昭和飛行機工業 の歴史

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創業 1937年
創業者 牧田環
創業地 東京市外昭島(現・東京都昭島市)
創業
1937年6月5日、資本金3,000万円で昭和飛行機工業が設立され、初代社長に牧田環氏が就任した。発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三氏で、米国へ発注した工作機械の引取代金を用意できずに行き詰まっていた。協力を求められた石橋正二郎氏が三井と住友へ出資を打診したが、飛行機はすぐに商売になるものではないとして断られている。会社は東京市外の昭島に東京製作所を設け、1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた。1943年9月に資本金を6,000万円へ増やし、1945年10月には東京航空工業を合併して篠ノ井工場を得たが、敗戦で軍需という唯一の需要先は消えた。
決断
自社で設計した製品を、設立から一度も持たなかった。終戦で東京製作所は米軍に接収され、会社は軍の直轄下で各種自動車の完全分解修理と部品製造にあたった。1951年5月には第二会社の設立と九割減資で戦時の損失を清算し、会社存続の認可を得た。1952年7月に航空機と発動機の完全分解修理へ戻ったが、戻れたのは製造ではなく修理である。1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を結んで製造を始め、同年11月には日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した。1967年2月には西独スピッツァ社の技術で粉粒体バルク輸送車を作り、これがタンクローリーと並ぶ特装車事業になる。借りた技術と他社の車体で埋めた製造は請負の採算しか生まず、1976年7月に返還された飛行場跡地を分譲せず賃貸へ充てたことで、利益の出所は作る側から貸す側へ移った。
現況
最後の決算で利益をほぼ全て生んでいたのは、航空機でも車でもなく土地だった。上場最終年度となった2019年3月期の連結売上高は254億円、営業利益23億8,000万円。不動産賃貸事業は売上70億円に対し営業利益23億8,000万円を計上し、全社の営業利益と同額だった。輸送用機器関連事業は売上101億円で営業利益3億8,000万円、ホテル・スポーツ・レジャー事業は3億9,000万円の営業損失である。同事業に配分された資産は277億円で、輸送用機器関連の114億円の2倍を超えた。2020年1月に三井E&Sホールディングスがベインキャピタルへ保有株を売却し、公開買付けは同年3月10日に成立し、株式売渡請求を経て4月20日に上場を廃止する。工場を持つ製造業としてではなく、その工場が建つ土地ごと取得されたことが、59年の上場を終わらせた。
競合
同じ航空機会社でも、戦後に自社の製品を持てたかどうかで行き先が分かれた。中島飛行機は1950年に12社へ分割されたが、うち5社は1953年7月に再結集して富士重工業を設立し、1958年の軽自動車スバル360では航空機の造り方をモノコックボディへ応用した。昭和飛行機工業が1952年に戻れたのは修理業務で、1960年以降に始めた金属ハニカムは米ヘキセル社、粉粒体バルク輸送車は西独スピッツァ社の技術援助契約により、トラック組立は日野自動車の車体を請け負う契約だった。その組立契約は2003年10月に43年で終わり、売上高は2004年3月期の294億円から翌期の181億円へ38%減る。他社の設計と他社の車体に依存した製造は、契約が切れればそのまま売上が消える構造で、規模は二度と戻らなかった。
昭和飛行機工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2019年3月期

創業ストーリー 三井にも住友にも断られた計画から始まった輸送機会社(1937〜1945) (1937年〜)

三井にも住友にも断られた計画から始まった輸送機会社(1937〜1945)

