トミーの起源は1924年、初代・富山栄市郎氏が関東大震災で焼け野原となっていた東京で玩具屋を開いたことに遡る。[1]創業時の商号は富山玩具製作所で、『世界の友だち、日本のトミー』『われらの優良な商品で世界の市場をにぎわせよう』という創業者精神が後年まで経営理念として掲げられた。[2]当初はブリキを材料とした金属玩具を製造していたが、戦時中は平和産業である玩具の製造を止めるよう求められ事業を中止、[3]1953年1月、戦後玩具メーカーとして金属玩具の製造を行う合資会社三陽玩具製作所を改組して、三陽工業株式会社として東京都葛飾区立石に設立され再スタートを切った。[4]1959年3月には営業部門を分離独立[5]、販売子会社富山商事株式会社を設立し、製販分離による営業体制を整えた。
素材をいち早くブリキからプラスチックに切り替え、プラスチック玩具のトップメーカーとして成長を遂げた。[6]1961年10月、プラスチック・レールを使用した鉄道玩具『プラレール』を発売し、後の主力ブランドが誕生した。[7]1963年3月、三陽工業株式会社をトミー工業株式会社に、富山商事株式会社を株式会社トミーにそれぞれ商号変更した。[8]トミーという社名は米国で最もポピュラーな名前の一つであるトムの愛称に富山の語感を重ねたもので、改称の時点ですでに多国籍企業化の腹案があったと後年語られている。[9]1969年4月には東京都葛飾区立石に本社社屋を新築した。[10]
大手玩具問屋の下請けから脱皮して以来、トミーは自ら考え自ら作り自ら売る体制を守り続けた。1977年時点で商品開発本部は約100人の専門スタッフを抱え、同規模の玩具メーカーとしては異例の陣容だった。[11]創業者は商品開発こそ企業のいのちと言い切り、市場情報の収集と商品開発を分けた組織から年間30〜50点の新製品と、年100件を超える特許・実用新案・意匠登録の出願が生まれていた。[12]1976年度にはトミー工業・トミー・米国・香港・シンガポールの5社連結で250億6000万円を売り上げ、業界首位のバンダイグループと互角に競う位置まで来ていた。[13]
1970年8月、香港にTOMY (Hong Kong) Ltd.を設立し[14]、海外展開の最初の現地法人とした。当初は海外バイヤーへの輸出にとどまっていたが、それでは利益をバイヤーに吸い取られ現地の市場情報も入らないとして、リスクを負っても自ら市場を開拓する直接進出に踏み切った判断が背景にある。[15]1982年12月にはイギリスにTOMY UK Ltd.(現TOMY UK Co.,Ltd.)を設立して欧州拠点を確保。[16]1983年4月、東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加し、キャラクタービジネスを強化した。[17]
1970年創立のシンガポール子会社は同社唯一の海外一貫工場で、特恵関税の対象国という利点から100%自社工場として建設され、1979年度の売上高は2年前の倍以上に達する勢いにあった。[18]毎年8月か9月には世界各国の生産・販売拠点のトップが東京に集まる海外連絡会議を開き、特恵関税の有無や労賃・原材料価格を突き合わせて翌年の生産配分を決めていた。[19]一方、1976年7月に設立した西独子会社トミー・シュピールバーレンは、販路開拓の難しさから現地玩具会社との合弁に切り替えたものの、経営を委ねた相手の販売力と財務が伴わず1979年3月に合弁を解消し、香港・シンガポールからの輸入品販売に絞り直した。[20]事前調査の甘さが招いた曲折だった。[21]
1985年9月のフランス TOMY France SARL.、[22]1987年10月のタイ TOMY (Thailand) Ltd.、[23]1988年2月の株式会社ユージン(現株式会社タカラトミーアーツ)設立でカプセル玩具・キャラクター事業の母体を整え、[24]1996年3月には株式会社トミーテックを設立して鉄道模型・ホビー事業の中核も追加した。[25]タイ工場は円高後により労働コストの安い生産地を求めた工場再編の一環で、1988年4月から稼働している。[26]海外拠点は生産と販売で役割を分け、日本本社は企画と開発を担う分業が定着した。[27]
1982年に発売したコンピューターゲーム『ぴゅう太』は、5億円の資金と30名の人材を投じた独自開発だったが、パソコン的な機能を追いすぎて遊びか実用かどちらつかずとなり、1983年に任天堂のファミリーコンピュータが1万4800円で登場すると歯が立たず生産中止に追い込まれた。[28]この失敗が尾を引き、トミー工業は業界トップの座を滑り落ちる。[29]1983年にはグループのCIを変更して『たのしい遊びのクリエーター』を新たなスローガンに掲げ、子供だけを客とする発想を改めた。[30]1984年10月発売の家庭用ロボット『オムニボット』は3万9600円という玩具として異例の価格ながら大人に売れ、翌年8月までに輸出を含め約20万台を数えた。[31]
1984年2月期には営業利益が赤字に転落し、そこへ1985年9月のプラザ合意が追い打ちをかけた。2年で対ドル120円へ急騰した円は、輸出の6割を占める北米向けを一気に冷え込ませる。[32]円安に戻った1980年代前半に海外シフトの手を緩め、1980年に栃木事業所を新設して日本を再び輸出基地とした選択が、輸出が止まれば国内生産能力の半分が過剰になる構図を生んでいた。[33]当時副社長だった富山幹太郎氏を軸に再建委員会が設けられ、1986年11月に東京・流山の2事業所を閉鎖、長期パートを含め約1000名の従業員のうち600名の希望退職を募り、役員も18名中12名が退任した。[34]
1987年1月、2代目の富山允就社長が会長に退き、副社長だった長男の富山幹太郎氏が33歳で社長に就任、番頭格の取締役も退いて世代交代が行われた。[35]同月、円高で採算の悪化した米国・カナダの販売会社は、トミー商品の販売権ごと米国第3位の玩具メーカー、コレコ社へ譲渡された。[36]そのコレコ社が1988年7月に会社更生法を申請したため契約を改定し、1989年1月から新現地法人トミー・アメリカで自社販売を再開している。[37]1988年9月には栃木・壬生の両事業所を分離して栃木トミー工業とし、トミー工業本体は製造部門を持たない企業に変わった。[38]1988年2月期は売上高216億円・営業利益5億5000万円で黒字に復し、[39]1989年3月には販売子会社トミーと合併して、市場のニーズに基づく商品開発へ人員を振り向けた。[40]
