{"title":"コニカの歴史概略","sections":[{"start_year":1873,"end_year":1936,"main_title":"小西屋六兵衛店から六桜社へ——輸入商が感光材料を自製するまで","subsections":[{"title":"輸入材料の商店が、自ら作る側へ回るまで","text":"1873年4月、杉浦六三郎氏が東京麹町に小西屋六兵衛店を開き、写真および石版印刷の材料を扱った。小西屋六兵衛は人名ではなく屋号であり、創業家は杉浦家にあたる。当時、商品の仕入れはすべて横浜の外国商館を経由しており、日本の商人が海外と直接取引することはまず考えられなかった。小西屋六兵衛店は外国商館を通さない仕入れを求め、1884年にイギリスのイルフォード社と直接契約を結び、以後は海外の著名各社とも直接取引している。ただし創業年をめぐっては記録が分かれる。『会社銀行八十年史』は「明治九年六月 杉浦六右衞門氏が東京日本橋に小西本店を開設」と記し、日本橋へ進出した1876年を創業の年としている。会社自身は1873年を創業年として扱い、1973年に創立100年の記念行事を営んだ。\n\n輸入品を売るだけの商いから抜け出したのは1882年である。東京本所に石版機械、神田に写真暗函、本郷に写真台紙とメッキ・革張・金工・木工の設備を備えた小工場をそれぞれ設け、木製暗函の製造から始めた。1903年には国産初の手提型写真機「チェリーカメラ」の製造に成功している。仕入れて売る商店が、自ら作る側へ回った。自製できたのはカメラの箱や台紙といった機械部分までで、写真の中身を決める感光材料——乾板・印画紙・フィルム——はなお輸入に頼っていた。同社が本当に写真材料メーカーになるには、さらに四半世紀を要している。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社銀行八十年史』（1955年）「小西六写真工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小林節太郎「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人16』1981）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」（西村龍介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"六桜社と、国産フィルムまでの二十七年","text":"1902年5月、東京淀橋角筈に工場六桜社を建設し、当時は実現不可能とされていた乾板と印画紙の製造研究に着手した。印画紙は成功し、1905年に白金タイプを発売して国産感光材料の先駆けとなる。一方の乾板は、原料の入手と価格の両面で輸入品に対抗できず、いったん製造を中止した。中止は無駄にならなかった。乾板の研究で蓄えた乳剤の技術は、後年のさくらフヰルムへ引き継がれている。1919年5月には六桜社を拡張して市内に分散していた小工場を集約し、化学部門を充実させた。1921年10月には合資会社小西六本店へ改組している。\n\n1925年に発売したベスト判カメラ「パーレット」は、国産カメラを一般に普及させる契機となった。カメラが売れても、フィルムは輸入品のままだった。1926年時点で映画用フィルムだけで年間約250万円、写真用品全体では年間800万円から1,000万円の外貨が国外へ流れていたと推定されている。乾板は東洋乾板が1921年にST乾板を出して軌道に乗り、印画紙も国産が受け入れられていたのに対し、ロールフィルムの開発だけが進まなかった。1929年10月、同社はわが国初の国産写真フィルム「さくらフヰルム」を発売する。輸入品の販売で利を得ていた商店が、その輸入を自社製品で置き換えた。\n\n5年後に設立される競合は、生い立ちからして違った。富士写真フイルムが大日本セルロイドの写真フィルム部を分離して発足したのは1934年1月、資本金300万円・従業員340人である。前年の1933年に政府が120万円の工業助成金の交付を決め、それを受けて国産化計画が動き出した。国産化を政策が後押しするなかで生まれた会社である。小西六はそれより5年早く、助成金も持たずにフィルムを世に出している。事業の基盤が固まったところで、1936年12月に東京日本橋室町へ資本金700万円の株式会社小西六本店を設立し、合資会社から株式会社へ組織を改めた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社銀行八十年史』（1955年）「小西六写真工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"小林節太郎「私の履歴書」（日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人16』1981）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」（西村龍介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1936,"end_year":1962,"main_title":"小西六写真工業——軍需で広げた技術と、戦後の総合写真材料メーカー","subsections":[{"title":"航空カメラと光学ガラス——軍需が広げた守備範囲","text":"1937年2月に株式会社小西六へ改称して合資会社を吸収合併し、同年7月には東京府下日野町に六桜社分工場を設けてフィルム部門を移した。