三井も住友も断った航空機会社の設立

昭和飛行機工業は1937年6月5日[1]、資本金3,000万円[2]で設立された。初代社長には牧田環氏[3]が就いたが、この会社は三井が最初から計画したものではない。発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三氏[4]で、航空機を将来の有望な事業と見込んで米国へ工作機械を発注したものの、引取代金60数万円[5]を用意できずに行き詰まった。協力を求められたブリヂストンの石橋正二郎氏[6]が三井と住友に出資を打診したが[7]、飛行機はすぐに商売になるものではないとして断られた。計画が動いたのは、伊藤氏に頼み込まれた牧田氏が引き受ける決意を固めてから[8]だった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [1]昭和飛行機工業は1937年6月5日に設立された
    • [2]設立時の資本金は3,000万円だった
    • [3]初代社長は牧田環が務めた
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [4]発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三で、航空機会社を計画した
    • [5]米国へ発注した工作機械の引取代金60数万円を用意できずに行き詰まった
    • [6]伊藤久米三に協力を求められたのはブリヂストンの石橋正二郎だった
    • [7]石橋正二郎が三井と住友に出資を打診したが、飛行機はすぐに商売にならないとして断られた
    • [8]伊藤久米三に頼み込まれた牧田環が引き受ける決意を固めたことで設立が実現した

設立に先立って海軍省の意向が打診されたが、大角大将は生易しいことではできないとして消極的だった[9]。ところが1938年ごろになると空気が変わり[10]、昭和飛行機は陸軍と海軍の双方から注文を抱えた。戦争が進むと、三井系から株式を譲ってほしいという相談[11]が石橋氏のもとへ持ち込まれた。三菱は軍需生産に協力しているのに三井は目立った貢献をしていない[12]と軍部ににらまれており、昭和飛行機を三井の事業とすることで申し開きにしようという趣旨だった。石橋氏の関与は、事業が軌道に乗る前後までの短い期間で終わった[13]。この会社は三井が作ったのではなく、三井へ移された会社[14]である。

  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [9]設立前に打診した海軍省では大角大将が消極的だった
    • [10]1938年ごろから空気が変わり、陸軍と海軍の双方から受注を抱えた
    • [11]戦争が進むと三井系から株式の譲渡を求める相談が石橋正二郎に持ち込まれた
    • [12]三菱は軍需生産に協力しているのに三井は貢献していないと軍部ににらまれていた
    • [13]石橋正二郎の関与は事業が軌道に乗る前後までの短期間で終わった
    • [14]戦争中に三井系が株式の譲渡を求め、昭和飛行機は三井の事業となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [1]昭和飛行機工業は1937年6月5日に設立された
    • [2]設立時の資本金は3,000万円だった
    • [3]初代社長は牧田環が務めた
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
    • [4]発起人は三菱を辞した工学博士の伊藤久米三で、航空機会社を計画した
    • [5]米国へ発注した工作機械の引取代金60数万円を用意できずに行き詰まった
    • [6]伊藤久米三に協力を求められたのはブリヂストンの石橋正二郎だった
    • [7]石橋正二郎が三井と住友に出資を打診したが、飛行機はすぐに商売にならないとして断られた
    • [8]伊藤久米三に頼み込まれた牧田環が引き受ける決意を固めたことで設立が実現した
    • [9]設立前に打診した海軍省では大角大将が消極的だった
    • [10]1938年ごろから空気が変わり、陸軍と海軍の双方から受注を抱えた
    • [11]戦争が進むと三井系から株式の譲渡を求める相談が石橋正二郎に持ち込まれた
    • [12]三菱は軍需生産に協力しているのに三井は貢献していないと軍部ににらまれていた
    • [13]石橋正二郎の関与は事業が軌道に乗る前後までの短期間で終わった
    • [14]戦争中に三井系が株式の譲渡を求め、昭和飛行機は三井の事業となった

輸送機の国産化を担った昭島の飛行場

会社は東京市外の昭島に東京製作所を設け[15]、1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた[16]。日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した[17]と日本産業史は記すが、昭和飛行機もその例に漏れなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [15]東京市外の昭島に東京製作所を設置した
    • [16]1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [17]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した

