日野自動車の源流は、1910年に創業した東京瓦斯電気工業[1]にさかのぼる。同社は1918年にわが国最初の国産自動車となる2トン積みトラックを製造し[2]、創成期の国産自動車工業の一翼を担った。しかし1936年に自動車製造事業法が制定されると、陸軍の軍用保護自動車法によって補助を受けていた東京瓦斯電気工業と自動車工業は、軍用自動車を製造し続ける限り新法の適用を受けられないという矛盾に直面した[3]。許可会社にならなければ自動車メーカーとして十分な保護は得られない。日産自動車との合併交渉が不調に終わった末、1937年に東京瓦斯電気工業の自動車部が自動車工業株式会社および協同国産自動車株式会社と合併して東京自動車工業株式会社が発足し[4]、大森工場と365名の社員が新会社へ移った[5]。
1938年、東京自動車工業(後のいすゞ自動車)[6]は陸軍向け特殊車両の専門工場として東京都日野市に日野製造所を新設した。この新設には初めから仕掛けがあった。商工省の補助政策を仰ぐには軍用車の製造という基準が壁になる一方、軍用車をやめれば陸軍の補助を失う。松方らは軍用自動車工場を一本化したうえでやがて分離独立させ、残る本体で商工省の補助を受けるという作戦を立てており、日野製造所は新設の時点から早晩本体から別離する運命を背負っていた[7]。この構想どおり1941年4月に東京自動車工業はヂーゼル自動車工業へ商号を変更し[8]、翌1942年5月、日野製造所は日野重工業株式会社として分離独立した[9]。
発足時の日野重工業は、ヂーゼル自動車工業が全株を所有する軍の秘密工場だった[10]。戦局が厳しくなるとヂーゼル自動車工業がこの株式を別の戦車メーカーへ売却しようとする動きが表面化し、有数の戦車工場が混乱することを恐れた陸軍省の意向で、持株の80%が政府機関である戦時金融金庫へ肩替わりされた[11]。終戦によって戦車工場としての存立基盤は失われ、1945年9月15日、全役員・従業員が工場の神社前広場に集められて正式解散と全員の解雇が通告された。総従業員は復員すべき軍人を含めて7000名を数えたが[12]、2日後に米軍が工場を占拠したのち残務整理に当たったのは、およそ60名にすぎなかった[13]。
再建を担った大久保正二は、事務・技術100名と作業員200名の計300名を人員とし、時期を1946年2月から3月、職員の年齢を40歳以下とする三つの原則を立てた[14]。1946年1月に平和産業への転換許可を受けると直ちに工場を再開し、トレーラートラックとトレーラーバスを発表して戦後の大型自動車に先鞭をつけた[15]。3月27日には社名を日野産業と改めている[16]。1948年11月にいったん資本金を400万円へ減資したうえで、12月1日に新資本金2500万円で日野ヂーゼル工業株式会社として立て直し[17][18]、翌1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場した[19]。幹事証券の山一証券が示した売出価格は75円で、大久保が主張した150円から200円という水準は通らなかった[20]。1954年5月には大阪・名古屋[21]、1958年4月には新潟にも上場している[22]。
商用車の量産を軌道に乗せた日野ヂーゼル工業は、バス用エンジンの配置で他社と異なる道を選んだ。エンジンを床下に置けば床面を最も有効に使えてわが国の国情にも適するという確信のもと、アンダーフロアエンジンという新分野の開発に取り組み[23]、1952年12月に公開したわが国最初の床下エンジンバス、ブルー・リボン号を翌1953年1月から発売して量産体制に移した[24]。一方で乗用車部門への挑戦は、大久保社長ら当時の経営陣にとって悲願でもあった。トラックとバスは大型、乗用車は小型という考えが早くから芽生え、1951年には日本にも必ず乗用車の時代が来る、日野はそれに乗り遅れてはならないと社長自ら明言していた[25]。
1952年4月、ルノー公団の極東支配人が来日し、小型乗用車ルノー4CVの日本での組立工場設置を日野に提案した[26]。資本金170億フランという巨大企業からの申し入れに対し、当時の日野の資本金は2億円にすぎなかった[27]。通産省は、年間1250台の需要を国内だけで保証できるのか、営業用としての需要見通しはどうか、国産化を速やかに進められるのかという3点を条件として突きつけ[28]、経営陣は大型トラック・バス専門メーカーから総合メーカーへ脱皮する道が平坦でないことを覚悟しながら重役会を重ねた[29]。1953年1月16日に最終合意へ達し、5年後の国産化を認めるという最大の論点も決着して2月26日に正式調印、ルノー4CV型の製造を開始して乗用車部門へ進出した[30][31]。
