{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"7404","company_name":"昭和飛行機工業","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/7404/","api_url":"/api/7404/history.json","updated":"2026-08-09","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/7404/","title":"昭和飛行機工業の歴史概略","sections":[{"start_year":1937,"end_year":1945,"main_title":"三井にも住友にも断られた計画から始まった輸送機会社（1937〜1945）","subsections":[{"title":"三井も住友も断った航空機会社の設立","text":"昭和飛行機工業は1937年6月5日、資本金3,000万円で設立された。初代社長には牧田環氏が就いたが、この会社は三井が最初から計画したものではない。発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三氏で、航空機を将来の有望な事業と見込んで米国へ工作機械を発注したものの、引取代金60数万円を用意できずに行き詰まった。協力を求められたブリヂストンの石橋正二郎氏が三井と住友に出資を打診したが、飛行機はすぐに商売になるものではないとして断られた。計画が動いたのは、伊藤氏に頼み込まれた牧田氏が引き受ける決意を固めてからだった。\n\n設立に先立って海軍省の意向が打診されたが、大角大将は生易しいことではできないとして消極的だった。ところが1938年ごろになると空気が変わり、昭和飛行機は陸軍と海軍の双方から注文を抱えた。戦争が進むと、三井系から株式を譲ってほしいという相談が石橋氏のもとへ持ち込まれた。三菱は軍需生産に協力しているのに三井は目立った貢献をしていないと軍部ににらまれており、昭和飛行機を三井の事業とすることで申し開きにしようという趣旨だった。石橋氏の関与は、事業が軌道に乗る前後までの短い期間で終わった。この会社は三井が作ったのではなく、三井へ移された会社である。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人2（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年1月23日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"輸送機の国産化を担った昭島の飛行場","text":"会社は東京市外の昭島に東京製作所を設け、1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた。当時の日本は軍用機の技術では高い水準にあったが、輸送機では欧米に後れを取っており、その国産化が設立の目的だった。工場は昭和村と拝島村、砂川村にまたがる用地に、飛行場を併設して建設された。DC3は日本で零式輸送機として生産され、同機も軍用に供された。日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰したと日本産業史は記すが、昭和飛行機もその例に漏れなかった。\n\n事業は戦時下で膨らみ、1943年9月には事業拡張のため資本金を6,000万円へ増やし、1945年10月には長野県の東京航空工業を合併して6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた。もっとも国全体の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に落ち込み、1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で急落した。設立から敗戦までの8年間、昭和飛行機は軍需に応える輸送機メーカーであり、その存立は軍の需要に全面的に依存した。敗戦はその依存先を一夜で消したが、輸送機を作るために確保した昭島の広大な用地は会社に残った。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人2（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年1月23日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1945,"end_year":1959,"main_title":"接収された工場で自動車を直し、九割減資で生き延びた（1945〜1959）","subsections":[{"title":"米軍直轄下で始めた自動車の分解修理","text":"終戦直後、東京製作所は米軍に接収された。昭和飛行機は軍の直轄下に置かれ、各種自動車の完全分解修理と部品製造にあたった。航空機の製造を禁じられた会社は、米軍の車両を直すことで食いつないだ。1947年4月には工場を昭和工場と改称し、この事業を全面的に自社で経営した。それまでは米軍の管理下で作業を請け負う立場だった。設立以来の主力だった航空機は作れず、昭島の飛行場は米軍が使い続けた。接収が解かれて飛行場地域が返還されるのは1969年8月で、終戦から24年が経過したあとのことである。\n\n1955年時点の社長は石塚粂蔵氏で、資本金は1億2,400万円、事業は航空機と同発動機、自動車の修理と記録された。石塚氏は1945年12月に日本製鋼所の社長となったのち公職追放を受け、1951年8月に追放が解けると同社の相談役に迎えられた。昭和飛行機の社長はその相談役と兼ねる形で務め、1954年3月に日本製鋼所の会長へ移った。本社は東京都中央区日本橋室町に置かれ、工場のある昭島とは離れていた。生産の現場は昭島に、経営の中枢は日本橋にあった。