事業は戦時下で膨らみ、1943年9月には事業拡張のため資本金を6,000万円へ増やし[18]、1945年10月には長野県の東京航空工業を合併して6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた[19]。もっとも国全体の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に落ち込み[20]、1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で急落した[21]。設立から敗戦までの8年間、昭和飛行機は軍需に応える輸送機メーカーであり、その存立は軍の需要に全面的に依存した[22]。敗戦はその依存先を一夜で消したが、輸送機を作るために確保した昭島の広大な用地は会社に残った[23]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [18]1943年9月に事業拡張のため資本金を6,000万円へ増資した
    • [19]1945年10月に長野県の東京航空工業を合併して資本金6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [20]日本の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落した
    • [21]1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で航空機生産は急落した
    • [22]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
  • 有価証券報告書
    • [23]昭島の用地は接収されたまま会社が保有し、1969年8月に返還された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [15]東京市外の昭島に東京製作所を設置した
    • [16]1938年3月からダグラスDC3型輸送機の製作を始めた
    • [18]1943年9月に事業拡張のため資本金を6,000万円へ増資した
    • [19]1945年10月に長野県の東京航空工業を合併して資本金6,200万円とし、篠ノ井工場を設けた
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [17]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
    • [20]日本の航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落した
    • [21]1945年に入ると空襲の被害と工場疎開で航空機生産は急落した
    • [22]日本の航空機工業は民需をほとんど問題外とし、もっぱら軍需を対象として発達し盛衰した
  • 有価証券報告書
    • [23]昭島の用地は接収されたまま会社が保有し、1969年8月に返還された

接収された工場で自動車を直し、9割減資で生き延びた(1945〜1959)

米軍直轄下で始めた自動車の分解修理

終戦直後、東京製作所は米軍に接収された[24]。昭和飛行機は軍の直轄下に置かれ、各種自動車の完全分解修理と部品製造[25]にあたった。航空機の製造を禁じられた会社は、米軍の車両を直すことで食いつないだ[26]。1947年4月には工場を昭和工場と改称し[27]、この事業を全面的に自社で経営した。それまでは米軍の管理下で作業を請け負う立場[28]だった。設立以来の主力だった航空機は作れず、昭島の飛行場は米軍が使い続けた[29]。接収が解かれて飛行場地域が返還されるのは1969年8月[30]で、終戦から24年が経過したあとのことである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [24]終戦直後に東京製作所は米軍に接収された
    • [25]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [26]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [27]1947年4月に昭和工場と改称し、事業を全面的に自社で経営することになった
    • [28]1947年4月に昭和工場と改称するまでは米軍直轄下で作業を行った
  • 有価証券報告書
    • [29]返還は1969年まで行われず、昭島の飛行場は米軍が使い続けた
    • [30]米軍接収施設の飛行場地域が返還されたのは1969年8月である

1955年時点の社長は石塚粂蔵氏[31]で、資本金は1億2,400万円[32]、事業は航空機と同発動機、自動車の修理[33]と記録された。石塚氏は1945年12月に日本製鋼所の社長となったのち公職追放を受け[34]、1951年8月に追放が解けると同社の相談役に迎えられた[35]。昭和飛行機の社長はその相談役と兼ねる形で務め、1954年3月[36]に日本製鋼所の会長へ移った。本社は東京都中央区日本橋室町に置かれ[37]、工場のある昭島とは離れていた。生産の現場は昭島に、経営の中枢は日本橋[38]にあった。この二拠点の体制は、1992年6月に本店が新宿区へ移った[39]あとも変わらず、本店が昭島市へ移る2006年10月[40]まで半世紀にわたった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [31]1955年時点の社長は石塚粂蔵だった
    • [32]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [33]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理だった
    • [37]本社は東京都中央区日本橋室町に置かれていた
    • [38]本社は東京都中央区日本橋室町2の1に置かれていた
  • 私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)
    • [34]石塚粂蔵は1945年12月に日本製鋼所の社長となったのち公職追放を受けた
    • [35]石塚粂蔵は1951年8月に追放解除となり日本製鋼所の相談役に迎えられた
    • [36]石塚粂蔵は1954年3月に日本製鋼所の会長へ移った
  • 有価証券報告書
    • [39]1992年6月に本店所在地を東京都中央区から東京都新宿区へ移転した
    • [40]2006年10月に本店所在地を東京都新宿区から東京都昭島市へ移転した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [24]終戦直後に東京製作所は米軍に接収された
    • [25]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [26]米軍直轄下で各種自動車の完全分解修理および部品製造を行った
    • [27]1947年4月に昭和工場と改称し、事業を全面的に自社で経営することになった
    • [28]1947年4月に昭和工場と改称するまでは米軍直轄下で作業を行った
    • [31]1955年時点の社長は石塚粂蔵だった
    • [32]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [33]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理だった
    • [37]本社は東京都中央区日本橋室町に置かれていた
    • [38]本社は東京都中央区日本橋室町2の1に置かれていた
  • 有価証券報告書
    • [29]返還は1969年まで行われず、昭島の飛行場は米軍が使い続けた
    • [30]米軍接収施設の飛行場地域が返還されたのは1969年8月である
    • [39]1992年6月に本店所在地を東京都中央区から東京都新宿区へ移転した
    • [40]2006年10月に本店所在地を東京都新宿区から東京都昭島市へ移転した
  • 私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)
    • [34]石塚粂蔵は1945年12月に日本製鋼所の社長となったのち公職追放を受けた
    • [35]石塚粂蔵は1951年8月に追放解除となり日本製鋼所の相談役に迎えられた
    • [36]石塚粂蔵は1954年3月に日本製鋼所の会長へ移った