1959年4月に日野ヂーゼル販売が日野ルノー販売を合併して日野自動車販売へ商号変更し[32]、同年6月には本体も日野自動車工業へ商号を改めた[33]。ルノー車で蓄えた経験を土台に1961年には小型乗用車コンテッサを発表し[34]、1964年8月にはコンテッサ1300を世に出した[35]。当時の日野は大型ディーゼル車に特色を持ちながら小型車分野へ進出した中堅的存在と評され、羽村に小型車専門の新工場を建設中だった[36]。1963年度の設備投資40億円のうち15億円が羽村に振り向けられ[37]、同年8月には提携契約の期限切れでルノー4CVの生産が打ち切られている[38]。
日野とトヨタの提携論は1963年にさかのぼる。貿易自由化を控えて業界再編成の機運が強まるなか、通産省は日野が大型車中心でトヨタが小型車中心のため競合車種が少なく主力銀行も同じであるという理由で両社の合併を勧告した[39]。1965年8月に乗用車輸入の自由化が発表されると再編の動きはさらに加速する[40]。友好関係が提携へ進むまでには約3年を要した。コンテッサで世界的な評価を得ながらも小型車部門は同業他社に比べて弱体であり、資本自由化を迎えて今後の経営が容易でないことを痛感していたからである[41]。1966年10月、日野自動車工業と日野自動車販売はトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携契約を締結した[42]。
提携の大綱は1966年10月15日の共同声明で発表され、日野の小型車の生産・販売に対するトヨタの協力、新製品企画の協調、輸出市場拡大や技術向上への協力など6項目が要点とされた[43]。全車種の生産台数シェアはトヨタ26%に対し日野3%で、提携後の実質シェアは29%になると試算された[44]。会社側は経営協議会で組合に対し、合併はなく提携であり、生産量の20%に当たる小型車部門を助けてもらうが残る80%は十分にやっていけると説明している[45]。1967年には小型トラックのブリスカがトヨタ販売網へ移り、トヨタのパブリカバンの東日本向け生産を日野が担い、羽村工場の拡充工事が始まった[46]。同年12月に日野はコンテッサ1300の後継車開発を中止して乗用車から撤退し[47]、1968年の羽村工場はトヨタ向け乗用車のOEM拠点となった[48]。
形になって現れている効果はほんの一部にすぎず、本当の効果は思想革命そのものにあるという見立てである[49]。もっとも系列下に入ることへの抵抗は小さくなく、名門意識の強いミドル以上には感情的に釈然としない面も多かったとされる[50]。効果は数字にも表れた。1971年9月期の生産は提携前の2.2倍に達したが、この間に直接工は1割しか増えていない。トヨタの指示に従って進めた羽村工場の合理化と増設で生産体制が一新され、そこで学んだ手法を大型車の日野工場へ適用できたことが実績につながった[51]。
1972年、日野自動車販売は普通トラックで市場占有率35%の確保を目指すD号作戦を掲げた。Dはディーゼルの頭文字であり、市場の3分の1以上の制覇にちなんでドイツ語で3分の1を意味するドリッテルからも採られている[52]。日野自販の天野千代吉社長は、1974年度までに大型トラック32%、中型トラック38%、大小あわせた普通トラックで35%を獲得することが、日野が生き抜くために達成しなければならない最小限の目標だと述べた[53]。同年8月には普通トラックのシェアが32.4%に達し、1月から6月までの半期における普通ディーゼルトラックの生産2万3676台は、西ドイツのベンツに次ぐ世界第2位の規模だった[54]。
1973年5月、日野は中型トラックの登録台数でも首位を獲得した。大型トラックではすでに業界首位の座を固めていたため、占有率33.1%をもって名実ともにトラック業界の首位に躍り出たことになる[55]。D号作戦は1975年2月に占有率35.3%を記録して目標を上回り完遂されたが、社史はここに至るまで8年の歳月が流れたと記している[56]。この首位はその後38年にわたって守られることになる。1969年3月にはタイヒノ・モーターセールスへ資本参加し[57]、1975年4月には帝国自動車工業が金産自動車工業と合併して日野車体工業へ商号変更するなど[58]、販売と車体架装の体制も並行して整えられた。
1974年の年頭、松方正信社長は石油危機をわが国がいまだかつて経験したことのない事態と述べ、経済動向はまったく予断を許さないと訓示した。恒常的に続く人件費と資材費の高騰に加え、材料部品の入手難と異常な値上がりが重なる三重苦に企業経営が責められているという認識である[59]。同年、生産計画や生産管理といった工務畑を一本で歩んできた荒川政司が社長に就いた[60]。荒川は就任の第一声で、外部の厳しい環境にもかかわらず工場は減産することなく4万台の生産へ向けて走っていると述べ、技術陣も山積する開発課題と取り組んでいると社内を鼓舞した[61]。
国内需要が細るなかで荒川が打った手は輸出への傾斜だった。1975年の年頭には、半期1万台の輸出体制を定着させたうえで同年度に半期1万2000台へ挑み、輸出比率を1974年度下期の28%から1975年度上期には33%へ高めることで、名実ともに輸出企業として変貌を遂げると宣言した[62]。海外拠点の整備もこの時期に進み、1975年にはフィリピンでトラックの現地法人を設立している[63]。1976年に迎えたトヨタ提携10年目、社史は日野が小型車部門から見事に無血撤退を果たしたと総括し、提携の効果は経営の全分野に及んで、1971年の不況や石油危機後の長期不況に耐える強靱な体質を形づくったと記した[64]。