この二拠点の体制は、1992年6月に本店が新宿区へ移ったあとも変わらず、本店が昭島市へ移る2006年10月まで半世紀にわたった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人5（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"九割減資を経た再建と航空機修理への復帰","text":"戦後処理は資本の整理から始まり、決定整備計画により、1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立する一方で会社存続の認可を受け、同年7月に九割の減資を行った。九割減資は株主の持分を10分の1へ切り縮める処理である。資本金は1953年4月の抱合せ増資で6,200万円へ復元し、1954年末には倍額増資に踏み切った。1937年の設立時に3,000万円だった資本金は、戦時下の増資で6,200万円へ膨らみ、減資で一度10分の1に落ち、1955年には1億2,400万円まで戻った。減らしてから積み直すまでに3年半を要した。\n\n事業の側では航空機への復帰が進み、1952年7月から航空機と発動機、ヘリコプターの完全分解修理を手がけ、1953年10月には大神作業所を設けて航空機工業へ進む準備を整えた。ただし戻れたのは製造ではなく修理であり、ダグラスDC3を作っていた会社は、他社の機体を直す会社として再出発した。1955年の事業内容が航空機と発動機、自動車の修理と並んでいるのは、この時期の会社が修理業で成り立っていたことを示す。自社の製品を持つ製造業へ戻るのは、米国ヘキセル社と技術援助契約を結ぶ1960年まで待たねばならなかった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人5（日本経済新聞社、1980年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1960,"end_year":1975,"main_title":"ハニカムとトラック組立に求めた航空機の外の活路（1960〜1975）","subsections":[{"title":"ヘキセル社の技術と日野自動車の車体","text":"1960年、昭和飛行機は航空機の外へ出た。1月に米国ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を結んで製造を始め、11月には日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した。ハニカムは蜂の巣状の芯材を板で挟んだ構造材で、軽さと強度を両立する航空機の技術である。一方のトラック組立は、機体を組む設備と人手を自動車の車体へ振り向けるものだった。技術は航空機から、仕事は自動車から取ってくる形である。1961年10月には東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。設立から24年、工場が自社の経営へ戻ってから14年が経っていた。\n\n1967年2月には西独のスピッツァ社と技術援助契約を結び、粉粒体バルク輸送車の製造を始めた。セメントや穀物を粉のまま運ぶタンク車で、のちにタンクローリーやトレーラーと並ぶ特装車事業の柱になった。ハニカムもバルク車も、技術は海外メーカーとの援助契約によって導入したもので、自社の研究から生まれたものではない。ヘキセル社もスピッツァ社も、日本での製造を昭和飛行機に委ねる形で契約している。航空機メーカーとして設立された会社は、設立から30年で、トラックの車体と特装車、ハニカムを作る会社に変わった。昭和飛行機という社名だけが、航空機を作っていた時代のまま残った。特装車はタンクローリーやトレーラーとして市場に出て、輸送用機器関連事業の主力になった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年1月23日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"米軍から返還された四十万坪の飛行場跡地","text":"1969年8月、米軍に接収されていた飛行場地域が返還された。昭島の敷地は約40万坪におよび、会社は返還された施設にパブリックゴルフ場を開設した。工場用地に戻すのではなく、レジャー施設として使い始めた。開設されたゴルフ場は昭和の森ゴルフコースとして運営され、隣接する400ヤードの打ちっぱなし練習場は敷地の広さを生かして両側に打席を設けた。滑走路を敷けるだけの平地が、JR青梅線の昭島駅から歩ける距離に、まとまった一区画として戻ってきた。昭島市は立川市の西部に隣接し、市の北側を玉川上水が流れる。\n\n開発にあたって会社は容積率を上げず、道路計画を整えて街のインフラを作る方向を採った。戸建て住宅やマンションとして分譲すれば短期の利益は出たが、会社はその道を選ばなかった。昭島駅の北側には駅前ロータリーと整然とした街区が先に作られ、そのうえに商業施設やホテル、オフィスビルが置かれた。街区を進むとケーズデンキやカインズといった大型物販店、昭和の森テニスセンターが並び、玉川上水沿いにはゴルフ場までが整備された。区画を整えてから貸すという順序が、この時期に定まった。返還地は分譲されないまま、会社の帳簿に残り続けた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年1月23日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1976,"end_year":2020,"main_title":"土地を貸す会社への転身と、その土地ごと買われた結末（1976〜2020）","subsections":[{"title":"不動産賃貸業の開始からモリタウンまで","text":"返還から7年後の1976年7月、昭和飛行機は賃貸を目的とする不動産業務を始めた。