9割減資を経た再建と航空機修理への復帰

戦後処理は資本の整理から始まり、決定整備計画により、1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立する[41]一方で会社存続の認可を受け、同年7月に9割の減資を行った[42]。9割減資は株主の持分を10分の1へ切り縮める処理[43]である。資本金は1953年4月の抱合せ増資で6,200万円へ復元し[44]、1954年末には倍額増資に踏み切った[45]。1937年の設立時に3,000万円だった資本金は、戦時下の増資で6,200万円へ膨らみ、減資で一度10分の1に落ち、1955年には1億2,400万円まで戻った[46]。減らしてから積み直すまでに3年半を要した[47]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [41]決定整備計画により1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立し、会社存続の認可を受けた
    • [42]1951年7月に9割減資を行った
    • [43]1951年7月に9割減資を実施した
    • [44]1953年4月の抱合せ増資により資本金6,200万円へ復元した
    • [45]1954年末に倍額増資を行った
    • [46]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [47]1951年7月の9割減資から1954年末の倍額増資まで3年半を要した

事業の側では航空機への復帰が進み、1952年7月から航空機と発動機、ヘリコプターの完全分解修理を手がけ[48]、1953年10月には大神作業所を設けて航空機工業へ進む準備を整えた[49]。ただし戻れたのは製造ではなく修理であり、ダグラスDC3を作っていた会社は、他社の機体を直す会社として再出発[50]した。1955年の事業内容が航空機と発動機、自動車の修理と並んでいるのは、この時期の会社が修理業で成り立っていた[51]ことを示す。自社の製品を持つ製造業へ戻るのは、米国ヘキセル社と技術援助契約を結ぶ1960年[52]まで待たねばならなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [48]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [49]1953年10月に大神作業所を設置し航空機工業へ進む準備を整えた
    • [50]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [51]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理であった
  • 有価証券報告書
    • [52]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [41]決定整備計画により1951年5月に第二会社として昭和食料工業を設立し、会社存続の認可を受けた
    • [42]1951年7月に9割減資を行った
    • [43]1951年7月に9割減資を実施した
    • [44]1953年4月の抱合せ増資により資本金6,200万円へ復元した
    • [45]1954年末に倍額増資を行った
    • [46]1955年時点の資本金は1億2,400万円だった
    • [47]1951年7月の9割減資から1954年末の倍額増資まで3年半を要した
    • [48]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [49]1953年10月に大神作業所を設置し航空機工業へ進む準備を整えた
    • [50]1952年7月から航空機・発動機・ヘリコプターの完全分解修理を行った
    • [51]1955年時点の事業は航空機・同発動機・自動車の修理であった
  • 有価証券報告書
    • [52]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結した

ハニカムとトラック組立に求めた航空機の外の活路(1960〜1975)

ヘキセル社の技術と日野自動車の車体

1960年、昭和飛行機は航空機の外へ出た[53]。1月に米国ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を結んで製造を始め[54]、11月には日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した[55]。ハニカムは蜂の巣状の芯材を板で挟んだ構造材で、軽さと強度を両立する航空機の技術である。一方のトラック組立は、機体を組む設備と人手を自動車の車体へ振り向けるものだった。技術は航空機から、仕事は自動車から取ってくる形である。1961年10月には東京証券取引所市場第二部[56]に株式を上場した。設立から24年、工場が自社の経営へ戻ってから14年[57]が経っていた。

