サンリオ の歴史

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前身・山梨シルクセンターと辻信太郎氏

創業 1960年
創業者 辻信太郎
創業地 山梨県
創業
1960年8月、辻信太郎氏が山梨県庁を辞して東京日本橋で山梨シルクセンターを設立した。資本金100万円、商いは絹織物製品と菓子容器の仕入販売で、1961年7月期の単体売上高は0.24億円にとどまる。辻氏は1927年12月に山梨県で生まれ、桐生工業専門学校の化学工業学科を出て1949年から県庁に勤めていた。取扱いは台所・食卓用品や文具へ広がり、1960年代半ばにはそれらの商品へいちごや人間の図柄を載せている。1967年12月に贈り物用の小型絵本『ギフトブック』、1969年12月にグリーティングカードを加え、単体売上高は1969年7月期に7.05億円へ伸びた。ただしこの時期に売った図柄は他社から借りたもので、権利は手元に無かった。
決断
借りていた図柄を自社で作り、貸す側へ回った。1974年2月に自社で開発した図柄の贈り物商品を発売し、1976年4月には自社デザインを他社製品へ使わせる使用許諾提携業務を始めた。製造部門は一切持たず、約470社の外注先が作る製品へ図柄を載せる形である。並行して1972年10月にサンリオ電機工業を合併し、1973年4月に社名をサンリオへ改め、同年10月にはグリーティングカードの会社も吸収して、販売先を卸売から百貨店・量販店へ広げた。単体売上高は1973年7月期の18.6億円から1977年7月期の322億円へ伸びている。同じ組み替えは46年後にも起きた。2020年7月に創業者から孫の辻朋邦氏へ60年ぶりに社長を交代し、ハローキティ一本だった収益を複数のキャラクターへ分けている。
現況
1999年に作った売上の最高記録を、27年かけて更新した。2026年3月期の連結売上高は1,941億円、営業利益は779億円で、利益率は40%に達した。5年前は売上410億円・営業損失33億円である。地域別では日本が売上1,136億円・利益538億円、アジアが381億円・163億円、北米が276億円・98億円で、アジアは前期の234億円から1年で6割伸びた。かつての記録は、総資産の約半分にあたる1,500億円を株式で運用しながら作ったものである。1991年3月期から8期続いた最終赤字の累計は1,010億円に達し、2002年9月に辻信太郎社長が42年続けた運用の中止を決めた。本業の外へ置いた余資を引き上げたことが、売上ではなく利益率で記録を作る会社へ変えた。
競合
同じ図柄の会社ではなく、映画を持つ会社と棚を争ってきた。2014年3月期の海外売上高は9割超をハローキティが占めている。ライセンス先を選ばずに量を追った北米ではキティが廉価なモチーフとなり、2013年公開の『アナと雪の女王』が当たると量販店の陳列棚から商品が消えた。作品を持たない図柄は、映像で更新される作品に棚を明け渡す。IP軸戦略へ移ったバンダイナムコは一つの作品を玩具とゲームと映像の三つの売り場へ同時に流し、ディズニーと独占ライセンス契約を結んだオリエンタルランドは米国の作品の使用権を長期で押さえて土地に据えた。サンリオはそのどちらも採らず、貸す相手を絞る側へ回っている。量を追う許諾から相手を選ぶ許諾へ改めたことが、2024年3月期の海外売上高に占めるキティの比率を5割まで下げた。
サンリオ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 絹織物の仕入販売からキャラクタービジネス企業への転身 (1960年〜)

山梨の物産会社が贈り物商品へ移るまで

辻信太郎氏は1927年12月に山梨県で生まれ[1]、1947年に桐生工業専門学校(現群馬大学)化学工業学科を卒業したのち、1949年12月に山梨県庁へ入庁した[2]。1960年8月、辻信太郎氏は山梨県庁を退職して[3]株式会社山梨シルクセンターを設立し[4]、代表取締役社長に就いた。本店は東京日本橋に置き[5]、絹織物製品や菓子容器のデザイン、商品企画、その販売を目的に掲げたが、設立時の資本金は100万円[6]、1961年7月期の単体売上高は0.24億円[7]にとどまった。当初の商いは絹織物製品と菓子容器の仕入販売であり、取扱商品はその後、台所・食卓用品や文具類へ広がった[8]。1960年代半ばには、山梨シルクセンターはそれらの商品へいちごや人間の図柄を載せ[9]、後に主力となる贈り物商品の中身をつくった。

  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
    • [1]辻信太郎は1927年12月7日山梨県生まれ
    • [2]1947年桐生工業専門学校(現群馬大学)化学工業学科卒業、1949年12月山梨県庁入庁
    • [3]1960年8月に山梨県庁を退職し、山梨シルクセンターを設立して代表取締役社長に就任
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1960年8月 辻信太郎が株式会社山梨シルクセンターを設立
  • 証券 1982年34(5)(398)
    • [5]昭和35年8月に㈱山梨シルクセンターを東京日本橋に設立。目的は絹織物製品・菓子容器などのデザイン、商品企画及び販売
    • [6]昭和35年8月10日の設立時資本金は1,000千円(100万円)
    • [8]設立当時は絹織物製品・菓子容器の仕入販売で、その後取扱い商品を台所・食卓用品、文具類などに拡大
    • [9]商品にいちご、人間などの図柄(キャラクター)を使用し、ギフト商品事業の基礎作りが昭和40年前半に行われた
  • サンリオの奇跡(1982)
    • [7]1961年7月期の単体売上高0.24億円

