大東建託「建託」への社名変更と土地建託システムの確立
建てて終わる請負か、建てたあとの賃貸経営まで引き受けるか——空室リスクの持ち手をめぐる選択
- 概要
- 1988年4月、大東建設は商号を大東建託へ改めた。地主から賃貸住宅の建設を請け負うだけでなく、完成後の入居者募集・管理・空室保証までをひとまとめに引き受ける「土地建託」システムを、社名に掲げた経営判断。
- 背景
- 主戦場は都市近郊に農地を持つ地主であった。相続税と土地活用を糸口にした飛び込み営業で受注を積んだが、完成後に部屋が埋まるかどうかの不安は地主が抱えるほかなく、建設を決めさせる最後の壁として残っていた。
- 内容
- 1980年に設けた大東共済会を軸に、地主は基準家賃の4%を共済会費として払い込み、中途で空室が生じれば基準家賃の90%が給付される仕組みを整えた。建築請負・管理受託・空室保証を同じ営業の場で一括して契約する形へ移った。
- 含意
- 一回限りの請負収入を、管理費と共済会費という継続収入に組み替えた。同時に空室の損失を会社側が引き受ける関係も抱え込み、のちの一括借上げ(サブリース)をめぐる論争の原型となった。
不安を肩代わりして市場を開くということ
この判断の中心にあるのは、建物を売る会社から、建てたあとの空室を引き受ける会社へ、収益と危険の置き場所を移した点である。地主の側から見れば、決断を阻んでいた不確実性が会社へ渡り、手取りは入居の有無にかかわらずほぼ一定になる。会社の側から見れば、一回限りの請負収入に、管理費と共済会費という細く長い収入が重なる。1988年の社名変更は、この交換を対外的に宣言する手続きであったとみることができる。分散した工務店の市場を全国規模で寡占するのに、価格でも工法でもなく契約の設計で勝負した点に、この会社の性格がうかがえる。
ただし、引き受けた危険が消えたわけではない。空室率が数ポイント動くだけで保証の収支は反転し、1994年には保証率と会費率に手を入れて受注そのものにブレーキをかける事態となった。同じ緊張は、30年一括借り上げの家賃減額交渉として四半世紀後に再び表面化している。地主の不安を肩代わりすることで市場を開いたモデルが、その肩代わりの条件をどこまで説明し、どの時点で見直すのか——大東建託が今日まで説明を求められているのは、1988年に自ら選んだ交換条件の中身であるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
都市近郊の地主を一軒ずつ訪ねる営業
大東建託の前身である大東産業は、1974年6月に多田勝美氏が名古屋市千種区で設立した資本金100万円の会社であった。1978年9月に商号を大東建設へ改め、賃貸住宅の建設請負を主力に東海三県で受注を積んだ。当時の賃貸住宅建設は、地域の中小工務店が分散して受注する市場で、全国を一律に営業する担い手はいなかった。そのなかで大東建設が選んだのは、農協や銀行の紹介に乗るルート営業を排し、地主の家を直接訪ねる飛び込み営業であった[1][2]。
飛び込みを選んだ理由は利益率にあった。中島敏行常務は、農協や銀行の情報網に乗ってくる地主は複数の業者を競わせて価格交渉をするうえ、農協を通せばフィーも払わねばならないと語っている。効率は悪くとも、土地活用にさほど熱心でない地主を一軒ずつ説得できれば、プランの提示も値段も自社のペースで運べる。多田春彦常務はこれを「定価販売が可能になる」と説明した。約1,500人の建築営業員に受注高の2%を歩合として払う仕組みが、この人海戦術を支えていた[3][4]。
空室という最後の壁と大東共済会
地主に賃貸住宅を建てさせるうえで最後まで残る不安は、完成後に部屋が埋まるかどうかであった。大東建設は1980年3月に大東共済会を設立し、家主が相互に空室のリスクを持ち合う仕組みを用意した。加入した地主は基準家賃の4%を共済会費として毎月払い込み、中途で空室が生じた場合には入居が決まるまで基準家賃の90%が共済会から給付される。掛金を集めて損失を分け合う設計であり、保険会社と個別に契約するか自力で備えるほかなかった地主にとって、建設の判断を後押しする材料となった[5][6]。
共済会は保険というより営業の道具であった。1993年3月末の加入物件は7万280件、うち空室は1,866件にとどまり、期中の空室保証額は集まった会費総額の48.7%で収まっていた。加入率も1990年3月期から1993年3月期にかけて92%前後で推移し、標準的な物件の借り手はほぼ全員が加入していた。空室の発生を低く抑えられる限り、共済会は地主に安心を与えながら会社には持ち出しを生まない。この均衡の上に、建てさせる営業が立っていた[7][8]。
決断
1988年、社名に掲げた事業モデル
1988年4月、商号を大東建設から大東建託へ改めた。建設だけを名に持つ会社から、建てたあとの賃貸経営を受託する会社へ、対外的な看板を移す社名変更であった。この前後に固まった仕組みを、日経ビジネスは「土地建託」システムと呼んで図解している。地主は大東建託と建築請負契約を結び、完成後は建物賃貸借契約と賃貸建物管理委託契約を重ね、共済会には竣工と同時に加入する。建物を建てる契約と、建てたあとを預ける契約が、同じ営業の場で一括して結ばれた[9][10]。
