携帯電話の売り切り制移行を機とした販売代理店事業への本格参入とコミッション収益モデルの確立
携帯電話が爆発的に普及するなかで、光通信はなぜ端末を売る利ざやより契約を積む手数料に賭けたのか
更新:
- 概要
- 1990年代前半、携帯電話がレンタルから売り切り制へ移るのを機に、光通信は事務機の訪問販売で培った営業力を携帯販売代理店事業へ振り向けた。端末の利ざやではなく、契約者の通話料に連動するストックコミッションを積み上げる収益モデルを軸に急拡大し、創業10年で売上1000億円を超えた経営判断。
- 背景
- 携帯電話がレンタルから売り切り制へ転換し、加入者を集める販売代理店に大きな事業機会が生まれた。光通信は事務機やビジネス電話の訪問販売で鍛えた営業組織を持ち、通信事業者の手足となって加入契約を積む立場を得た。
- 内容
- 加入時の受付コミッションを端末の値引きと代理店HITSHOPの取り分に回し、卸である光通信自身は契約者の通話料の2〜3%を3〜10年受け取るストックコミッションを収益の柱に据えた。20歳代の営業マンによる猛烈な売り込みで加入契約を積み増し、先に加入者を囲うほど後年の収入が積み上がる構造を築いた。
- 含意
- 契約を資産として積むこのモデルは、後年に品目を替えながら磨いたストック利益経営の原型となった。一方でノルマを唯一の駆動力とした急拡大は、2000年の架空契約問題という破綻の種も同時に抱えていた。
筆者見解
光通信が携帯電話販売で見出したのは、端末という物を売ることより、契約という継続的な支払いを資産として積む発想であったといえる。受付コミッションで当座を回し、通話料に連動するストックコミッションを積み上げる構造は、後年に同社が水・保険・電力と品目を替えながら磨いたストック利益経営の原型とみることができる。売るものは変わっても、契約を積んで細く長く回収するという骨格は、1990年代の携帯販売ですでに固まっていたとみられる。
同時に、この急成長は営業ノルマを唯一の駆動力とした点で脆さも抱えていた。加入契約の数がそのまま評価と報酬に直結する仕組みは、現場を数字の達成へと追い立て、やがて架空契約となって噴き出した。成長を支えた設計と不正を生んだ温床が同じ一つの仕組みであったことは、コミッションモデルの強さと危うさが表裏の関係にあったことをうかがわせる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
売り切り制移行がひらいた販売代理店の事業機会
1990年代前半、携帯電話がレンタルから売り切り制へと移り、加入者が爆発的に増え始めた。契約者を集める販売代理店に大きな事業機会が生まれ、光通信は事務機やビジネス電話の訪問販売で鍛えた営業組織をこの新市場へ振り向けた。通信事業者の手足となって加入契約を積み上げ、1998年度末には全国の携帯累積保有4000万台のうち275万台を光通信が扱うまでになった。端末を製造するでも回線を敷くでもない一販売業者でありながら、加入者数ではNTTドコモに次ぐシェアを握る異例の立ち位置を得た[1]。
事務機の訪問販売という素地
光通信の素地は、シャープ製の複写機やビジネス電話を戸別に売り歩く事務機の訪問販売にあった。1994年8月期に122億円だった売上は、携帯販売を主柱に据えたことで1996年8月期には562億円へと膨らんだ。勢いは携帯以外にも及び、1997年には携帯電話販売最大手として、経営難がささやかれたパソコン量販のソフマップへ30億円の第三者割当増資を引き受け、第二位株主になる交渉を進めた。交渉自体は破談したものの、急成長で得た資金力を背に周辺の企業へも触手を伸ばす存在になっていた[2][3]。
決断
端末ではなく契約を売る収益モデル
光通信の収益の要は、端末の売買差益ではなく通信事業者から受け取るコミッションにあった。加入時に得る一台あたり4万5000円程度の受付コミッションは、端末の値引き原資と代理店「HITSHOP」の取り分に回し、卸である光通信自身が握ったのはストックコミッションであった。これは契約者の通話料金の2〜3%を3年から10年にわたって受け取る仕組みで、加入者を先に囲い込むほど、その後は電話が使われるだけで収入が積み上がった。端末を売り切った一度きりでなく、契約が続く限り薄く長く回収する設計であり、加入契約そのものが将来の収益を生む資産となった[4]。
営業に徹する組織と加入者を積む発想
この構造を最大化するため、光通信はシステムの開発や運用を提携先に委ね、自らは営業に徹する組織として設計した。20歳代の営業マンによる猛烈な売り込みで加入契約を積み増し、受付コミッションで当座を稼ぎつつ、通話量に連動する変動コミッションを将来の柱に据えた。最初に多くの加入者を獲得してしまえばそれが大きな貯金となり、あとは使われるだけ収入になる。表面的な加入者数が飽和しても、データ送信など通話量にはなお伸びる余地があるとみて、契約の絶対数を追い続けた。契約の数こそが将来の収益基盤になるという読みが、営業を最優先に置く企業文化を支えた[5]。
結果
創業10年で売上1000億円超へ
モデルは急成長を生んだ。1998年8月期の売上は1596億円と前年同期比31%増、経常利益は101億円と同60%増に達し、創業わずか10年で1000億円を超えた唯一のベンチャーと評された。これを率いる重田康光は、このとき33歳の若さであった。1999年8月期には売上2592億円、当期純利益98.8億円へとさらに伸び、成長は加速した。事務機の訪問販売から出発した会社が、携帯電話という時代の追い風をとらえて、10年で年商数千億円規模の企業へと駆け上がった。この間、店舗網は直営から加盟店を主体とする方式へと広がり、代理店「HITSHOP」の看板を掲げて全国へ展開していった[6][7]。
市場の熱狂とネット事業への進出
株式市場も光通信を成長株の象徴として扱った。利益の面では、インフラを持つ携帯電話事業者の一部をすでに一販売業者が凌ぐという逆転が起き、投資家の期待をかき立てた。1999年に入ると株価は半年で5倍に急騰し、時価総額の伸び率で上位に食い込んだ。潤沢な資金と高い株価を手にした光通信は、同じ営業モデルをインターネット事業へ転用し、レンタルサーバーやネット関連ベンチャーへの出資にも意欲的に乗り出した。携帯電話で確立した猛烈営業とコミッションの仕組みを、次の急成長市場へそのまま持ち込もうとした[8]。
- 週刊東洋経済 1997年9月27日号「小売りが危ない パソコン量販の雄・ソフマップの黄昏」
- 週刊東洋経済 1998年11月21日号「日本のベンチャー企業トップ100 混乱期こそ起業のチャンス」
- 週刊東洋経済 1999年2月20日号「快進撃カンパニー 新・成長企業群の特徴と実力から学ぶヒント」
- 週刊東洋経済 1999年5月1日号「二匹目 携帯電話の『猛烈営業』でのした光通信の次なる標的」
- 光通信 会社年鑑(単体業績)