取扱商品を贈り物へ寄せた背景には、辻信太郎社長の商いの見立て[10]があった。同じインタビューで、創業2年目の1962年に第一銀行馬喰町支店長から、大企業になるより松下電器に入社して社長になるほうがやさしい[11]と言われた逸話もふり返り、支店長は自分の支店の取引先から大企業が出るのは99.99%だめだろうが、0.01%の確率があるとすればこの会社だろう[12]と付け加えたという。取扱いは、1967年12月に贈り物用の小型絵本[13]『ギフトブック』を発刊して出版へ、1969年12月にグリーティングカードの企画販売[14]へと広がり、単体売上高は1962年7月期の0.37億円[15]から1969年7月期の7.05億円へ伸びた。

  • 日経ビジネス 1977年7月18日号
    • [10]辻信太郎は、物ではなく物に添う気持ちを売るという発想でサンリオを始めたと語った
    • [11]1962年に第一銀行馬喰町支店長から言われた言葉を辻信太郎が回想
    • [12]支店長は、自分の支店の取引先から大企業に飛躍するケースが出るのは99.99%だめだろうが0.01%の確率があるとすれば辻の会社だろうと付け加えたという(辻信太郎談)
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1967年12月 贈り物用の小型絵本「ギフトブック」シリーズを発刊
    • [14]1969年12月 グリーティングカードの企画販売業務を開始
  • サンリオの奇跡(1982)
    • [15]単体売上高は1962年7月期0.37億円、1969年7月期7.05億円

1960年代を通じて山梨シルクセンターの販売先は卸売が中心だったが[16]、1971年12月に新宿区へ直営店を開き[17]、消費者へ直接売る場を持った。1972年10月には関連会社の事業を統合するためサンリオ電機工業株式会社と合併し[18]、1973年4月に社名を株式会社サンリオへ改めた[19]うえ、同年6月には直営店にレストランを併設した[20]。同年10月、グリーティングカード事業を統合するため[21]サンリオグリーティング株式会社を吸収合併したことで、販売先は卸売ルートに加えて百貨店、量販店、その他の小売店へ及び[22]、単体売上高は1972年7月期の12.6億円[23]から1973年7月期の18.6億円へ伸びた。

  • 証券 1982年34(5)(398)
    • [16]同社の販売先は卸売中心であった
    • [17]昭和46年12月に直営店を新宿区に開設
    • [20]昭和48年6月に直営店に併設してレストランを開設
    • [22]この合併で販売は卸売ルートのほか百貨店、量販店、その他小売店へ拡大し、現在の販売体制を確立した
    • [23]単体売上高は1972年7月期12.6億円、1973年7月期18.6億円
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1972年10月 関連会社の事業を統合するためサンリオ電機工業株式会社と合併
    • [19]1973年4月 社名を株式会社サンリオと改称
    • [21]1973年10月 グリーティングカード事業を統合するためサンリオグリーティング株式会社と合併
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
    • [1]辻信太郎は1927年12月7日山梨県生まれ
    • [2]1947年桐生工業専門学校(現群馬大学)化学工業学科卒業、1949年12月山梨県庁入庁
    • [3]1960年8月に山梨県庁を退職し、山梨シルクセンターを設立して代表取締役社長に就任
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1960年8月 辻信太郎が株式会社山梨シルクセンターを設立
    • [13]1967年12月 贈り物用の小型絵本「ギフトブック」シリーズを発刊
    • [14]1969年12月 グリーティングカードの企画販売業務を開始
    • [18]1972年10月 関連会社の事業を統合するためサンリオ電機工業株式会社と合併
    • [19]1973年4月 社名を株式会社サンリオと改称
    • [21]1973年10月 グリーティングカード事業を統合するためサンリオグリーティング株式会社と合併
  • 証券 1982年34(5)(398)
    • [5]昭和35年8月に㈱山梨シルクセンターを東京日本橋に設立。目的は絹織物製品・菓子容器などのデザイン、商品企画及び販売
    • [6]昭和35年8月10日の設立時資本金は1,000千円(100万円)
    • [8]設立当時は絹織物製品・菓子容器の仕入販売で、その後取扱い商品を台所・食卓用品、文具類などに拡大
    • [9]商品にいちご、人間などの図柄(キャラクター)を使用し、ギフト商品事業の基礎作りが昭和40年前半に行われた
    • [16]同社の販売先は卸売中心であった
    • [17]昭和46年12月に直営店を新宿区に開設
    • [20]昭和48年6月に直営店に併設してレストランを開設
    • [22]この合併で販売は卸売ルートのほか百貨店、量販店、その他小売店へ拡大し、現在の販売体制を確立した
    • [23]単体売上高は1972年7月期12.6億円、1973年7月期18.6億円
  • サンリオの奇跡(1982)
    • [7]1961年7月期の単体売上高0.24億円
    • [15]単体売上高は1962年7月期0.37億円、1969年7月期7.05億円
  • 日経ビジネス 1977年7月18日号
    • [10]辻信太郎は、物ではなく物に添う気持ちを売るという発想でサンリオを始めたと語った
    • [11]1962年に第一銀行馬喰町支店長から言われた言葉を辻信太郎が回想
    • [12]支店長は、自分の支店の取引先から大企業に飛躍するケースが出るのは99.99%だめだろうが0.01%の確率があるとすれば辻の会社だろうと付け加えたという(辻信太郎談)

