アマダ加工機単体の販売からの離脱と、加工ソフトを組み込んだシステム販売への転換
ハードでは差がつかなくなった板金加工機で、アマダは何を商品として売り直したか
- 概要
- 1980年代後半から1990年代にかけて、アマダが板金加工機の単体販売から、加工ソフトと周辺装置を束ねたシステム販売へ商品の単位を組み替えた経営判断。天田満明社長が1990年に「ここで我々は加工ソフトを製造している」と語り、路線を対外的に言い切った。
- 背景
- 1985年に工作機械の生産額は初めて1兆円を超えたが、NC機の量産で伸びた各社の商品構成は似通い、同質化が進んだ。円高後には輸出依存の同業が国内販売に力を入れ、アマダは1987年3月期・1988年3月期と2期連続の減収・営業減益に落ちた。
- 内容
- 展示会場を集客の場から加工ノウハウの収集の場へ読み替え、販売済みの6万件のソフトを大型コンピューターに蓄えて商談で即座に呼び出す体制を組んだ。SEを増員し、ソフト開発子会社を強化し、研修設備を外部へ開放して顧客と下請けの人材教育まで抱え込んだ。
- 含意
- 1990年時点でソフト販売は売上の2割に達した。1999年には証券アナリストが機械業界の「勝ち組」筆頭にアマダのソフト戦略を挙げ、2003年の「第2創業」で「エンジニアリングのアマダ」として路線が引き継がれた。
20年かけて集めたものに、値段をつけた
「ここで我々は加工ソフトを製造している」という一言で、展示会場は集客の装置から加工ノウハウの収集所へ読み替えられた。6万件のソフトが大型コンピューターに入り、顧客の要求の6割が既存ソフトの手直しで済むという歩留まりは、20年以上にわたって顧客を自社へ呼び寄せてきた直販がなければ出ない数字であった。1990年の転換は新しい商売を思いついたというより、1965年の判断が生んだ副産物に値段をつけた作業であったとみることができる。
ただ、この時点でソフトは売上の2割にとどまり、本体は依然として板金加工機の単品販売であった。同じころの同時代誌は、展示会場への来場社数が半分近くに落ちたことと、顧客の9割が中小企業という構成を並べて、システム化の市場では力のある顧客を狙う競合と当たると見ていた。ソフトを収益の柱と呼べるようになるには、2003年の「第2創業」からさらに歳月が必要であった。機械そのもので差がつかなくなったときに何を売るのか、その答えを20年前から手元に貯めていた点に、この転換の実質があったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
円高の後に来た減収減益と、機械の同質化
1986年から1987年にかけての急な円高が、板金加工機の商売を狂わせた。アマダ自身の輸出比率は15%にとどまり、1981年に米国現地法人を設けて海外生産へ移していたため、為替の直接の打撃は限られていた。効いたのは競争の側であった。輸出に4割以上を頼っていた大隈鉄工所や森精機製作所などの同業が、国内販売へ力を入れてくる。順調に伸びてきた業績は1987年3月期と1988年3月期の2期続けて減収・営業減益に落ちた[1]。
業界の側にも成熟の兆しが出ていた。工作機械の生産額は1985年に初めて1兆円を超え、そのうちNC機の比率は67.0%に達する。プラザ合意後の円高不況で1987年の生産額は6,887億円へ3割強も落ち込み、その後の設備投資ブームで1990年に1兆3,034億円のピークを打つ。この振幅の裏で、NC化によって各社の商品構成が互いに似てきて、同質化した点が業界の弱みとして残った。機械そのものでは差がつかないという条件が、板金加工機にも及んでいた[2]。
顧客の側の変化――人手不足と「3K」
買い手の事情も変わっていた。内需拡大が引き起こした人手不足が、省力化のための自動工作機械の需要を膨らませる。アマダの顧客の8割は従業員300人以下の中小企業で、きつい・汚い・危険という「3K」の職場を敬遠する従業員の流出に悩む事業主にとって、人手がかからず操作の簡単な機械が必要になっていた。熟練者を抱えていなくても回る機械という条件が、商品に求められる中身を変えた[3]。
一方で、売り方の強みは細っていた。1977年に開いた展示会場への来場社数は、1980年から1981年のピークに年間4万社を数えたのが、1987年以降は2万社台にとどまる。売上高の4割を占める板金加工機の市場には日清紡が新工場で参入し、村田機械は子会社を吸収合併し、大型プレス中心であったコマツも本格参入した。各社が狙ったのは機械単品ではなく、それらをシステム化した商品であった[4]。