地主から見た受け取り方は明快であった。入居者が全部屋に埋まっている状態でも、地主は共済会へ家賃の4%、大東建託へ管理費として家賃の5%を払うため、手取りは91%になる。逆に入居者が出て家賃が入らなくなっても、共済会から90%が保証される。埋まっていてもいなくても収入はほとんど変わらない、という設計であった。竣工後3カ月を過ぎても入居者が決まらない場合は、共済会ではなく大東建託本体が販売経費として同じく90%を保証した[11][12]。
大手ハウスメーカーが来ない場所を選ぶ
この事業モデルと対になっていたのが、営業地域の選び方であった。野村総合研究所企業調査部の許斐潤副主任研究員は、積水ハウスが強い駅周辺や大和ハウス工業が強いロードサイドを避け、大東建託は郊外の農地を対象にしてきたと説明している。首都圏でいえば守備範囲は都心に最も近くても千葉県柏市や横浜市緑区で、営業の中心はさらに外側であった。売上高に占める3大都市圏の割合は約50%にとどまり、残りは中核都市から車で1時間ほど、人口30万〜40万人の地方都市の周辺で稼いでいた[13][14]。
主力の建物も入れ替えた。6、7年前まで柱は倉庫や工場の建設で、アパート・マンションはほとんどなかった。多田勝美社長は、倉庫や工場は規制に縛られ、建てられる土地が市街化区域内のせいぜい2割に限られると述べ、これでは成長できないと判断してアパート・マンションへ移した。地方ではアパート需要が少ないという先入観が業界に根強かったが、多田社長は、地方であっても大都市圏より借家比率が低いことはないと語っている。飛び込み営業と定価販売、そして徹底したコスト削減により、粗利益率は約30%に達した[15][16]。
結果
資本市場が評価した仕組み
社名変更の翌1989年3月、名古屋証券取引所市場第二部に上場した。1990年4月には本社機構を東京都品川区北品川へ移し、1991年9月に名証一部へ指定替え、1992年2月には東京証券取引所市場第一部へ上場した。1988年3月期に447億円であった単体売上高は、1989年3月期に737億円、1990年3月期には1,052億円へ伸び、期末従業員も1,156名から2,220名へ増えている。1991年の生産緑地法改正に伴う貸家建設の増加も追い風となり、1993年3月期には11期連続の増収増益となって過去最高益を更新した[17][18][19]。
好調の理由を、多田社長は仕組みそのものに求めた。1992年の講演では、企画・立案から設計・施工、入居者やテナントのあっせん、運営管理までを一貫して支援する独自の「建託システム」が、都市近郊の農家など土地所有者と賃貸スペース利用者の双方のニーズを結ぶ役割を果たしていると述べている。客付けを外部に委ねず社内で担うという創業以来の理念も繰り返し語られ、全社員の1割強にあたる約500人がテナント営業部門に属していた。当時の空室率は1.9%にとどまっていた[20][21]。
保証が重みに変わるとき
均衡は長くは保たれなかった。共済会加入物件の空室率は1993年の実績で2%であったが、1994年3月末には5.2%へ上がった。会社は1994年8月に共済会の給付条件を基準家賃の90%から80%へ引き下げ、1995年1月には会費率を4%から6%へ引き上げた。営業社員の採用も止め、1,600人ほどいた営業社員は1,100人ほどまで減った。いずれも受注の訴求力を犠牲にしてでも保証の収支を守るための措置で、藤田浩一常務取締役はこれらを「ブレーキ」と呼んでいる。保証率は空室状況の改善を待って1995年10月に90%へ戻された[22][23]。
空室を会社側が引き受けるという関係は、その後も形を変えて残った。大東建託は2006年に30年間の一括借り上げ制度を導入し、家賃保証の期間は10年とした。週刊東洋経済は2018年、契約から10年を過ぎた物件で家賃減額の交渉が始まり、応じない地主に借り上げ賃料の支払いを止める趣旨の通知が届いた事例を伝えている。当時の管理戸数は全国で103万戸に達していた。サブリース業者を規制する新法が定まると、小林克満社長は2020年11月の決算説明会で、販促物をすべて点検し、誤認される可能性のある部分を修正していると述べた[24][25]。
- 日経ビジネス 1994年3月21日号「大東建託 土地活用事業は曲がり角 不動産仲介など多角化」
- 証券アナリストジャーナル(1992年12月・30巻12号)「大東建託」多田勝美社長講演
- 証券アナリストジャーナル(1993年6月・31巻6号)「大東建託」多田勝美社長講演
- 証券アナリストジャーナル(1994年6月・32巻6号)「大東建託」多田勝美社長講演
- 証券アナリストジャーナル(1995年12月・33巻12号)「大東建託」藤田浩一常務取締役講演
- 週刊東洋経済 2018年4月21日号「家賃保証期間後に破裂リスク 地主を襲う『サブリース爆弾』」
- 週刊東洋経済 2021年1月16日号「業界健全化の裏で迫る賃料減額の足音 サブリース襲う『2025年問題』」
- 大東建託 有価証券報告書【沿革】
- 証券 1992年4月号(第44巻第4号)掲載の大東建託業績推移