自社キャラクターとライセンス供与への転換

1974年2月、サンリオは自社で開発した動物や人間の図柄を使った[24]贈り物商品を発売し、以後ハローキティ、マイメロディー、パティアンドジミー[25]をはじめ多数のキャラクターを開発してその商品化を進めた。1976年時点でスヌーピーは輸入デザインであり[26]、ヒット作のキティちゃんやバニー&マッティは自社で開発[27]したものだった。同じ時期のサンリオは絵を描くデザイナーと企画を練るプランナーをそれぞれ70人前後抱えて[28]毎年2000件を超えるキャラクターを生み、デザイナーの案は社内の管理職とベテランのデザイナーが選んだうえで小売店の1週間あまりのテスト販売にかけ[29]、好成績を上げた商品だけを本格販売に回した。上場のころにはキャラクターの企画開発へ総社員の約20%にあたる110名を配置[30]し、1981年7月期のギフト商品は3,124点[31]に及んだ。

  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1974年2月 自社開発によるキャラクター(動物、人間等の図柄)を使用したギフト商品を発売
  • 証券 1982年34(5)(398)
    • [25]昭和49年2月以降、ハローキティ(白い子猫)、マイメロディー(うさぎ)、パティアンドジミー(男女の子供)をはじめ多数のキャラクターを開発し商品化を進めた
    • [30]キャラクターの企画開発には総社員の約20%(110名)に当たる人員を配置
    • [31]昭56.7期のギフト商品の種類は3,124点
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [26]「スヌーピー」は輸入デザインだが、「キティちゃん」「バニー&マッティ」などのヒットキャラクターは自社で開発したもの
    • [27]ヒットキャラクターのキティちゃん、バニー&マッティは自社開発
    • [28]デザイナーとプランナーをそれぞれ70人前後抱え、毎年2000件を超えるキャラクターを生み出す
    • [29]社内選別後、小売店での1週間あまりのテスト販売で好成績を上げた商品だけが本格的に販売される

1976年4月、サンリオは自社開発キャラクターを他社製品に使わせる使用許諾提携業務を始め[32]、翌5月には米国サンノゼに子会社Sanrio, Inc.[33]を設けて輸入販売に入り、1974年12月に置いた米国ロサンゼルス[34]の映画子会社と合わせ、米国の拠点は二つになった。サンリオは製造部門を一切持たず、約470社の外注先が市販する製品[35]へ自社のキャラクターを付けて仕入れるか、コスト低減のため材料や買入部品を有償あるいは無償で外注先へ支給する[36]形態を採った。単体売上高は1973年7月期の18.6億円から1977年7月期の322億円へ伸び[37]、当期純利益も27.8億円に達した[38]。この急増には、高度成長と所得水準の向上で子供への支出と購買機会が増えたこと[39]、商品選びで美しさなどの装飾的要素[40]が重んじられたこと、1973年のサンリオグリーティング合併で販売ルートが卸売中心から全国の百貨店や量販店へ及んだ[41]ことが重なる。

  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1976年4月 自社開発デザイン・キャラクターを他社製品に使用させる使用許諾提携業務を開始
    • [33]1976年5月 米国サンノゼに子会社Sanrio, Inc.を設立し輸入販売を開始
    • [34]1974年12月 米国ロサンゼルスに子会社Sanrio Film Corporation of Americaを設立し映画製作・配給業務を開始
  • 証券 1982年34(5)(398)
    • [35]工場などの製造部門を一切所有せず、外注先約470社の市販製品にキャラクターを付けて仕入れる形態
    • [36]キャラクターを付けさせて仕入れるか、あるいはコスト低減のため材料・買入れ部品を有償あるいは無償で外注先に支給するかの形態
    • [37]1977年7月期の単体売上高322億円、当期純利益27.8億円
    • [38]1977年7月期の当期純利益は27.8億円
    • [39]経済の高度成長と所得水準の向上に伴い子供に関する支出が増大し、子供自身の購買機会が増大した
    • [40]商品を購入する際に機能だけでなく美しさなどの装飾的な要素を重視するようになった
    • [41]昭和48年のサンリオグリーティング吸収合併により販売ルートが卸売中心から全国の百貨店、量販店などに拡大した

1978年7月期の単体売上高は347億円[42]と微増にとどまったが、これは1977年までの各販売ルートからの受注が多く営業側が販売ルートの見直しに手を付けなかったことと、株式会社コクヨなど競業他社が進出してきた[43]ことによる。1979年7月期に337億円へ減った[44]のは、シェア拡大と百貨店・量販店などの店舗見直しに伴う改装費用を援助するため、小売店と卸売ルートの掛率を数パーセント下げたためである[45]。1980年7月期は、費用と製作日数をかけたカラーアニメーション映画の配給収入が製作コストを回収できず、売上総利益率が28.0%へ落ちた[46]。それでも売上高は1980年7月期から増加に転じ、1981年7月期は456億円[47]、うち90.6%をギフト商品が占め、同年には販売店からの在庫問い合わせに答える音声応答装置[48]の導入も決めた。1982年4月、サンリオは東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した[49]