  • 有価証券報告書
    • [53]1960年に金属ハニカム製造とトラック組立という航空機以外の事業を開始した
    • [54]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [55]1960年11月に日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した
    • [56]1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [57]1947年4月に事業を全面的に自社で経営するようになってから14年後に上場した

1967年2月には西独のスピッツァ社と技術援助契約を結び[58]、粉粒体バルク輸送車の製造を始めた。セメントや穀物を粉のまま運ぶタンク車で、のちにタンクローリーやトレーラーと並ぶ特装車事業の柱になった[59]。ハニカムもバルク車も、技術は海外メーカーとの援助契約によって導入したもの[60]で、自社の研究から生まれたものではない。ヘキセル社もスピッツァ社も、日本での製造を昭和飛行機に委ねる形で契約[61]している。航空機メーカーとして設立された会社は、設立から30年で、トラックの車体と特装車、ハニカムを作る会社[62]に変わった。昭和飛行機という社名だけが、航空機を作っていた時代のまま[63]残った。特装車はタンクローリーやトレーラーとして市場に出て、輸送用機器関連事業の主力[64]になった。

  • 有価証券報告書
    • [58]1967年2月に独スピッツァ社と技術援助契約を締結し粉粒体バルク車の製造を開始した
    • [59]特装車は輸送用機器関連事業の主力製品となった
    • [60]ハニカムは米ヘキセル社、粉粒体バルク車は独スピッツァ社との技術援助契約により製造を開始した
    • [61]米ヘキセル社および独スピッツァ社と技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [62]1960年から1967年にかけてトラック組立・ハニカム・粉粒体バルク車を事業化した
    • [63]商号は昭和飛行機工業のまま変更されなかった
    • [64]2019年3月期の輸送用機器関連事業の売上は101.2億円だった
  • 有価証券報告書
    • [53]1960年に金属ハニカム製造とトラック組立という航空機以外の事業を開始した
    • [54]1960年1月に米ヘキセル社と金属ハニカムの技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [55]1960年11月に日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結した
    • [56]1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [58]1967年2月に独スピッツァ社と技術援助契約を締結し粉粒体バルク車の製造を開始した
    • [59]特装車は輸送用機器関連事業の主力製品となった
    • [60]ハニカムは米ヘキセル社、粉粒体バルク車は独スピッツァ社との技術援助契約により製造を開始した
    • [61]米ヘキセル社および独スピッツァ社と技術援助契約を締結し製造を開始した
    • [62]1960年から1967年にかけてトラック組立・ハニカム・粉粒体バルク車を事業化した
    • [63]商号は昭和飛行機工業のまま変更されなかった
    • [64]2019年3月期の輸送用機器関連事業の売上は101.2億円だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
    • [57]1947年4月に事業を全面的に自社で経営するようになってから14年後に上場した

米軍から返還された40万坪の飛行場跡地

1969年8月[65]、米軍に接収されていた飛行場地域が返還された。会社は返還された施設にパブリックゴルフ場を開設した[66]。工場用地に戻すのではなく、レジャー施設として使い始めた[67]

  • 有価証券報告書
    • [65]1969年8月に米軍接収施設の飛行場地域が返還され、返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [66]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [67]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した

区画を整えてから貸すという順序が、この時期に定まった。返還地は分譲されないまま[68]、会社の帳簿に残り続けた。

  • 有価証券報告書
    • [68]返還地は分譲されず会社が保有を続け、1976年から賃貸に供された
  • 有価証券報告書
    • [65]1969年8月に米軍接収施設の飛行場地域が返還され、返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [66]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [67]返還施設にパブリックゴルフ場を開設した
    • [68]返還地は分譲されず会社が保有を続け、1976年から賃貸に供された

土地を貸す会社への転身と、その土地ごと買われた結末(1976〜2020)