輸入に頼っていたフィルムベースの自家製造にも踏み込み、1940年にはさくらカラーフイルムを発売している。この時期の事業拡大を支えたのは民需だけではない。1925年に陸海軍から各種航空カメラ・ガンカメラの試作を命じられ、1934年ごろから量産に入り、太平洋戦争が終わるまで唯一の供給会社として軍に納めた。写真材料をつくる会社が、精密光学機器の量産まで引き受けている。\n\n同じ時期、光学ガラスの内製にも手を付けている。光学機械のなかでも難題とされた分野だが、1935年ごろから研究に着手し、1942年1月に六桜社内へ設けた炉の火入れを行った。1945年にはSK4のような優秀品を完成させ、軍関係の高い評価を得ている。1943年4月に社名を小西六写真工業へ改め、翌1944年3月には昭和写真工業を合併して小山工場（乾板）と富永工場（印画紙、のちの小田原工場）を傘下に収めた。終戦時には資本金1,650万円、7工場、光学・化学の2研究所を持つ総合写真器材メーカーになっている。1873年に輸入材料を売っていた商店が、70年で自前の研究所と工場群を抱える製造業へ姿を変えた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社銀行八十年史』（1955年）「小西六写真工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」（西村龍介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"上場と、富士写真フイルムに開いた差","text":"戦後は飯能・山形の両工場を閉鎖し、残る事業所で平和産業へ復した。1949年4月に戦時中は中止していたカラーフィルムを再発売し、1949年5月には東京証券取引所へ上場している。1951年3月には資本金4,000万円の日本色彩映画を設立して発色現像を担わせ、1953年11月にコニカラーによる東映作品「日輪」、1955年5月には日活作品「緑はるかに」を世に出した。カメラでも1947年のコニカ、1950年の新型パール、1953年のコニフレックスとコニレットを相次いで発売し、1952年6月には米国フィラデルフィアに代理人を置いて、現地のドイツ製品との競争に備えている。\n\nただし、感光材料の主導権は握れていない。1954年度の総売上高は51億3,000万円で、内訳はフィルムが約51%、印画紙とカメラが各18%だった。同じ年、富士写真フイルムは87億円を売り上げ、フィルムが70.4%を占めている。全国生産高に対する富士のシェアは映画フィルム96%、レントゲンフィルム64%、一般フィルム61%、印画紙41%に達し、業界第一位を占めていた。国産フィルムを5年早く出した小西六は、フィルムの量産では後から来た会社に追い越されている。カメラと印画紙に厚みを持つ構成は、フィルム一本に絞れなかった結果でもある。1956年8月には米国にKonica Photo Corporationを設立し、海外販売の足場を築いた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社銀行八十年史』（1955年）「小西六写真工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」（西村龍介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1963,"end_year":1978,"main_title":"八王子と電子複写機——無配八期からの再建と、写真材料一本からの脱却","subsections":[{"title":"無配八期と、非同族社長による建て直し","text":"1963年7月に東京八王子へ新工場を建て、淀橋工場を移した。しかし1960年代後半には、新工場を建てながら配当を出せなくなっていた。1968年3月期に無配へ転落し、無配は8期にわたって続いている。1968年春に社長へ就いた西村龍介氏は技術担当の常務からの登用で、初代から3代目まで世襲が続いた同社にとって初めての非同族社長だった。西村氏はのちに「私は実は技術担当の常務だったが、それが思いがけない事情から社長に就任した。それから再建計画を立て、厳しい経営を実施し今日に及んでいる」と振り返っている。\n\n業績不振の原因のひとつは労使関係にあった。発祥の地が新宿で、代々木のすぐ近くに工場があったこともあり、戦後まもない時期から激しい労働争議が繰り返され、「小西六といえば年中赤旗が立てられている」と言われるほどだった。西村氏は就任時に組合三役と会い、一般従業員の首は切らないと宣言している。自身が工場長時代に人員整理を2度経験していたためである。そのうえで部課長には厳しく臨み、15%にあたる40名へ格下げまたは退社を求めた。45歳の役員が生まれたのはこのときが初めてだった。組合との対話を重ねた結果、ストライキは止まっている。