  • 証券 1982年34(5)(398)
    • [42]1978年7月期の単体売上高347億円(昭和53年は微増)
    • [43]昭和53年の微増要因は、昭和52年までの各販売ルートからの受注が多く営業サイドが積極的な販売ルートの見直しをしなかったこと、㈱コクヨなどの競業他社が進出してきたこと
    • [44]1979年7月期の単体売上高337億円(昭和54年は2.9%減少)
    • [45]昭和54年の減少は、シェア拡大及び百貨店、量販店、その他小売店の店舗見直しに伴う改装費用の援助のため小売店・卸売ルートの掛率を数パーセント下げたことによる
    • [46]昭和55年の売上総利益率28.0%は、多額のコストと製作日数を要したカラーアニメーション映画の配給収入が製作コストをカバーできなかったことが主因
    • [47]昭和55年以降は15%以上の増加。昭56.7期売上45,663百万円のうちギフト商品41,389百万円(90.6%)
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [48]全国の販売店からの在庫問い合わせに答える音声応答システムの導入を決定
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1982年4月 当社株式が東京証券取引所市場第二部に上場
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1974年2月 自社開発によるキャラクター(動物、人間等の図柄)を使用したギフト商品を発売
    • [32]1976年4月 自社開発デザイン・キャラクターを他社製品に使用させる使用許諾提携業務を開始
    • [33]1976年5月 米国サンノゼに子会社Sanrio, Inc.を設立し輸入販売を開始
    • [34]1974年12月 米国ロサンゼルスに子会社Sanrio Film Corporation of Americaを設立し映画製作・配給業務を開始
    • [49]1982年4月 当社株式が東京証券取引所市場第二部に上場
  • 証券 1982年34(5)(398)
    • [25]昭和49年2月以降、ハローキティ(白い子猫)、マイメロディー(うさぎ)、パティアンドジミー(男女の子供)をはじめ多数のキャラクターを開発し商品化を進めた
    • [30]キャラクターの企画開発には総社員の約20%(110名)に当たる人員を配置
    • [31]昭56.7期のギフト商品の種類は3,124点
    • [35]工場などの製造部門を一切所有せず、外注先約470社の市販製品にキャラクターを付けて仕入れる形態
    • [36]キャラクターを付けさせて仕入れるか、あるいはコスト低減のため材料・買入れ部品を有償あるいは無償で外注先に支給するかの形態
    • [37]1977年7月期の単体売上高322億円、当期純利益27.8億円
    • [38]1977年7月期の当期純利益は27.8億円
    • [39]経済の高度成長と所得水準の向上に伴い子供に関する支出が増大し、子供自身の購買機会が増大した
    • [40]商品を購入する際に機能だけでなく美しさなどの装飾的な要素を重視するようになった
    • [41]昭和48年のサンリオグリーティング吸収合併により販売ルートが卸売中心から全国の百貨店、量販店などに拡大した
    • [42]1978年7月期の単体売上高347億円(昭和53年は微増)
    • [43]昭和53年の微増要因は、昭和52年までの各販売ルートからの受注が多く営業サイドが積極的な販売ルートの見直しをしなかったこと、㈱コクヨなどの競業他社が進出してきたこと
    • [44]1979年7月期の単体売上高337億円(昭和54年は2.9%減少)
    • [45]昭和54年の減少は、シェア拡大及び百貨店、量販店、その他小売店の店舗見直しに伴う改装費用の援助のため小売店・卸売ルートの掛率を数パーセント下げたことによる
    • [46]昭和55年の売上総利益率28.0%は、多額のコストと製作日数を要したカラーアニメーション映画の配給収入が製作コストをカバーできなかったことが主因
    • [47]昭和55年以降は15%以上の増加。昭56.7期売上45,663百万円のうちギフト商品41,389百万円(90.6%)
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [26]「スヌーピー」は輸入デザインだが、「キティちゃん」「バニー&マッティ」などのヒットキャラクターは自社で開発したもの
    • [27]ヒットキャラクターのキティちゃん、バニー&マッティは自社開発
    • [28]デザイナーとプランナーをそれぞれ70人前後抱え、毎年2000件を超えるキャラクターを生み出す
    • [29]社内選別後、小売店での1週間あまりのテスト販売で好成績を上げた商品だけが本格的に販売される
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [48]全国の販売店からの在庫問い合わせに答える音声応答システムの導入を決定

株式運用に置いた余資と、二つのテーマパーク建設

1983年4月、サンリオは西独ハンブルクに[50]子会社Sanrio GmbHを設立し、欧州でのギフト商品の輸入販売を始めた。翌1984年1月には、サンリオ株式が[51]東京証券取引所市場第二部から第一部へ指定替えされた。単体の売上高は1983年7月期の582億円から[52]1984年7月期の681億円へ伸び、経常利益は67億円を計上した[53]。運用の対象に土地を選ばなかった理由を、辻信太郎社長は1990年に、土地には嫌な思い出があるとして[54]甲府の生家をめぐる裁判の記憶に求めている。50億円の土地は持ち主や担保の有無を調べるだけで手間がかかるが、株なら電話一本で売り買いできる[55]、というのがその説明だった。値上がりは土地のほうがすごかったから、不労所得とみるなら土地投資のほうが[56]良かったのかもしれない、という留保も添えた。1988年、サンリオは社内に資金運用管理室を設けた[57]

