株式会社山梨シルクセンターを設立
山梨県庁の職員がワインと絹製品の輸出ビジネスに着眼
サンリオの創業者である辻信太郎氏は、山梨県庁の職員として保険料率の算出業務や県知事選の支援活動に携わっていた。この過程で山梨県の外郭団体「山梨シルクセンター」の業務に関わるようになり、山梨県の特産品であるワインや絹製品の海外輸出を手がけることになった。しかし県庁内部では行政に付随する外郭団体が民間企業のようなビジネスを行うことに対して反発の声が上がっていた。
辻信太郎氏は県庁を辞めて起業家に転進する道を選んだ。1960年8月に外郭団体の山梨シルクセンターを株式会社化する形で独立し、資本金100万円で会社を設立した。出資者には山梨県知事が5万円、副知事が5万円、商工会議所会頭が5万円を拠出しており、県職員時代に築いた人的ネットワークが資本政策に反映されていた。
山梨シルクセンター(現サンリオ)を独立起業
本社は山梨県ではなく東京日本橋の小舟町に置かれた。絹製品の輸出にあたっては問屋との取引が不可欠であり、東京日本橋の横山町には問屋街が形成されていたためである。山梨県の企業から商品として仕入れて問屋に販売するという卸売のポジションが祖業となった。辻信太郎氏は起業にあたりソニーを目標に据え、事務所に「ソニーに追いつけ追い越せ」と掲げたが、周囲の利害関係者はこの目標に対して懐疑的な見方を示した。
ところが創業直後に韓国向け絹製品「ブロケード」の輸出で500万円の不渡手形を掴んでしまい、創業資金が枯渇して倒産の危機に直面した。当時の従業員は辻社長を含めて5名であり、本社事務所を東京日本橋から秋葉原に移転するなどコスト削減を余儀なくされた。辻信太郎氏は日銭を確保するために、東京都内の百貨店の入口付近で地権者に無許可で雑貨を販売する物販に商売の軸足を移した。
百貨店前の路上販売からOEM供給で事業を軌道に乗せる
日本橋横山町の問屋価格と百貨店周辺の小売価格には約3倍のギャップが存在しており、辻信太郎氏はこの価格差に着目した。百貨店前での物販によって3ヶ月間で500万円の債務を完済し、倒産を回避することに成功した。なおこの時に販売した雑貨はサングラスや手袋、帽子、財布などであり、山梨県の特産品とは無関係の品目であった。
その後、サンリオはビーチサンダルのOEM販売に乗り出した。当時はビーチサンダルが普及し始めた時期であり、銀座の小売業「三愛」に対してOEMで供給することでまとまった収益を確保した。創業計画にあった山梨県特産品の輸出ではなく、雑貨販売とOEM供給によって事業を軌道に乗せる展開となった。辻氏は創業期の危機を乗り越えたことで業界内では「なかなかアイデアマンだ」との評判を得たとされる。