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昭和飛行機工業の沿革1937〜2021年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1937〜1945年三井にも住友にも断られた計画から始まった輸送機会社(1937〜1945)各種飛行機・発動機の製造販売を目的に資本金3,000万円で設立★★★
1945〜1959年接収された工場で自動車を直し、9割減資で生き延びた(1945〜1959)第二会社の昭和食料工業を設立★★
米軍接収下での自動車修理への転換と、第二会社の設立・九割減資による資本の清算

1951年、昭和飛行機工業が決定整備計画により、5月に第二会社の昭和食料工業を設立する一方で会社存続の認可を受け、同年7月に九割の減資を行った経営判断。終戦直後に米軍へ接収された東京製作所で各種自動車の完全分解修理に転じており、その事業を続けながら資本だけを清算した。

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1960〜1975年ハニカムとトラック組立に求めた航空機の外の活路(1960〜1975)米ヘキセル社との技術援助契約により金属ハニカムの製造を開始★★
日野自動車工業とトラック組立業務契約を締結★★★
東京証券取引所市場第二部に上場
独スピッツァ社との技術援助契約により粉粒体バルク車の製造を開始★★
米軍接収施設の飛行場地域が返還、パブリックゴルフ場を開設★★
1976〜2020年土地を貸す会社への転身と、その土地ごと買われた結末(1976〜2020)広島営業所を開設
米軍返還地・約40万坪の分譲の不採用と、不動産賃貸業への進出

1969年8月に米軍から返還された昭島の約40万坪について、昭和飛行機工業が工場用地への復帰も宅地分譲も選ばず、1976年7月に賃貸を目的とする不動産業務を始め、以後2015年まで自社で施設を建てて貸し続けた経営判断である。

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名古屋営業所を開設
昭和アラミッドハニカムが米ボーイング社の品質認定を取得★★
昭和ビル管理を設立
大阪営業所を開設
昭島駅北口に大型ショッピングセンター「モリタウン」を開業★★
仙台営業所を開設
米国シアトル市に駐在員事務所を開設
本店を東京都中央区から新宿区へ移転
大阪府堺市に大阪サービス工場を開設し昭和テクノを設立
シアトル駐在事務所を法人化しSHOWA AIRCRAFT USAを設立
航空機事業部がISO 9001の認証を取得
都市型リゾートホテル「フォレスト・イン昭和館」を開業★★
昭島工場がISO 14001の認証を取得
東京都昭島市にアーバンリゾーツ昭和の森を設立
八木順之航空宇宙関連製品でJIS Q 9100の認証を取得
八木順之日野自動車とのトラック組立事業から撤収★★
八木順之東京都昭島市に昭和の森ライフサービスを設立
八木順之ハーレーダビッドソン昭和の森を設立
八木順之「モリタウン」を増床しリニューアル開業
八木順之ハーレーダビッドソン昭和の森を完全子会社化
八木順之中山産業の全株式を取得し完全子会社化★★
八木順之東京都昭島市に昭和飛行機ビジネスコンサルタントを設立
八木順之本店を東京都新宿区から昭島市へ移転
酒巻三郎三井造船が公開買付けで株式を取得し親会社化★★★
酒巻三郎フィリピンに製造子会社を設立
酒巻三郎昭島駅北口に複合商業施設「モリパークアウトドアヴィレッジ」を開業★★
田沼千明ベインキャピタルが株式公開買付けの実施を発表★★
田沼千明公開買付けが成立しベインキャピタルが株式の92.45%を取得★★
田沼千明三井E&Sホールディングス保有株のベインキャピタルへの売却と、公開買付けを経た上場廃止

2020年1月23日、三井E&Sホールディングスが間接所有分を含め65.6%を保有する昭和飛行機工業の全株式を、米投資ファンドのベインキャピタルへ約455億円で売却すると発表した。ベインキャピタルの公開買付けは2020年3月11日に92.45%を取得して成立し、同社は株式売渡請求を経て同年4月20日に東証2部から上場を廃止した。

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昭和の森ゴルフコースなど3施設を投資ファンドへ売却★★
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
  • 私の履歴書 経済人2(日本経済新聞社、1980年)
  • 私の履歴書 経済人5(日本経済新聞社、1980年)

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