  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1983年4月 西独ハンブルク市に子会社Sanrio GmbHを設立し、欧州でのギフト商品の輸入販売を開始
    • [51]1984年1月 サンリオ株式が東京証券取引所市場第一部に指定替え(1982年4月に第二部へ上場)
  • 会社年鑑
    • [52]単体売上高は1983年7月期582億円、1984年7月期681億円
    • [53]1984年7月期の単体経常利益は67.3億円
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
    • [54]辻信太郎社長は1990年7月のインタビューで「土地については嫌な思い出がある」と述べ、甲府市の生家をめぐる不法占拠と裁判の記憶を挙げた
    • [55]辻信太郎社長は「50億の土地を買おうとすると、持ち主は誰かとか担保に入っていないかとか、調べるのが大変。でも株を買う場合は50億でも1000億でも電話でオーケーと言えばそれでいい」と述べた
    • [56]辻信太郎社長は同じ場で「ただ値上がりは土地の方がすごかったから、不労所得とみるならば土地投資の方が良かったのかもしれないけど」と留保を付けた
  • 日経ビジネス 1992年4月27日号
    • [57]1988年に資金運用管理室を設立(1992年3月に廃止)

サンリオは1987年11月、複合文化施設サンリオ[58]ピューロランドの運営会社として株式会社サンリオ・コミュニケーション・ワールドを設立し、1988年10月には大分県速見郡日出町の[59]ハーモニーランドの運営会社の設立にも出資した。1990年7月、辻信太郎社長はピューロランドを14年ほどかけた構想だ[60]と語り、日本人1人当たりの所得が2万ドルを超えて休日が増えれば[61]、その過ごし方が問題になり、そこにテーマパークが出てくると読んでいた。米国には600カ所のテーマパークがあり[62]、経営する会社は約20社で、1、2を除いて黒字だという見立ても添えた。同じころ、1983年以降に民間企業や自治体が打ち上げた計画は建設省調べで133カ所に上り[63]、開園済みは約30カ所を数えていた。そのうち成功するのは7つ程度ではないかと、東急エージェンシーの井手信雄主任研究員[64]は1991年に語った。

  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1987年11月 サンリオピューロランドの運営会社、株式会社サンリオ・コミュニケーション・ワールドを設立
    • [59]1988年10月 大分県速見郡日出町のハーモニーランドの運営管理会社、株式会社ハーモニーランドの設立に出資
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
    • [60]辻信太郎社長は1990年7月、ピューロランドを「14年間ぐらいの構想をもとに造った」と述べた
    • [61]辻信太郎社長は建設の動機として、1人当たり所得が2万ドルを超え休みが増えることを挙げ「この休みをどうすごすかが問題になってくる。そこで出てくるのがテーマパーク」と語った
    • [62]辻信太郎社長は「アメリカには600カ所もあって、経営する会社が約20社あるんですが、1、2をのぞいて全部黒字なんです」と述べた(「1、2」が社か施設かは記事上定かでない)
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号
    • [63]1983年以降に民間企業や自治体が打ち上げたテーマパーク計画は133カ所(建設省調べ)、すでに開園したのは約30カ所
    • [64]東急エージェンシーの井手信雄主任研究員は「約30のうち、成功するのは7つ程度ではないか」と述べた

1990年12月、東京都多摩市にサンリオピューロランドが開園[65]し、翌1991年4月には大分県速見郡日出町にハーモニーランドが開業した[66]。ハーモニーランドの初期投資は140億円に上った[67]。ピューロランドは1日のピーク時入場者を6000人に設定[68]していたが、客が特定のアトラクションに集中して1時間並ぶ列ができ、900席のレストランも食事時に一斉に埋まった。サンリオは米国のランドマーク・エンターテイメント・グループ[69]から企画とデザインの技術協力を得た一方、運営は子会社のサンリオ・コミュニケーション・ワールドが自前で担い、そのノウハウの不備が先に目立った。辻信太郎社長は、来園者がディズニーランドの感覚でアトラクション[70]に入りたがると反省を述べた。ハーモニーランドは休日に1万人近くを集めたものの、平日は2000人の目標を下回る日[71]がほとんどだった。

