前身・山梨シルクセンターと辻信太郎氏
辻信太郎氏は1927年12月に山梨県で生まれ[1]、1947年に桐生工業専門学校(現群馬大学)化学工業学科を卒業したのち、1949年12月に山梨県庁へ入庁した[2]。1960年8月、辻信太郎氏は山梨県庁を退職して[3]株式会社山梨シルクセンターを設立し[4]、代表取締役社長に就いた。本店は東京日本橋に置き[5]、絹織物製品や菓子容器のデザイン、商品企画、その販売を目的に掲げたが、設立時の資本金は100万円[6]、1961年7月期の単体売上高は0.24億円[7]にとどまった。当初の商いは絹織物製品と菓子容器の仕入販売であり、取扱商品はその後、台所・食卓用品や文具類へ広がった[8]。1960年代半ばには、山梨シルクセンターはそれらの商品へいちごや人間の図柄を載せ[9]、後に主力となる贈り物商品の中身をつくった。
取扱商品を贈り物へ寄せた背景には、辻信太郎社長の商いの見立て[10]があった。同じインタビューで、創業2年目の1962年に第一銀行馬喰町支店長から、大企業になるより松下電器に入社して社長になるほうがやさしい[11]と言われた逸話もふり返り、支店長は自分の支店の取引先から大企業が出るのは99.99%だめだろうが、0.01%の確率があるとすればこの会社だろう[12]と付け加えたという。取扱いは、1967年12月に贈り物用の小型絵本[13]『ギフトブック』を発刊して出版へ、1969年12月にグリーティングカードの企画販売[14]へと広がり、単体売上高は1962年7月期の0.37億円[15]から1969年7月期の7.05億円へ伸びた。
1960年代を通じて山梨シルクセンターの販売先は卸売が中心だったが[16]、1971年12月に新宿区へ直営店を開き[17]、消費者へ直接売る場を持った。1972年10月には関連会社の事業を統合するためサンリオ電機工業株式会社と合併し[18]、1973年4月に社名を株式会社サンリオへ改めた[19]うえ、同年6月には直営店にレストランを併設した[20]。同年10月、グリーティングカード事業を統合するため[21]サンリオグリーティング株式会社を吸収合併したことで、販売先は卸売ルートに加えて百貨店、量販店、その他の小売店へ及び[22]、単体売上高は1972年7月期の12.6億円[23]から1973年7月期の18.6億円へ伸びた。
1974年2月、サンリオは自社で開発した動物や人間の図柄を使った[24]贈り物商品を発売し、以後ハローキティ、マイメロディー、パティアンドジミー[25]をはじめ多数のキャラクターを開発してその商品化を進めた。1976年時点でスヌーピーは輸入デザインであり[26]、ヒット作のキティちゃんやバニー&マッティは自社で開発[27]したものだった。同じ時期のサンリオは絵を描くデザイナーと企画を練るプランナーをそれぞれ70人前後抱えて[28]毎年2000件を超えるキャラクターを生み、デザイナーの案は社内の管理職とベテランのデザイナーが選んだうえで小売店の1週間あまりのテスト販売にかけ[29]、好成績を上げた商品だけを本格販売に回した。上場のころにはキャラクターの企画開発へ総社員の約20%にあたる110名を配置[30]し、1981年7月期のギフト商品は3,124点[31]に及んだ。
1976年4月、サンリオは自社開発キャラクターを他社製品に使わせる使用許諾提携業務を始め[32]、翌5月には米国サンノゼに子会社Sanrio, Inc.[33]を設けて輸入販売に入り、1974年12月に置いた米国ロサンゼルス[34]の映画子会社と合わせ、米国の拠点は二つになった。サンリオは製造部門を一切持たず、約470社の外注先が市販する製品[35]へ自社のキャラクターを付けて仕入れるか、コスト低減のため材料や買入部品を有償あるいは無償で外注先へ支給する[36]形態を採った。単体売上高は1973年7月期の18.6億円から1977年7月期の322億円へ伸び[37]、当期純利益も27.8億円に達した[38]。この急増には、高度成長と所得水準の向上で子供への支出と購買機会が増えたこと[39]、商品選びで美しさなどの装飾的要素[40]が重んじられたこと、1973年のサンリオグリーティング合併で販売ルートが卸売中心から全国の百貨店や量販店へ及んだ[41]ことが重なる。
1978年7月期の単体売上高は347億円[42]と微増にとどまったが、これは1977年までの各販売ルートからの受注が多く営業側が販売ルートの見直しに手を付けなかったことと、株式会社コクヨなど競業他社が進出してきた[43]ことによる。1979年7月期に337億円へ減った[44]のは、シェア拡大と百貨店・量販店などの店舗見直しに伴う改装費用を援助するため、小売店と卸売ルートの掛率を数パーセント下げたためである[45]。1980年7月期は、費用と製作日数をかけたカラーアニメーション映画の配給収入が製作コストを回収できず、売上総利益率が28.0%へ落ちた[46]。それでも売上高は1980年7月期から増加に転じ、1981年7月期は456億円[47]、うち90.6%をギフト商品が占め、同年には販売店からの在庫問い合わせに答える音声応答装置[48]の導入も決めた。1982年4月、サンリオは東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した[49]。