\n\n再建の中身は品質管理の徹底だった。製品単体の検査にとどめず、統計を経営全体へ織り込むトータルQCを敷き、カメラの組み立て工程ではレンズ班・距離計班ごとにQCサークルを組んで、リーダーを組長、課長を横からの助言役に据えた。成果発表の場には西村氏自身が出席している。人事では、半年ほど空くポストを下位の従業員から公募するチャレンジ・ポスト制度を設け、就任1年目には約300人の従業員と面接した。復配は1972年3月期の6%から始まり、同年9月期に10%、1973年3月期には記念配2%を含む12%まで戻している。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」（西村龍介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"U-Bix——ゼロックスの特許を避けて作った複写機","text":"1971年1月、電子複写機U-Bixの製造販売を始めた。写真材料一本だった会社が、事務機という別の市場へ出た判断である。伸び方は急だった。U-Bixの売上は1971年下期19億円、1972年上期34億円、同下期53億円と半期ごとに増え、1973年9月期には65億円から70億円が見込まれた。発売から2年半で、全社売上高に占める比率は20%へ達している。西村氏は「電子複写機はわずか2年くらいのうちにこのように伸びてきたものである」と述べた。輸出比率も56%と高く、国内の事務機市場だけを相手にした製品ではなかった。\n\n1973年3月期の売上高は266億円（前期比8%増）、経常利益15億8,200万円（同16.2%増）、税引利益6億500万円（同14.6%増）だった。売上構成はフィルム40%、カメラおよび交換レンズ19%、電子複写機20%、印画紙11%、写真薬品その他10%である。祖業のフィルムがなお最大だが、参入3年目の複写機がカメラを上回った。会社は1972年4月に八王子工場を電子複写機の工場として整備し、カメラとレンズの生産を山梨コニカ・甲府コニカへ移している。工場の使い道そのものを、写真から事務機へ入れ替えた。\n\nU-Bixの開発は、他社の特許を避けて設計する作業から始まっている。乾式電子複写機は米ゼロックスが押さえた技術であり、同社は約900件の特許を持っていたが、小西六はその一件にも触れずに製品を設計している。半年を費やしたのは特許の調査ではなく、ゼロックスの利用者が何に不満を抱いているかの聞き取りだった。栗田善一郎常務は「まるまる半年、その調査に明け暮れたために、感光性の向上や解像力の強化に開発の焦点を絞ることができた」と語っている。生産は月産500台から1,000台、1,500台へと増強され、1976年までに7万台以上を出荷した。同年時点で売上の4分の1を占め、米国で2%、欧州で5%のシェアを得ていた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」（西村龍介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"感光材料の袋小路と、カメラに見つけた「抜け穴」","text":"事務機へ出たのは、写真材料に伸ばす先が見えなかったからである。西村氏は感光材料事業について「歴史的に見ても後発会社はどこも成功していない」と述べ、米スリーエムのフェラニア買収、デュポンのシュロイスナー買収、英ICIのイルフォード買収がいずれもうまくいっていないことを挙げた。原因として、コダックが大き過ぎること、そして秘密性が高く技術者を数人引き抜いても事業が興せないことの2点を挙げている。参入障壁の高さは、後発を寄せつけない一方で、自社が伸ばせる範囲も狭めていた。1973年正月には小西六とコダックの提携が新聞に報じられ、否定に追われる一幕もあった。\n\nカメラでも同じ構えを取っている。1973年11月に社長へ就いた冨岡弘氏は、正面からの競争を避ける考えを「巨大企業には抜け穴がある。そのスキを突くんですよ」と表現した。当時のカメラ市場では、残るのは一眼レフの高級機とカセット型フィルムの普及機で、中級機は消えるという見方が支配的だった。小西六はその中級機を主戦場としており、1975年に世界初のストロボ内蔵カメラ「ピッカリコニカ」、1977年に世界初の自動焦点カメラ「ジャスピンコニカ」を出している。ピッカリコニカは月産5万台を超えた。富士写真フイルムもストロボ内蔵を研究したが中断していた。\n\nそれでも規模の差は埋まらなかった。1975年度の売上高は小西六870億円に対し、富士写真フイルム1,921億円、キヤノン750億円である。税引利益では小西六25億円、富士61億円、キヤノン8億円と、利益率ではキヤノンを上回った。輸出比率は39%で富士の20%の約2倍に達し、円高の影響を受けやすい構造でもあった。自己資本比率は18%前後にとどまり、1974年と1975年に転換社債を発行して資金を手当てしている。