決断
「ここで我々は加工ソフトを製造している」
1990年5月、天田満明社長は自社の展示会場の性格を言い換えた。「もはや展示会商法という言葉は当たりません。ここで我々は加工ソフトを製造しているんです」。機械メーカーはハードはつくれるが、それを使った加工のノウハウは概して持っていない。そのノウハウを顧客から直接聞いて蓄え、手を入れて別の顧客へ渡せることが自社の強みだ、という説明であった。売る商品の単位を、機械から加工の段取りごと束ねたものへ移す宣言でもあった[5]。
言葉に見合う仕掛けが商談の現場に据えられていた。それまでに販売した6万件に及ぶソフトは大型コンピューターに蓄えられ、展示会場から即座に呼び出せる。顧客の要求の6割は、既存の顧客から集めたソフトに多少の変更を加えるだけで足りた。図面を持参すればコンサルティングルームでSEが適する機械を選び、設計したソフトでその場で試作し、できあがった製品のコストまで計算して見せる。すでに売上高の2割は、機械を動かすためのソフトの販売であった[6]。
直販で貯まったものを商品に変える
この組み替えは、1960年代に整えた直販の副産物に値段をつける作業であった。代理店を通さず顧客を自社へ呼ぶ方式の利点は、要望をそのまま汲み上げられる点にあり、それが加工ソフトの蓄積を生んでいた。天田満明社長は展示会場を活かしたソフト開発と蓄積の強化に動き、コンサルティングとソフト開発を担うSEを増やす一方、2社あったソフト開発子会社の強化に努めた。技術者だった実兄と創業し、自らは営業畑を歩いてきた経歴が、この読み替えに効いたとみられる[7][8]。
顧客の人材まで抱え込む動きが、これに重なった。1990年4月着工の研修センター「朝霧スクエア」は総費用20億円をかけた国内最大級のログハウスで、1991年4月に開くとグループ社員だけでなくユーザーと下請け企業にも実費負担で開放した。本社敷地では建設費60億円超の新研修センターが工事に入り、外部開放型の研修設備への投資はおよそ80億円に達する。天田満明社長は、下請けと共存共栄することも製造業全体を活性化させる上でのメーカーの義務だと述べた[9][10]。
結果
「勝ち組筆頭」の評価と、次の代への引き継ぎ
路線は社外からも評価された。1999年、野村證券金融研究所の斎藤克史氏は機械業界の「勝ち組」筆頭に、ソフト戦略で経営を再構築し始めたアマダを挙げている。日本製機械の品質への信頼に安住した横並び経営が目立つ業界のなかで、ハードの差別化が難しくなればソフトの収益化が向かうべき方向であり、アマダは最もそれに近い位置にいるという見方であった。同じ時期、分社型から統合経営への再編が進み、製造2社の合併とソフト・サービス会社の取り込みが決まった[11]。
引き継ぎは人の交代をまたいで続いた。2000年4月、ソフト・サービスを担っていたアマダメトレックスが本体に吸収合併される。2003年に第4代社長となった岡本満夫氏は「第2創業」を掲げ、大量生産から変種変量への変化に合わせて加工機単体の販売からソリューション提供へ移す方針を示し、レーザー加工機・パンチング機・ベンディング機・溶接機を組み合わせて工場全体の生産性を設計する路線を「エンジニアリングのアマダ」と呼んだ。2007年3月には富士宮事業所に開発センターとレーザー専用工場が竣工する[12][13]。
- 日経ビジネス 1990年5月21日号「法人所得233位(←424位)アマダ。「ソフト売ります」弟社長」
- 日経ビジネス 1991年9月23日号「アマダ 研修所開放し教育支援 販売先・下請けと共栄を」
- 週刊東洋経済 1999年10月30日号「[特集]現代「経営革新」講座 業界別ランキング 人気アナリストが選ぶ経営革新「勝ち組」「負け組」」
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 機械・輸送機「産業機械-波乱の時代」
- ニュースイッチ(日刊工業新聞, 2019年)「「板金機械の王者」に育て上げたカリスマ経営者退任」
- アマダ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】