1983年4月、サンリオは西独ハンブルクに[50]子会社Sanrio GmbHを設立し、欧州でのギフト商品の輸入販売を始めた。翌1984年1月には、サンリオ株式が[51]東京証券取引所市場第二部から第一部へ指定替えされた。単体の売上高は1983年7月期の582億円から[52]1984年7月期の681億円へ伸び、経常利益は67億円を計上した[53]。運用の対象に土地を選ばなかった理由を、辻信太郎社長は1990年に、土地には嫌な思い出があるとして[54]甲府の生家をめぐる裁判の記憶に求めている。50億円の土地は持ち主や担保の有無を調べるだけで手間がかかるが、株なら電話一本で売り買いできる[55]、というのがその説明だった。値上がりは土地のほうがすごかったから、不労所得とみるなら土地投資のほうが[56]良かったのかもしれない、という留保も添えた。1988年、サンリオは社内に資金運用管理室を設けた[57]。
サンリオは1987年11月、複合文化施設サンリオ[58]ピューロランドの運営会社として株式会社サンリオ・コミュニケーション・ワールドを設立し、1988年10月には大分県速見郡日出町の[59]ハーモニーランドの運営会社の設立にも出資した。1990年7月、辻信太郎社長はピューロランドを14年ほどかけた構想だ[60]と語り、日本人1人当たりの所得が2万ドルを超えて休日が増えれば[61]、その過ごし方が問題になり、そこにテーマパークが出てくると読んでいた。米国には600カ所のテーマパークがあり[62]、経営する会社は約20社で、1、2を除いて黒字だという見立ても添えた。同じころ、1983年以降に民間企業や自治体が打ち上げた計画は建設省調べで133カ所に上り[63]、開園済みは約30カ所を数えていた。そのうち成功するのは7つ程度ではないかと、東急エージェンシーの井手信雄主任研究員[64]は1991年に語った。
1990年12月、東京都多摩市にサンリオピューロランドが開園[65]し、翌1991年4月には大分県速見郡日出町にハーモニーランドが開業した[66]。ハーモニーランドの初期投資は140億円に上った[67]。ピューロランドは1日のピーク時入場者を6000人に設定[68]していたが、客が特定のアトラクションに集中して1時間並ぶ列ができ、900席のレストランも食事時に一斉に埋まった。サンリオは米国のランドマーク・エンターテイメント・グループ[69]から企画とデザインの技術協力を得た一方、運営は子会社のサンリオ・コミュニケーション・ワールドが自前で担い、そのノウハウの不備が先に目立った。辻信太郎社長は、来園者がディズニーランドの感覚でアトラクション[70]に入りたがると反省を述べた。ハーモニーランドは休日に1万人近くを集めたものの、平日は2000人の目標を下回る日[71]がほとんどだった。
1990年3月末の評価損は75億円[72]に達したが、辻信太郎社長は日本経済新聞社のアンケートにこれからもどんどんやると回答し、他社の回答が縮小や中止ばかりだと知ったのはその後だった。株式を上場し転換社債も新株も発行して買ってほしいと言う以上、自分は株を買わないでは理屈が通らない[73]、というのが理由である。1600億円を1人では無理だとして[74]資金運用室に専門家を置き、辻信太郎社長自身も8割方に目を通していた。1992年3月期は約160億円の株式評価損で[75]、上場以来はじめての無配に転じる見込みとなった。株式運用は総資産の4割に達した[76]が、株式の持ち合いがあって一度保有した株は思い通りに売れない、と辻信太郎社長は述べた。財テクの失敗という評には、成功した会社はどこにもないと反論した[77]。
サンリオは1989年10月の定時株主総会で事業年度を4月1日から3月31日へ変更[78]し、1990年3月期は8か月の変則決算[79]となった。連結の最終損益は1991年3月期から1998年3月期まで8期続けて赤字となり[80]、1992年3月期の354億円と1995年3月期の240億円を含めて累計は1010億円に達した[81]。この間の連結売上高は1992年3月期の1314億円をピークに[82]、1996年3月期の968億円まで縮んだ。赤字が続くなかでも海外の販売網は広げ、1992年5月に台北、1994年4月に香港[83]、1998年7月に大韓民国へ子会社を設立[84]した。
サンリオは1997年3月に20代から30代の大人を狙った専門店を多店舗で開いた[85]。ハローキティの関連商品は1997年だけで3000点、市場規模は3000億円を超えたと、サンリオ商事部の大林佳幸課長[86]は見積もっている。買い手の中心は子供でなく大人で、ドラえもんやウルトラマンにも同じ現象[87]が起きた。連結売上高は1997年3月期の1073億円から1999年3月期には[88]1501億円へ伸び、最終損益も1999年3月期に51億円、2000年3月期に204億円の黒字[89]に転じた。