  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1990年12月 東京都多摩市に「サンリオピューロランド」をオープン
    • [66]1991年4月 大分県速見郡日出町に「ハーモニーランド」をオープン
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号
    • [67]ハーモニーランドの初期投資は140億円
    • [68]ピューロランドは1日のピーク時入場者数を6000人に設定していたが、客が特定のアトラクションに集中し1時間並ぶ状況となり、900席のレストランも食事時に混雑した
    • [69]サンリオは米ランドマーク・エンターテイメント・グループと提携して企画・デザイン面の技術協力を得たが、運営は子会社のサンリオ・コミュニケーション・ワールドが担当し、ノウハウの不備が目立った
    • [70]辻信太郎社長は「来ていただいた方はどうもディズニーランドの感覚でアトラクションに入りたがる」と反省を述べた
    • [71]ハーモニーランドは休日こそ1万人近い客が入るが、平日は2000人の目標さえ下回ることがほとんどだった
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1983年4月 西独ハンブルク市に子会社Sanrio GmbHを設立し、欧州でのギフト商品の輸入販売を開始
    • [51]1984年1月 サンリオ株式が東京証券取引所市場第一部に指定替え(1982年4月に第二部へ上場)
    • [58]1987年11月 サンリオピューロランドの運営会社、株式会社サンリオ・コミュニケーション・ワールドを設立
    • [59]1988年10月 大分県速見郡日出町のハーモニーランドの運営管理会社、株式会社ハーモニーランドの設立に出資
    • [65]1990年12月 東京都多摩市に「サンリオピューロランド」をオープン
    • [66]1991年4月 大分県速見郡日出町に「ハーモニーランド」をオープン
  • 会社年鑑
    • [52]単体売上高は1983年7月期582億円、1984年7月期681億円
    • [53]1984年7月期の単体経常利益は67.3億円
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
    • [54]辻信太郎社長は1990年7月のインタビューで「土地については嫌な思い出がある」と述べ、甲府市の生家をめぐる不法占拠と裁判の記憶を挙げた
    • [55]辻信太郎社長は「50億の土地を買おうとすると、持ち主は誰かとか担保に入っていないかとか、調べるのが大変。でも株を買う場合は50億でも1000億でも電話でオーケーと言えばそれでいい」と述べた
    • [56]辻信太郎社長は同じ場で「ただ値上がりは土地の方がすごかったから、不労所得とみるならば土地投資の方が良かったのかもしれないけど」と留保を付けた
    • [60]辻信太郎社長は1990年7月、ピューロランドを「14年間ぐらいの構想をもとに造った」と述べた
    • [61]辻信太郎社長は建設の動機として、1人当たり所得が2万ドルを超え休みが増えることを挙げ「この休みをどうすごすかが問題になってくる。そこで出てくるのがテーマパーク」と語った
    • [62]辻信太郎社長は「アメリカには600カ所もあって、経営する会社が約20社あるんですが、1、2をのぞいて全部黒字なんです」と述べた(「1、2」が社か施設かは記事上定かでない)
  • 日経ビジネス 1992年4月27日号
    • [57]1988年に資金運用管理室を設立(1992年3月に廃止)
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号
    • [63]1983年以降に民間企業や自治体が打ち上げたテーマパーク計画は133カ所(建設省調べ)、すでに開園したのは約30カ所
    • [64]東急エージェンシーの井手信雄主任研究員は「約30のうち、成功するのは7つ程度ではないか」と述べた
    • [67]ハーモニーランドの初期投資は140億円
    • [68]ピューロランドは1日のピーク時入場者数を6000人に設定していたが、客が特定のアトラクションに集中し1時間並ぶ状況となり、900席のレストランも食事時に混雑した
    • [69]サンリオは米ランドマーク・エンターテイメント・グループと提携して企画・デザイン面の技術協力を得たが、運営は子会社のサンリオ・コミュニケーション・ワールドが担当し、ノウハウの不備が目立った
    • [70]辻信太郎社長は「来ていただいた方はどうもディズニーランドの感覚でアトラクションに入りたがる」と反省を述べた
    • [71]ハーモニーランドは休日こそ1万人近い客が入るが、平日は2000人の目標さえ下回ることがほとんどだった

8期連続の最終赤字とハローキティブーム

1990年3月末の評価損は75億円[72]に達したが、辻信太郎社長は日本経済新聞社のアンケートにこれからもどんどんやると回答し、他社の回答が縮小や中止ばかりだと知ったのはその後だった。株式を上場し転換社債も新株も発行して買ってほしいと言う以上、自分は株を買わないでは理屈が通らない[73]、というのが理由である。1600億円を1人では無理だとして[74]資金運用室に専門家を置き、辻信太郎社長自身も8割方に目を通していた。1992年3月期は約160億円の株式評価損で[75]、上場以来はじめての無配に転じる見込みとなった。株式運用は総資産の4割に達した[76]が、株式の持ち合いがあって一度保有した株は思い通りに売れない、と辻信太郎社長は述べた。財テクの失敗という評には、成功した会社はどこにもないと反論した[77]

  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
    • [72]辻信太郎社長は「3月末で75億円の評価損を出した」と述べ、その後に届いた日本経済新聞社のアンケートに「これからもどんどんやる」と回答した。他社が財テクの縮小・中止を挙げていたのを知ったのは回答後(「後でみると他社はみんな財テクは縮小するとか、やめるとかある。変な話ですよね」)
    • [73]辻信太郎社長は「サンリオは株を上場している。また、CBも発行してるし。新株も出してそれは買って下さいと言っている。株を発行していて、自分は株は買わないでは理屈が通らない」と述べた
    • [74]辻信太郎社長は「いやいや、1600億円を1人では無理。社内に資金運用室というのがあるんです。専門家が入ってます。でも80%ぐらいは見てます」と述べた
  • 日経ビジネス 1992年4月27日号
    • [75]1992年3月期は約160億円の株式評価損により、1982年の上場以来の赤字・無配の見込みとされた
    • [76]株式運用は総資産の4割に達した。辻信太郎社長は「日本には株式の持ち合いということがあって、一度保有した株をなかなか思い通りに売ることはできません」と述べ、NTT株を仮に全部売却すればテレホンカードのデザイン制作の取引に影響が出る可能性があると例示した
    • [77]辻信太郎社長は「サンリオが財テクに失敗したとよく言われます。しかし、株価が日経平均3万8000円台から1万7000円を割るまで急降下した中で、成功した会社は、どこにもありません」と述べた

