通信自由化を機とした光通信の創業と訪問販売モデルの設計

何を売る会社かではなく、どう売る会社か——23歳の重田康光は規制緩和に何を見て起業したか

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時期 1988年2月
意思決定者 重田康光 社長
論点 創業と営業モデルの設計
概要
1988年2月、23歳の重田康光が資本金100万円で光通信を設立し、通信機器の訪問販売から事業を始めた経営判断。NTT民営化に始まる通信自由化を好機と見て販売代理業に入り、猛烈な営業と徹底した実力主義人事を組み合わせた独自の営業モデルを、創業時から設計思想として組み込んだ。
背景
弁護士一家に育った重田は、高校時代から事業家を志し、大学を数カ月で中退。自由化されたばかりの電話機販売会社でアルバイトをするなかで、規制緩和に商機を見た。第二電電など新電電各社が販売網を代理店に頼る業界構造が、販売代理の事業機会を生んでいた。
内容
1988年2月に光通信を設立し、ホームテレホンの訪問販売を開始。半年後に第二電電の代理店業務へ、1990年には複写機などOA機器の訪問販売へ広げた。「最も成果の上がる組織・仕組みは何か」を創業時から考え、訪問先のデータベース化と、学歴不問・毎月異動の実力主義人事で営業組織を設計した。
含意
売上は前々期261億円・前期560億円・1997年8月期見込み1022億円と倍々で伸び、1996年に31歳の重田は史上最年少の店頭公開企業トップとなった。商材ではなく営業の仕組みを競争力に変えるこのモデルは、のちの携帯電話専門店にも複写機再建にも受け継がれた。
筆者の見解

何を売るかではなく、どう売るか

光通信の創業の核心は、扱う商材ではなく、売る仕組みを競争力に据えた点にある。ホームテレホン、市外電話、複写機、そしてのちの携帯電話と、商材は次々に入れ替わった。変わらなかったのは、中小企業や個人へ足で届く訪問営業と、その効率を上げるデータベース、そして成果だけを見て人を動かす実力主義の人事である。重田が創業時から「最も成果の上がる組織・仕組み」を問い続けたことは、この会社が商品を売る会社ではなく、売る力を設計する会社として始まったことを示している。営業チャネルを資産とみなす発想は、この起業の時点ですでに芯にあった。

この設計思想は、以後の光通信の転換点に繰り返し現れる。中小企業の分散市場をタウンページで攻める手法は、2003年の複写機による再建でそのまま生き、多品目に商材を載せ替える2010年代の多角化にも受け継がれた。一方で、成果を厳しく問う営業とノルマは、2000年のHITSHOPの架空契約という影も生んだ。同じ仕組みが成長の駆動力にも危機の温床にもなる両面性は、創業の設計に初めから内在していた。どう売るかを突き詰めて起業した会社が、その突き詰め方ゆえに大きくもなり、つまずきもする——光通信の歴史は、創業の一手の中にその後のすべてが畳み込まれていたことを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

弁護士一家に育った事業家志望

重田康光は1965年に東京で生まれた。父の九十九も兄の樹男もともに弁護士という家庭に育ちながら、重田は高校のころから、法律家でも会社員でもなく、自分で事業を興す将来を思い描いた。1983年に巣鴨高校を出たあとは、およそ2年間をアルバイトとパチンコに費やす。いったん日本大学経済学部に入るが、数カ月で中退した。進学が自分の将来の何につながるのか腑に落ちず、本気になれなかったという。定まらない時期のなかでも、道を自分で切り開く仕事への志向だけは変わらなかった[1]

通信自由化という好機

転機は、規制緩和のなかにあった。大学を離れた重田は、自由化されたばかりの電話機を売る会社でアルバイトをするうちに、通信の世界に生まれつつある商機に気づく。きっかけはNTTの民営化だった。1985年に電電公社が民営化され、通信市場が自由化されると、第二電電をはじめとする新電電各社が相次いで参入した。各社は自前の販売網を持たず、顧客へ届ける営業を外部の代理店に頼った。通信キャリアと顧客のあいだに立つ販売代理に、大きな事業機会が空いていた[2]

決断

1988年、資本金100万円での創業

1988年2月、重田は資本金100万円で光通信を設立した。23歳だった。最初に手がけたのは、家庭用電話機ホームテレホンの訪問販売である。設立から半年後の1988年7月には第二電電の代理店業務を始め、市外電話サービスの回線販売へ事業を広げた。通信キャリアが用意した商品やサービスを、キャリアに代わって顧客へ届ける代理店モデルは、自社で商品を開発する必要も在庫を抱える必要もなく、営業力だけで事業を成り立たせられる。通信機器の普及が始まる時期に、販売の数と速さがそのまま業績を左右する構造と、重田の事業は噛み合った[3]