冨岡氏は再建の要点を「もっとも安易な手段は、人員整理をして縮小均衡をとることでしょうが、それをやらないままで、合理化や省力化を徹底し、それをテコに再建する道を選んだ」と述べた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」（西村龍介）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1979,"end_year":2003,"main_title":"買収で広げた事務機、「コニカ」への改称、そして統合","subsections":[{"title":"代理店任せをやめる——ユービックスから北米まで","text":"事務機を伸ばすには、作る力だけでなく自前の販売網が要った。1979年8月に兼松ユービックス販売の全株を取得し、同年11月に小西六ユービックスへ商号を変更して国内販売網の中核とした。米国では1979年2月にカメラ販売を代理店から合弁会社コニカ・コーポレーションへ切り替えている。判断した上飯坂勘氏は「こうした情勢の中で代理店にまかせておけば後れをとる」と述べた。翌1980年にはカラー印画紙の現地生産にも踏み切り、コネチカット州メリデン市に50エーカーの用地を求めて、現像チェーン大手フォトマット社と資本金2,500万ドルの合弁会社を設ける計画を立てた。出資比率は小西六51%、投下資金は7,000万ドル前後である。\n\n現地生産に踏み切った理由は、市場の構造と貿易摩擦の両方にあった。米国のカラー印画紙はコダックが65%、3Mが10%を占め、残る25%が日本と西ドイツからの輸入である。輸出のまま量を増やせば摩擦を招く。上飯坂氏は「今のままで、輸出量を増やしていけば、貿易摩擦を起こしかねない。量がある程度まできたら現地生産する必要がある」と語った。1983年に井手恵生氏が社長へ就くと、買収の頻度が上がる。1984年から1988年までの4年間に国内外で大小7社を買い取り、最大の案件が米の事務機販売会社ロイヤル・ビジネス・マシンだった。1984年に34%の資本参加を行い、1986年1月に親会社の西ドイツ・フォルクスワーゲンから残る66%を買収して完全子会社としている。\n\nロイヤル社はオーナーが頻繁に替わって施策も変わり、優秀な人材が流出する状態にあった。ロイヤル社の社長として派遣された上飯坂勘取締役は、経営側と従業員の壁を取り払う作業から着手する。社長専用だった食堂を会議室として社員に開放し、月1回のエンプロイズ・ミーティングで前月の成績と当月の目標を共有した。営業面では、支店とディーラーが官庁入札で競合していた全米の販売網を整理し、支店の機能をあえて縮小してディーラーの営業余地を広げている。リコーやキヤノンについていたディーラーが戻り、複写機の販売台数は前期比3割増となった。買収がすべて当たったわけではない。1986年に株式公開買付けで全株を取得した写真現像チェーンのフォトマット社について、米山高範氏は「残念ながらまだ効果は出ていない。今後の課題」と述べている。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1980年9月8日号「コニシロク・フォト・インダストリーズ（米）。印画紙の現地生産でコダックに挑戦」（No.274）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1988年6月13日号増刊「コニカ 販売網拡充が主眼」（No.498）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1990年1月1日号「コニカ 小型軽量への“思い込み”が生んだ大ヒット」（No.545）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス2000年4月17日号「コニカの複写機事業 高速デジタル機で善戦、早い特化が奏功」（No.1037）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス2001年11月12日号「有訓無訓 植松富司［コニカ会長］大切なのは『見えない力』」（No.1116）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済2001年9月22日号「トップの履歴書 コニカ社長 岩居文雄」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済1997年1月4日号「富士写真フイルムvsカシオ計算機 デジタル化で写真市場が大変貌」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済2003年1月18日号「精密機器業界 コニカ、ミノルタ統合に課題残る「聖域」温存」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"「コニカ」への改称と、写真から事務機への傾き","text":"1987年10月、小西六写真工業は社名をコニカ株式会社へ改めた。コニカは輸出向けの製品ブランドとして定着していた呼称であり、それを社名に据えて「写真工業」を外している。井手氏が買収を重ねた動機も、社名を変えた動機と重なる。感光材料では富士写真フイルムに次ぐ大手でありながら市場の成長は鈍り、販売網の整備も遅れていて、「このままでは21世紀をにらんだ展望が開けない」という危機感である。