もっとも社内の受け止めは一様ではなかった。提携10年目の座談会では、トヨタのシステムは一応理解され職場にも反映されたが、その間にトヨタはさらに大きく進歩している以上、提携時の初心に帰って職場を直視すべきだという声が出た。重役から10年前と少しも変わらないと叱られたという発言もあり、10年を経てやや中だるみが生じているという自己認識が語られている[65]。1980年には群馬県に新田工場を新設して国内の生産拠点を拡充し[66]、1982年12月にはP.T.ヒノ・インドネシア・マニュファクチャリングを共同出資で設立して[67]、東南アジアでの現地生産に足場を築いた。
1987年12月に社長へ就いた二見富雄は、1960年代後半に企画部門で大型高速トレーラーHGとKGの開発推進に走り回った経験を持つ。高速大量輸送時代の幕開けを迎えて投入した車両だったが、発売するとトラブルが続出し、日野は回収修理に追われた[68]。高度成長期は失敗してもリカバリーの機会がある時代でもあった。
1980年代の日野は、国内のトラック需要拡大と輸出の両輪に支えられて事業規模を広げた。荒川が掲げた輸出企業への転換は定着し、東南アジアを中心とする現地法人が生産と販売の両面で機能し始めていた。国内では新田工場が稼働して日野工場と羽村工場に続く第三の生産拠点となり、大型から中型までの車種展開を支えた。バブル期に向けて国内のトラック総需要は膨らみ続け、1990年度には19万台を突破する。この異常な需要拡大が、次の10年に日野を襲う需要半減と固定費負担の重さを準備していた[69]。
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|---|---|---|---|---|
| 1938〜1968年東京瓦斯電気工業の系譜と商用車メーカーへの転換 | 日野重工業を設立(いすゞの完全子会社) | ★ | ||
| 販売部門を日野ヂーゼル販売として分離。国内総代理店契約を締結 | ★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 商号を日野自動車工業に変更 | ★ | |||
| 小型乗用車「コンテッサ」を発表 | ★ | |||
| トヨタ自動車工業と業務提携。トラック製造に注力 | ★ | |||
| 乗用車から撤退 | ★★ | |||
| 羽村工場に小型乗用車専門工場を新設 | ★ | |||
| 1969〜1990年トヨタ提携がもたらした思想革命とD号作戦 | 中型トラックでも登録台数首位となりトラック業界首位に | ★ | ||
| トラックの子会社を設立 | ★ | |||
| 新田工場を新設 | ★ | |||
| 子会社を設立 | ★ | |||
| 1991〜2019年バブル後の需要半減とトヨタによる子会社化 | トラックの子会社を設立 | ★ | ||
| 赤字転落・希望退職者を募集 | ★★ | |||
| トヨタ自動車が日野自動車を子会社化 | ★ | |||
| グローバル展開に注力 | ★ | |||
| 排ガス規制特需で売上高1兆円を突破 | ★ | |||
| 白井芳夫 | 本社工場の閉鎖発表(日野市) | ★★ | ||
| 白井芳夫 | 古河工場を着工 | ★ | ||
| 下義生 | トラックの新工場の起工 | ★ | ||
| 2020〜2026年エンジン認証不正の発覚と三菱ふそうとの経営統合 | 小木曽聡 | エンジン認証不正の発覚と過去最大の赤字転落 2022年3月、日野自動車がディーゼルエンジンの排出ガス・燃費の認証試験で長年データを偽っていたことを公表し、主力車種の出荷停止と巨額の認証関連損失によって2022年3月期に847億円の最終赤字へ転落した経営判断。不正の公表と対応そのものが判断の核にある。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小木曽聡 | 三菱ふそうとの経営統合を発表(延期) | ★★ | ||
| 小木曽聡 | アンカーソ工場の閉鎖発表 | ★ | ||
| 小木曽聡 | 三菱ふそうとの経営統合と持株会社ARCHIONへの移行・上場廃止 2025年6月、日野自動車が、親会社トヨタ自動車と独ダイムラートラックの主導のもとで、ダイムラー傘下の三菱ふそうトラック・バスと経営統合することで最終合意した経営判断。持株会社ARCHION(アーチオン)が日野と三菱ふそうを完全子会社として傘下に置き、日野は2026年3月30日に上場を廃止して、翌4月1日にARCHIONへ上場を引き継いだ。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(日野自動車)