1990年からは、通信機器に加えて複写機やビジネス電話などOA機器の訪問販売へ広げた。取り扱う複写機は主にシャープ製である。事務機市場でリコー・キヤノン・富士ゼロックスの下位にあったシャープにとって、光通信が開拓する中小企業は大手が手薄な市場であり、直販網で劣る同社と利害が合った。営業のあて先に使ったのは、NTTの電話帳「タウンページ」に載る約530万社の企業情報だった。公開情報のため参入障壁はないが、片端から電話をかけて訪問の約束を取り、対面で売る手法を組織で回す会社はほかになかった。誰もが見ているのに誰も手を付けない分散市場を、光通信は営業人員の量で開拓した[4][5]

「最も成果の上がる組織」を設計する

重田の創業を、単なる代理店の起業と分けたのは、組織そのものを設計対象と見た姿勢である。重田は、創業の時から、目標に対して最も成果の上がる組織や仕組みは何かを真剣に考えて会社を作ってきたと語る。売る商材は電話でも複写機でも構わない。要は、営業という行為を個人の才覚ではなく、仕組みとして最大の成果が出る形に組み上げることだった。訪問した企業のOA機器や携帯電話の通信会社名、リース期限、担当者の反応までを細かくデータベース化し、次の売り込みの精度を上げる。猛烈な足の営業と、蓄えたデータによる効率化を、重田は同時に回した[6]

その営業の激しさは、取引相手の記憶に残るほどだった。のちに人材派遣のグッドウィルを率いる折口雅博は、創業まもない光通信の営業を受けた場面をこう振り返る。断るつもりで「夜10時に来たら会う」と告げると営業マンは本当に来て、無理な値段をふっかけると、その場で上司へ電話して価格を出してきた。結局は断ったものの、その徹底ぶりに驚かされたという。企業を相手にする営業マンは朝8時過ぎから夜10時、11時まで働き、休日出勤もいとわない。しかも、その多くが20代の若者だった。会社を大きくしたのは、目新しい技術ではなく、この足で稼ぐ営業の密度である[7]

「冷徹」と「希望」の実力主義人事

営業の密度を支えたのが、徹底した実力主義の人事だった。光通信は事実上の学歴不問で、高卒も大学院卒も33等級ある給与表の一番下から始める。人事異動は毎月あり、営業成績しだいで平社員から部長級の統括までたちまち上がる。力があれば高卒でも20代半ばで年収1,000万円を超え、力がなければすぐ降格する。役員から落ちた者もいて、昨日までの部下が今日は上司になることも珍しくない。100人入って残るのは数人という声さえあった。年功序列に慣れた目には冷徹に映る仕組みである[8]

だが重田は、冷徹さと同じ重さで敗者復活を置いた。降格しても力を見せればすぐ戻れ、一度の失敗で差別することも、逆に固定したエリートを作ることもしない。大事なのは、いつも公平であることと、成果に報いることだと重田は言う。地位や収入が落ちても、それは自分の努力が足りなかったせいだと社員が納得できるようにする。誰にでも公平に機会を開き、成果を細かく見て報いる。冷たく突き放す評価と、何度でもやり直せる希望を同居させたこの設計が、若い営業組織のやる気を引き出す仕掛けだった[9]

結果

倍々ゲームの急成長と史上最年少の店頭公開

創業から10年足らずで、光通信は急成長を遂げた。売上高は前々期261億円、前期560億円、1997年8月期見込み1022億円と、倍々のペースで伸びた。1996年2月には店頭公開を果たし、当時31歳の重田は史上最年少の公開企業トップとなる。売上の約8割は、この数年で爆発的に普及した携帯電話とPHSの販売が稼ぎ、ほかに第二電電や国際デジタル通信の加入取り次ぎ、複写機などOA機器の販売が続いた。販売代理という自前の商品を持たない事業が、通信市場の拡大に乗って1,000億円企業へ届いた[10]

成長を支えたもう一つの芯は、固定化を嫌う変化対応だった。重田は、市場に変化の兆しが見えれば即座に組織も人も動かし、動ける体質を保たなければならないと言う。1994年に携帯電話がレンタルから売り切り制へ変わると、ただちに家電量販店への卸売りを始め、携帯電話専門店HITSHOPを2年半で約300店へ広げた。1993年後半、NTTの長距離値下げで第二電電の優位が薄れて契約が落ちると、主力を訪問販売から店頭販売へ移した。需要の見積もりに応じて営業部員を10人から56人へ増やし、また24人へ戻すことも辞さない。HITSHOPさえ、売り上げが落ちれば一挙に閉鎖してもいいと言い切った[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1995年7月3日号「光通信。携帯電話専門店で独走拡大を支えるスピード経営」(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1997年4月28日号「重田康光氏[光通信社長]実力主義やるならここまで。『冷徹』と『希望』の成長システム」(日経BP社)
  • 光通信 有価証券報告書 第38期(2025年3月期)【沿革】
  • 光通信 投資月報(1996年7月)