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|---|---|---|---|---|
| 1960〜1982年絹織物の仕入販売からキャラクタービジネス企業への転身 | 辻信太郎 | 山梨シルクセンターを設立 | ★ | |
| 辻信太郎 | ギフト商品の販売を開始 | ★★ | ||
| 辻信太郎 | 贈り物用の小型絵本「ギフトブック」シリーズを発刊、出版物の企画・販売を開始 | ★ | ||
| 辻信太郎 | グリーティングカードの企画販売を開始 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 商号をサンリオに変更 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 自社開発キャラクターのソーシャル・コミュニケーション・ギフト商品を発売 | ★★ | ||
| 辻信太郎 | ハローキティの誕生と、自社キャラクターを版権で稼ぐライセンスモデルの確立 1974年、前年に社名をサンリオへ改めた物販中心の同社が、社内デザイナーの手でハローキティを生み、自社キャラクターを商品に載せて売り、他社に使用を許すライセンス(版権)で稼ぐ収益モデルを確立した経営判断。1975年に最初の小物が売れ、1976年から自社キャラクターの版権供与を始めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 辻信太郎 | 自社キャラクターのライセンス供与を開始 | ★★ | ||
| 辻信太郎 | サンノゼにSanrio, Inc.を設立 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 東京証券取引所第2部に株式上場 | ★ | ||
| 1983〜2000年テーマパーク開園と財テクがもたらした代償 | 辻信太郎 | ココロを設立 | ★ | |
| 辻信太郎 | 複合文化施設運営会社サンリオ・コミュニケーション・ワールドを設立 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 「ハーモニーランド」運営会社ハーモニーランドの設立に出資 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 第29回定時株主総会で事業年度を4月1日〜翌3月31日に変更を決議 | ★ | ||
| 辻信太郎 | サンリオピューロランドを開園 | ★★ | ||
| 辻信太郎 | 株式投資に失敗。8期連続の最終赤字へ | ★★ | ||
| 辻信太郎 | 「ハーモニーランド」をオープン | ★ | ||
| 辻信太郎 | 高校生の間でハローキティがブーム。大幅増収へ | ★ | ||
| 2001〜2019年海外ライセンスへの転換と欧米事業の失速 | 辻信太郎 | 三麗鴎(上海)国際貿易有限公司を設立 | ★ | |
| 辻信太郎 | Sanrio Asia Merchandise Co., Ltd.を設立 | ★ | ||
| 辻信太郎 | Sanrio License GmbH(2011年1月にSanrio GmbHへ吸収合併)を設立 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 海外成長戦略を公表 | ★★ | ||
| 辻信太郎 | 3社のテーマパーク事業を会社分割しサンリオエンターテイメントを設立 | ★ | ||
| 辻信太郎 | サンリオピューロランド・ハーモニーランドを清算 | ★ | ||
| 辻信太郎 | Mister Men Ltd.・Mister Films Ltd.・THOIPの全株式を取得 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 鳩山玲人氏が退社 | ★ | ||
| 辻信太郎 | 辻家による経営に回帰 | ★★ | ||
| 辻信太郎 | 米国と欧州で不振 | ★ | ||
| 辻朋邦 | 創業者から孫への60年ぶりの世代承継と「第二の創業」による多キャラクター経営への転換 2020年7月、創業者の辻信太郎氏(92歳)が60年務めた社長を孫の辻朋邦氏(31歳)へ譲り、創業以来初のトップ交代に踏み切った経営判断。辻朋邦氏は『第二の創業』を掲げ、ハローキティ中心のライセンス経営を複数キャラクターの育成と海外ライセンスへ組み替えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 辻朋邦 | Avex Asia Pte. Ltd.と合弁会社SANRIO SOUTHEAST ASIA PTE. LTD.を設立 | ★ | ||
| 辻朋邦 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 辻朋邦 | 物販とテーマパークの需要回復。大幅増収へ | ★ |
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事実根拠:出所(サンリオ)