同じ年、独にKonica Business Machines Manufacturing GmbH、米国に印画紙工場Konica Manufacturing U.S.A.とPowers Chemcoを相次いで設立した。\n\nカメラでは1989年2月発売の「ビッグミニ」が当たった。国内のコンパクトカメラ出荷台数400万台の1割を1機種で占め、当初計画の8倍にあたる月産8万台体制を敷いている。市場の65%が多焦点へ向かうなかで単焦点を選び、幅117ミリ・重さ195グラムという世界最小最軽量に絞り込んだ結果だった。開発チームの石井静雄氏は「コンパクトさを追求すれば売れるという思い込みから開発がスタートした」と語っており、市場調査の裏づけはなかった。ジャスピンコニカ以来12年ぶりのヒットで、万年赤字だったカメラ部門はこの年に黒字化する見込みとなった。裏を返せば、カメラは12年間ほとんど稼いでいなかった。\n\n1991年、岩居文雄氏が情報機器部門へ戻った。1963年入社で事務機部門の研究開発を歩んだ人であり、フィルムとカメラが中心の会社では傍流にあたる。翌1992年に情報機器事業本部長となった岩居氏は、当時主流だったアナログ機の開発を打ち切り、研究開発費のほとんどを白黒の高速デジタル機へ振り向けると決めた。反対は世界中の拠点から集まっている。なぜ今売れているものの開発をやめるのか、先端機で勝負しても勝ち目はない、という理屈だった。森口博行氏は「ほとんどの技術者は、岩居さんの考えに否定的だった」と述べている。裏づけは、数人の技術者へ特命で先行させていた要素技術にあった。とくに感光体ドラムは、樹脂製で5万枚が限界、耐久性の高いアモルファスシリコンは高コストという条件下で、連続50万枚に耐える樹脂製を実現している。森口氏は「これには本当に苦労したが、フィルムで培った素材技術が生きた」と語った。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1980年9月8日号「コニシロク・フォト・インダストリーズ（米）。印画紙の現地生産でコダックに挑戦」（No.274）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1988年6月13日号増刊「コニカ 販売網拡充が主眼」（No.498）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1990年1月1日号「コニカ 小型軽量への“思い込み”が生んだ大ヒット」（No.545）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス2000年4月17日号「コニカの複写機事業 高速デジタル機で善戦、早い特化が奏功」（No.1037）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス2001年11月12日号「有訓無訓 植松富司［コニカ会長］大切なのは『見えない力』」（No.1116）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済2001年9月22日号「トップの履歴書 コニカ社長 岩居文雄」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済1997年1月4日号「富士写真フイルムvsカシオ計算機 デジタル化で写真市場が大変貌」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済2003年1月18日号「精密機器業界 コニカ、ミノルタ統合に課題残る「聖域」温存」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"銀塩に賭けた読みと、統合という幕引き","text":"売り方も変えた。海外販売を委託していた商社との契約を打ち切り、1995年から販売部門を本社直轄に移している。岩居氏は商社へ出向き、商権を譲ってほしいと土下座して頼み込んだ。1995年9月に毎分50枚の「Sitios7050」を発売すると、ボーイングなど米大手から注文が集まり、2〜3年遅れて欧州でもダイムラー・ベンツや仏議会が採用した。1998年の複写機世界シェアは台数ベースで3.7%にすぎないが、毎分45〜69枚の高速デジタル機では23.9%を占め、日本市場では40.3%に達している。同年度の情報機器分野（光学機器・カメラを含む）の連結売上高は2,494億円で全社の42%を占め、純利益では約40億円を稼ぐ柱となった。写真材料の会社が1971年に始めた事務機は、27年をかけて全社の主力になった。\n\n一方の写真では、撤退を勧める助言を退けている。植松富司氏が入社して間もないころ、外資系コンサルタントがカラーフィルムからの即時撤退を提言した。西村龍介氏は常務会で「ノーだ。私が国内初のカラーフィルム『さくら天然色フィルム』を開発した。どうしたら頑張れるか、みんなで考えてくれ」と応じている。その後、海外の現像所でもコニカ製品の現像が可能になって市場が広がり、アジアで約3割の首位シェアを得た。デジタルカメラについても、会社は同じ読みを崩さなかった。