1984年4月には昭島駅北口に大型ショッピングセンターのモリタウンを建設して賃貸を開始し、1998年11月には都市型リゾートホテルのフォレスト・イン昭和館を開業した。2004年10月にはモリタウンを増床してリニューアル開業し、2015年3月には複合商業施設のモリパークアウトドアヴィレッジを開いた。工場の隣に商業施設とホテル、ゴルフ場が並ぶ配置は、この40年の積み重ねで作られた。会社は施設ごとに子会社を設け、運営を分けた。\n\n賃貸事業は工場と同じ敷地の上に築かれ、昭島の一区画には、輸送用機器を作る工場と倉庫が残る一方で、商業施設とホテル、ゴルフ場、テニスセンターが並んだ。製造と賃貸のどちらが主でどちらが従かは、売上高だけを見ていては判別しにくい。判別できるのは利益の側で、2019年3月期の不動産賃貸事業は売上70億円に対して営業利益23.8億円を計上し、同期の全社経常利益22億円を単独で上回った。不動産賃貸事業に配分された資産は277億円にのぼり、輸送用機器関連事業の114億円の2倍を超えた。物販事業の売上は32億円、営業利益は0.8億円にとどまった。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年4月5日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年1月23日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022年6月25日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"四十三年続いたトラック組立からの撤収","text":"製造の側は先に行き詰まった。1997年3月期、昭和飛行機は大型トラックの不振で減収となり、間接人員の3割削減に踏み切った。株式の益出しでも金利負担を吸収しきれず、経常減益と減配が続いた。2003年10月には日野自動車とのトラック組立業務契約にもとづく組立事業から撤収した。1960年11月の契約から数えて43年が経っていた。影響は翌々期の決算に表れた。2004年3月期に294億円だった売上高は、2005年3月期に181億円へ38%減り、経常損益は10億円の赤字、当期損益は14億円の赤字に転じた。\n\n撤収後の会社は規模を戻さなかった。売上高は2007年3月期に252億円まで回復したものの、以後は200億円台で推移し、2002年3月期の354億円のような300億円超の規模には戻らなかった。一方で経常利益は2014年3月期の17億円から2016年3月期に11億円まで落ち、そこから3期続けて戻して2019年3月期に22億円へ達した。上場最終年度となった2019年3月期は売上高254億円、経常利益22億円で、規模を縮めて収益性を取った形になった。2019年3月期のセグメント別では、輸送用機器関連事業が売上101億円に対して営業利益3.8億円、ホテル・スポーツ・レジャー事業は3.9億円の営業赤字だった。製造とレジャーの損益を、不動産賃貸が埋める構造である。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年4月5日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年1月23日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022年6月25日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"三井造船からベインキャピタルへの転売","text":"2014年3月、三井造船が公開買付けにより昭和飛行機の株式を取得し、親会社になった。もっとも三井との関係はこのとき始まったものではない。初代社長の牧田環氏は三井の側の人物であり、戦時中には三井が株式を引き取った。2000年代以降の社長も、八木順之氏と酒巻三郎氏が三井造船、田沼千明氏が中央三井信託銀行の出身だった。2014年の公開買付けは、すでにあった関係を持株比率の形で確定させるものだった。三井造船はのちに三井E&Sホールディングスへ商号を変更し、昭和飛行機は上場子会社のまま置かれた。\n\n2019年6月、親会社の三井E&Sホールディングスは保有株の売却を模索し、声をかけた複数社のうち1社が米投資ファンドのベインキャピタルだった。ベインは株式を取得するだけでなく、公開買付けを通じて完全子会社化する方針で資産査定を進めた。同年12月下旬に買い付け候補者へ選ばれ、翌2020年1月に公開買付けの実施を正式に発表した。買付けは2020年3月10日に終了して成立し、株式売渡請求を経て同年4月20日に上場を廃止した。取得価額は特別配当を含めて約850億円である。1961年の上場から59年で、会社は市場から降りた。\n\n買収から約1年後の2021年2月、昭和の森ゴルフコースと隣接するゴルフ練習場、ホテルが日本GLPの組成したファンドへ売却された。3施設の簿価は2019年3月末時点で約88億円だったが、受け皿となった特別目的会社の決算公告では特定資産として1,256億円が計上された。ベインが公開買付けに投じた850億円を、土地の一部だけで上回った。ベインは公開買付けの公表時点でゴルフ場を売却する予定はなかったと説明した。米軍から返還された飛行場跡地は、物流施設とデータセンターの用地として次の所有者へ渡った。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年4月5日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年1月23日号","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 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