サンリオは1989年10月の定時株主総会で事業年度を4月1日から3月31日へ変更[78]し、1990年3月期は8か月の変則決算[79]となった。連結の最終損益は1991年3月期から1998年3月期まで8期続けて赤字となり[80]、1992年3月期の354億円と1995年3月期の240億円を含めて累計は1010億円に達した[81]。この間の連結売上高は1992年3月期の1314億円をピークに[82]、1996年3月期の968億円まで縮んだ。赤字が続くなかでも海外の販売網は広げ、1992年5月に台北、1994年4月に香港[83]、1998年7月に大韓民国へ子会社を設立[84]した。

  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1989年10月 第29回定時株主総会において、事業年度を毎年4月1日から翌年3月31日に変更することを決議
    • [83]1992年5月 台北市に子会社三麗鴎有限公司を設立、1994年4月 香港に子会社Sanrio(Hong Kong) Co.,Ltd.を設立
    • [84]1998年7月 大韓民国に子会社Sanrio Korea Co.,Ltd.を設立
  • サンリオ 有価証券報告書
    • [79]決算期変更により1990年3月期は1989年8月から1990年3月までの8か月の変則決算(連結売上高743億円。前期1989年7月期の950億円とは期間が異なる)
    • [80]連結当期純損益は1991年3月期から1998年3月期まで8期連続で赤字(-56.5/-354/-55.8/-43.9/-240/-26.5/-53.3/-180億円)、累計1010億円
    • [81]連結当期純損失は1992年3月期354億円、1995年3月期240億円。8期の累計は1010億円
    • [82]連結売上高は1991年3月期1241億円、1992年3月期1314億円、1995年3月期923億円、1996年3月期968億円

サンリオは1997年3月に20代から30代の大人を狙った専門店を多店舗で開いた[85]。ハローキティの関連商品は1997年だけで3000点、市場規模は3000億円を超えたと、サンリオ商事部の大林佳幸課長[86]は見積もっている。買い手の中心は子供でなく大人で、ドラえもんやウルトラマンにも同じ現象[87]が起きた。連結売上高は1997年3月期の1073億円から1999年3月期には[88]1501億円へ伸び、最終損益も1999年3月期に51億円、2000年3月期に204億円の黒字[89]に転じた。

  • 日経ビジネス 1998年8月24日号
    • [85]1997年3月にサンリオが20代から30代の大人を狙ったサンリオ商品の専門店を多店舗で展開し始めた
    • [86]キャラクターの使用権を管理するサンリオ商事部の大林佳幸課長は「昨年だけで3000点が新たに生まれた。関連商品の市場規模は3000億円を超えています」と述べた(自社関係者の見積もり)
    • [87]キャラクター人気を牽引していたのは子供よりも大人で、キティちゃんのほかドラえもん(市場規模2000億円超)、ウルトラマンも大人が買い手だった(ポケットモンスターは大人に頼らず子供向けで市場を拡大した例として区別されている)
  • サンリオ 有価証券報告書
    • [88]連結売上高は1997年3月期1073億円、1998年3月期1453億円、1999年3月期1501億円
    • [89]連結当期純利益は1999年3月期51.3億円、2000年3月期204億円
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
    • [72]辻信太郎社長は「3月末で75億円の評価損を出した」と述べ、その後に届いた日本経済新聞社のアンケートに「これからもどんどんやる」と回答した。他社が財テクの縮小・中止を挙げていたのを知ったのは回答後(「後でみると他社はみんな財テクは縮小するとか、やめるとかある。変な話ですよね」)
    • [73]辻信太郎社長は「サンリオは株を上場している。また、CBも発行してるし。新株も出してそれは買って下さいと言っている。株を発行していて、自分は株は買わないでは理屈が通らない」と述べた
    • [74]辻信太郎社長は「いやいや、1600億円を1人では無理。社内に資金運用室というのがあるんです。専門家が入ってます。でも80%ぐらいは見てます」と述べた
  • 日経ビジネス 1992年4月27日号
    • [75]1992年3月期は約160億円の株式評価損により、1982年の上場以来の赤字・無配の見込みとされた
    • [76]株式運用は総資産の4割に達した。辻信太郎社長は「日本には株式の持ち合いということがあって、一度保有した株をなかなか思い通りに売ることはできません」と述べ、NTT株を仮に全部売却すればテレホンカードのデザイン制作の取引に影響が出る可能性があると例示した
    • [77]辻信太郎社長は「サンリオが財テクに失敗したとよく言われます。しかし、株価が日経平均3万8000円台から1万7000円を割るまで急降下した中で、成功した会社は、どこにもありません」と述べた
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1989年10月 第29回定時株主総会において、事業年度を毎年4月1日から翌年3月31日に変更することを決議
    • [83]1992年5月 台北市に子会社三麗鴎有限公司を設立、1994年4月 香港に子会社Sanrio(Hong Kong) Co.,Ltd.を設立
    • [84]1998年7月 大韓民国に子会社Sanrio Korea Co.,Ltd.を設立
  • サンリオ 有価証券報告書
    • [79]決算期変更により1990年3月期は1989年8月から1990年3月までの8か月の変則決算(連結売上高743億円。前期1989年7月期の950億円とは期間が異なる)
    • [80]連結当期純損益は1991年3月期から1998年3月期まで8期連続で赤字(-56.5/-354/-55.8/-43.9/-240/-26.5/-53.3/-180億円)、累計1010億円
    • [81]連結当期純損失は1992年3月期354億円、1995年3月期240億円。8期の累計は1010億円
    • [82]連結売上高は1991年3月期1241億円、1992年3月期1314億円、1995年3月期923億円、1996年3月期968億円
    • [88]連結売上高は1997年3月期1073億円、1998年3月期1453億円、1999年3月期1501億円
    • [89]連結当期純利益は1999年3月期51.3億円、2000年3月期204億円
  • 日経ビジネス 1998年8月24日号
    • [85]1997年3月にサンリオが20代から30代の大人を狙ったサンリオ商品の専門店を多店舗で展開し始めた
    • [86]キャラクターの使用権を管理するサンリオ商事部の大林佳幸課長は「昨年だけで3000点が新たに生まれた。関連商品の市場規模は3000億円を超えています」と述べた(自社関係者の見積もり)
    • [87]キャラクター人気を牽引していたのは子供よりも大人で、キティちゃんのほかドラえもん(市場規模2000億円超)、ウルトラマンも大人が買い手だった(ポケットモンスターは大人に頼らず子供向けで市場を拡大した例として区別されている)

