものではない[108]。初代社長の牧田環氏は三井の側の人物[109]であり、戦時中には三井が株式を引き取った。2000年代以降の社長も、八木順之氏と酒巻三郎氏が三井造船、田沼千明氏が中央三井信託銀行の出身だった[110]。2014年の公開買付けは、すでにあった関係を持株比率の形で確定させるものだった。三井造船はのちに三井E&Sホールディングスへ商号を変更[111]し、昭和飛行機は上場子会社のまま置かれた。

  • 有価証券報告書
    • [107]2014年3月に三井造船が公開買付けにより株式を取得し親会社になった
    • [110]八木順之と酒巻三郎は三井造船、田沼千明は中央三井信託銀行の出身である
    • [111]三井造船は株式会社三井E&Sホールディングスへ商号を変更した
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [108]初代社長の牧田環は三井側の人物で、戦時中に三井が株式を引き取った
    • [109]初代社長の牧田環は三井の側から送られた人物である

2019年6月、親会社の三井E&Sホールディングスは保有株の売却を模索し[112]、声をかけた複数社のうち1社が米投資ファンドのベインキャピタルだった。ベインは株式を取得するだけでなく、公開買付けを通じて完全子会社化する方針で資産査定を進めた[113]。同年12月下旬に買い付け候補者へ選ばれ[114]、翌2020年1月に公開買付けの実施を正式に発表した。買付けは2020年3月10日に終了して成立し、株式売渡請求を経て同年4月20日に上場を廃止[115]した。取得価額は特別配当を含めて約850億円[116]である。1961年の上場から59年[117]で、会社は市場から降りた。

  • 週刊東洋経済 2022年6月25日号
    • [112]2019年6月に三井E&Sホールディングスが持ち株の売却を模索し、ベインキャピタルが候補の1社だった
    • [113]ベインは株式取得に加え公開買付けを通じた完全子会社化の方針で資産査定を進めた
    • [114]2019年12月下旬に買い付け候補者へ選定され、2020年1月に公開買付けの実施を正式発表した
    • [116]ベインによる取得価額は特別配当を含めて約850億円だった
  • 日本取引所グループ「上場廃止等の決定:昭和飛行機工業(株)」2020年3月18日
    • [115]株式売渡請求を経て2020年4月20日に東証二部で上場廃止となった
  • 有価証券報告書
    • [117]1961年10月の上場から2020年3月の上場廃止まで59年である

買収から約1年後の2021年2月、昭和の森ゴルフコースと隣接するゴルフ練習場、ホテルが日本GLPの組成したファンドへ売却された[118]。3施設の簿価は2019年3月末時点で約88億円だった[119]が、受け皿となった特別目的会社の決算公告では特定資産として1,256億円[120]が計上された。ベインが公開買付けに投じた850億円を、土地の一部だけで上回った[121]。ベインは公開買付けの公表時点でゴルフ場を売却する予定はなかった[122]と説明した。米軍から返還された飛行場跡地は、物流施設とデータセンターの用地として次の所有者へ渡った[123]

  • 週刊東洋経済 2022年6月25日号
    • [118]2021年2月に昭和の森ゴルフコースとゴルフ練習場、ホテルが日本GLPの組成したファンドへ売却された
    • [119]3施設の簿価は2019年3月末時点で約88億円だった
    • [120]受け皿となったSPCの決算公告では特定資産として1,256億円が計上された
    • [121]SPCの特定資産1,256億円はベインの取得価額約850億円を上回った
    • [122]ベインキャピタルは公開買付けの公表時点でゴルフ場を売却する予定はなかったと説明した
    • [123]跡地は物流施設とデータセンターの用地へ転用される
  • 有価証券報告書
    • [107]2014年3月に三井造船が公開買付けにより株式を取得し親会社になった
    • [110]八木順之と酒巻三郎は三井造船、田沼千明は中央三井信託銀行の出身である
    • [111]三井造船は株式会社三井E&Sホールディングスへ商号を変更した
    • [117]1961年10月の上場から2020年3月の上場廃止まで59年である
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [108]初代社長の牧田環は三井側の人物で、戦時中に三井が株式を引き取った
    • [109]初代社長の牧田環は三井の側から送られた人物である
  • 週刊東洋経済 2022年6月25日号
    • [112]2019年6月に三井E&Sホールディングスが持ち株の売却を模索し、ベインキャピタルが候補の1社だった
    • [113]ベインは株式取得に加え公開買付けを通じた完全子会社化の方針で資産査定を進めた
    • [114]2019年12月下旬に買い付け候補者へ選定され、2020年1月に公開買付けの実施を正式発表した
    • [116]ベインによる取得価額は特別配当を含めて約850億円だった
    • [118]2021年2月に昭和の森ゴルフコースとゴルフ練習場、ホテルが日本GLPの組成したファンドへ売却された
    • [119]3施設の簿価は2019年3月末時点で約88億円だった
    • [120]受け皿となったSPCの決算公告では特定資産として1,256億円が計上された
    • [121]SPCの特定資産1,256億円はベインの取得価額約850億円を上回った
    • [122]ベインキャピタルは公開買付けの公表時点でゴルフ場を売却する予定はなかったと説明した
    • [123]跡地は物流施設とデータセンターの用地へ転用される
  • 日本取引所グループ「上場廃止等の決定:昭和飛行機工業(株)」2020年3月18日
    • [115]株式売渡請求を経て2020年4月20日に東証二部で上場廃止となった