2001年11月、植松氏は「デジカメはある一定のポジションを確保できるけれど、銀塩カメラとは棲み分けになると思います」と述べ、アジア・ロシア・アフリカの40億人が年に1〜2本しかフィルムを使っていない点を成長余地として挙げた。誤算は、置き換えの速さだった。国内のDPE市場は1993年の5,902億円を頂点に縮んでいる。\n\n2001年4月に社長へ就いた岩居文雄氏が向き合ったのは、二つの事業を抱えた資源不足だった。フィルム関連事業は売上2,000億円近くに対し、営業利益が50億円にとどまる。研究開発費はコニカ・ミノルタとも300億円程度で、リコーの800億円、キヤノンの2,000億円超と桁が違う。2000年からミノルタと事務機器で業務提携の関係にあり、それを前提に2003年1月に統合が発表された。同年4月に純粋持株会社制へ移り、6月に委員会等設置会社となった。8月、コニカはミノルタと株式交換を行い、自らの商号をコニカミノルタホールディングスへ改めた。法人としてはコニカが存続会社であり、証券コード4902も引き継がれている。消えたのは会社ではなく、社名と銘柄である。1873年に麹町の商店として始まり、フィルムで一度、複写機でもう一度、自らを作り替えた130年の歩みは、コニカミノルタへ引き継がれた。","references":[{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1980年9月8日号「コニシロク・フォト・インダストリーズ（米）。印画紙の現地生産でコダックに挑戦」（No.274）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1988年6月13日号増刊「コニカ 販売網拡充が主眼」（No.498）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス1990年1月1日号「コニカ 小型軽量への“思い込み”が生んだ大ヒット」（No.545）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス2000年4月17日号「コニカの複写機事業 高速デジタル機で善戦、早い特化が奏功」（No.1037）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス2001年11月12日号「有訓無訓 植松富司［コニカ会長］大切なのは『見えない力』」（No.1116）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済2001年9月22日号「トップの履歴書 コニカ社長 岩居文雄」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済1997年1月4日号「富士写真フイルムvsカシオ計算機 デジタル化で写真市場が大変貌」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済2003年1月18日号「精密機器業界 コニカ、ミノルタ統合に課題残る「聖域」温存」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1902年に、輸入写真材料を売っていた商店が自ら感光材料をつくり始めたのか","a":"輸入品を扱うかぎり、売れるほど外貨が国外へ出ていく構造から抜けられなかったためである。1873年4月に東京麹町で開いた小西屋六兵衛店は、写真と石版印刷の材料を横浜の外国商館経由で仕入れて売る商いだった。1902年5月に東京淀橋角筈へ工場六桜社を建て、当時は実現不可能とされていた乾板と印画紙の製造研究に着手する。印画紙は成功し、乾板は価格で輸入品に対抗できず中止したが、そこで蓄えた乳剤の技術が1929年10月の国産初の写真用フィルム「さくらフヰルム」につながった。富士写真フイルムの設立はその5年後にあたる。"},{"q":"なぜ1971年に、写真材料一本だった会社が電子複写機へ参入したのか","a":"祖業の感光材料に伸ばせる余地が乏しいという判断が先にあった。1968年3月期に無配へ転落し、無配は8期続いている。同年春に社長へ就いた西村龍介氏は、感光材料について「歴史的に見ても後発会社はどこも成功していない」と述べ、米スリーエム・デュポン・英ICIの買収がいずれも実らない例を挙げた。高い参入障壁は、小西六を後発から守ると同時に、その伸び先も限っていた。1971年1月に出した電子複写機U-Bixの売上は1971年下期19億円から1972年下期53億円へ伸び、発売から2年半で全社売上の20%を占めた。"},{"q":"なぜ2003年に、130年続いた社名を手放してミノルタとの統合を選んだのか","a":"事務機と写真を同時に抱えるには規模が足りなかったためである。2003年時点でフィルム関連事業は売上2,000億円近くに対し営業利益が50億円にとどまり、研究開発費もコニカ・ミノルタとも300億円程度で、リコーの800億円、キヤノンの2,000億円超とは開きがあった。銀塩市場は残ると読んでいたが、国内のDPE市場は1993年の5,902億円を頂点に縮んでいる。2003年8月、コニカはミノルタと株式交換で統合し、商号をコニカミノルタホールディングスへ改めた。法人としてはコニカが存続会社で、消えたのは社名と銘柄である。"}]}}