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サンリオの沿革1960〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1960〜1982年絹織物の仕入販売からキャラクタービジネス企業への転身辻信太郎山梨シルクセンターを設立
辻信太郎ギフト商品の販売を開始★★
辻信太郎贈り物用の小型絵本「ギフトブック」シリーズを発刊、出版物の企画・販売を開始
辻信太郎グリーティングカードの企画販売を開始
辻信太郎商号をサンリオに変更
辻信太郎自社開発キャラクターのソーシャル・コミュニケーション・ギフト商品を発売★★
辻信太郎ハローキティの誕生と、自社キャラクターを版権で稼ぐライセンスモデルの確立

1974年、前年に社名をサンリオへ改めた物販中心の同社が、社内デザイナーの手でハローキティを生み、自社キャラクターを商品に載せて売り、他社に使用を許すライセンス(版権)で稼ぐ収益モデルを確立した経営判断。1975年に最初の小物が売れ、1976年から自社キャラクターの版権供与を始めた。

詳細を読む
★★★
辻信太郎自社キャラクターのライセンス供与を開始★★
辻信太郎サンノゼにSanrio, Inc.を設立
辻信太郎東京証券取引所第2部に株式上場
1983〜2000年テーマパーク開園と財テクがもたらした代償辻信太郎ココロを設立
辻信太郎複合文化施設運営会社サンリオ・コミュニケーション・ワールドを設立
辻信太郎「ハーモニーランド」運営会社ハーモニーランドの設立に出資
辻信太郎第29回定時株主総会で事業年度を4月1日〜翌3月31日に変更を決議
辻信太郎サンリオピューロランドを開園★★
辻信太郎株式投資に失敗。8期連続の最終赤字へ★★
辻信太郎「ハーモニーランド」をオープン
辻信太郎高校生の間でハローキティがブーム。大幅増収へ
2001〜2019年海外ライセンスへの転換と欧米事業の失速辻信太郎三麗鴎(上海)国際貿易有限公司を設立
辻信太郎Sanrio Asia Merchandise Co., Ltd.を設立
辻信太郎Sanrio License GmbH(2011年1月にSanrio GmbHへ吸収合併)を設立
辻信太郎海外成長戦略を公表★★
辻信太郎3社のテーマパーク事業を会社分割しサンリオエンターテイメントを設立
辻信太郎サンリオピューロランド・ハーモニーランドを清算
辻信太郎Mister Men Ltd.・Mister Films Ltd.・THOIPの全株式を取得
辻信太郎鳩山玲人氏が退社
辻信太郎辻家による経営に回帰★★
辻信太郎米国と欧州で不振
辻朋邦創業者から孫への60年ぶりの世代承継と「第二の創業」による多キャラクター経営への転換

2020年7月、創業者の辻信太郎氏(92歳)が60年務めた社長を孫の辻朋邦氏(31歳)へ譲り、創業以来初のトップ交代に踏み切った経営判断。辻朋邦氏は『第二の創業』を掲げ、ハローキティ中心のライセンス経営を複数キャラクターの育成と海外ライセンスへ組み替えた。

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★★★
辻朋邦Avex Asia Pte. Ltd.と合弁会社SANRIO SOUTHEAST ASIA PTE. LTD.を設立
辻朋邦プライム市場に移行
辻朋邦物販とテーマパークの需要回復。大幅増収へ
出典・参考
  • サンリオ 有価証券報告書【沿革】
  • サンリオ 有価証券報告書
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
  • 日経ビジネス 1977年7月18日号
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
  • 日経ビジネス 1990年7月30日号
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号
  • 日経ビジネス 1992年4月27日号
  • 日経ビジネス 1998年8月24日号
  • 証券 1982年34(5)(398)
  • サンリオの奇跡(1982)

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