昭和飛行機工業の沿革1937〜2021年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
各種飛行機・発動機の製造販売を目的に資本金3,000万円で設立★★★
第二会社の昭和食料工業を設立★★
米軍接収下での自動車修理への転換と、第二会社の設立・九割減資による資本の清算航空機を作れない会社を畳むか、資本を10分の1に切り縮めて残すか——企業再建整備下の選択 詳細を読む★★★
米ヘキセル社との技術援助契約により金属ハニカムの製造を開始★★
日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結★★★
東京証券取引所市場第二部に上場
独スピッツァ社との技術援助契約により粉粒体バルク車の製造を開始★★
米軍接収施設の飛行場地域が返還、パブリックゴルフ場を開設★★
広島営業所を開設
米軍返還地・約40万坪の分譲の不採用と、不動産賃貸業への進出工場に戻すか、売るか、貸すか——返還された飛行場跡地40万坪の使い道 詳細を読む★★★
名古屋営業所を開設
昭和アラミッドハニカムが米ボーイング社の品質認定を取得★★
昭和ビル管理を設立
大阪営業所を開設
昭島駅北口に大型ショッピングセンター「モリタウン」を開業★★
仙台営業所を開設
米国シアトル市に駐在員事務所を開設
本店を東京都中央区から新宿区へ移転
大阪府堺市に大阪サービス工場を開設し昭和テクノを設立
シアトル駐在事務所を法人化しSHOWA AIRCRAFT USAを設立
航空機事業部がISO 9001の認証を取得
都市型リゾートホテル「フォレスト・イン昭和館」を開業★★
昭島工場がISO 14001の認証を取得
東京都昭島市にアーバンリゾーツ昭和の森を設立
八木順之航空宇宙関連製品でJIS Q 9100の認証を取得
八木順之日野自動車とのトラック組立事業から撤収★★
八木順之東京都昭島市に昭和の森ライフサービスを設立
八木順之ハーレーダビッドソン昭和の森を設立
八木順之「モリタウン」を増床しリニューアル開業
八木順之ハーレーダビッドソン昭和の森を完全子会社化
八木順之中山産業の全株式を取得し完全子会社化★★
八木順之東京都昭島市に昭和飛行機ビジネスコンサルタントを設立
八木順之本店を東京都新宿区から昭島市へ移転
田沼千明三井造船が公開買付けで株式を取得し親会社化★★★
田沼千明フィリピンに製造子会社を設立
田沼千明昭島駅北口に複合商業施設「モリパークアウトドアヴィレッジ」を開業★★
ベインキャピタルが株式公開買付けの実施を発表★★
公開買付けが成立しベインキャピタルが株式の92.45%を取得★★
三井E&Sホールディングス保有株のベインキャピタルへの売却と、公開買付けを経た上場廃止多角化を続ける会社を買ったのか、昭島の土地を買ったのか——簿価と時価の開き 詳細を読む★★★
昭和の森ゴルフコースなど3施設を投資ファンドへ売却★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
  • 有価証券報告書
  • 私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)
  • 週刊東洋経済 1997年4月5日号
  • 週刊東洋経済 1997年4月5日号「「会社四季報」最新情報 4/5号:出直し日本経済」
  • 週刊東洋経済 2022年6月25日号
  • 日本取引所グループ「上場廃止等の決定:昭和飛行機工業(株)」2020年3月18日

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