一連の再編を経て、製造主体の本社は企画・開発・販売主体の本社へと姿を変えた。プラザ合意の当時は国内に4工場・1,100名を抱え売上の過半が輸出だったが、以後の10年で収益構造も従業員の意識も仕事のやり方も入れ替えたと富山幹太郎氏は振り返っている。[41][42]1997年時点では、プラレール(38年目)・トミカ(27年目)・トミックス(21年目)といった息の長い定番商品と、ウォルト・ディズニー社等とのキャラクター契約による年間40〜50億円の取り扱いが、流行の浮き沈みが激しい玩具業界にあって売上の約半分を支えていた。[43]
1997年9月、日本証券業協会に株式を店頭登録し、[44]公募増資で得た資金と利益で短期借入金などを圧縮した。[45]同じ年、任天堂発の『ポケットモンスター』関連商品が社会現象となり、3歳から20代の勤め人まで広がる客層をつかんで、1998年3月期は売上高430億円・経常利益26億円の大幅増収増益を見込むまでになった。[46]1998年2月には米国 TOMY Corporation を設立して北米市場展開の拠点を整え、[47]同年11月には米国ハスブロ社より同社およびグループ商品の日本における独占的販売権を取得した。[48]トランスフォーマー等の海外大手キャラクター商品の国内独占輸入権を獲得し、後年のディズニーライセンスと並ぶ独自チャネルの基盤となった。
1999年3月、創業75周年の節目に東京証券取引所市場第二部へ上場し、[49][50]2000年3月には東証一部指定で東証本則市場入りを完了した。[51]同年12月にはウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパンと国内トイ市場における包括的ライセンス契約を締結[52]し、ディズニー商品の国内トイ展開を独占的に獲得した。1998年11月のハスブロ独占販売権と2000年12月のディズニー国内トイ独占ライセンスが組み合わさり、海外大手キャラクター商品の国内独占チャネルを保有する事業構造を整えた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/7867/manifest.json https://the-shashi.com/api/7867/history.json https://the-shashi.com/api/7867/timeline.json https://the-shashi.com/api/7867/executives.json https://the-shashi.com/api/7867/shareholders.json https://the-shashi.com/api/7867/financials.json https://the-shashi.com/api/7867/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/7867/segments.json https://the-shashi.com/api/7867/regions.json https://the-shashi.com/api/7867/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1953〜1981年創業期 ─ 三陽工業の設立からプラレール発売と海外一貫生産まで | 三陽玩具製作所を改組して、三陽工業を設立 | ★ | ||
| 営業部門を分離独立、販売子会社富山商事を設立 | ★ | |||
| プラスチック・レールを使用した鉄道玩具「プラレール」を発売 | ★★ | |||
| 三陽工業をトミー工業に、富山商事をトミーに、それぞれ商号変更 | ★ | |||
| 本社社屋を新築 | ★ | |||
| TOMY (Hong Kong) Ltd.を設立 | ★ | |||
| 本社ビル本館を新築 | ★ | |||
| 「自分で作ったものは自分で売る」——直接進出によるミニ多国籍企業化 1970年代を通じて、トミー工業(現タカラトミー)が輸出をバイヤーに委ねる商法から脱し、香港・シンガポール・米国・西独へ自前の現地法人を設けて『ミニ多国籍企業』を築いた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1982〜2000年再編期 ─ 円高不況の工場閉鎖から東証一部上場とハスブロ独占販売権まで | TOMY UK Ltd.を設立 | ★ | ||
| 東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加 | ★ | |||
| 円高危機からの「第2幕」——2工場閉鎖と製造分社によるトミー工業の経営再編 1986年から1989年にかけて、トミー工業(現タカラトミー)がプラザ合意後の急激な円高で悪化した業績を立て直すため、国内2工場の閉鎖と大量の希望退職、製造部門の分社化、経営陣の世代交代を一気に進めた経営再編。1987年1月には副社長の富山幹太郎氏が33歳で社長に就き、製造主体の会社から企画・開発・販売主体の会社への転換に着手した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 富山幹太郎 | ユージンを設立 | ★ | ||
| 富山幹太郎 | 販売子会社旧トミーを吸収合併、同時に商号をトミーに変更 | ★ | ||
| 富山幹太郎 | シンガポール生産からの撤退——好調なうちに畳み、技術拠点へ転換する 1991年から1992年にかけて、玩具大手のトミー(現タカラトミー)が、20年近く続けたシンガポールでの玩具生産を中止した経営判断。完全撤退ではなく、約4000万円を投じて設計・技術指導の拠点へ転換し、解雇した従業員の一部を再雇用して新会社として再出発することで、アジアで摩擦を生みやすい撤退を混乱なく着地させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 富山幹太郎 | トミーテックを設立 | ★ | ||
| 富山幹太郎 | 日本証券業協会に株式を店頭登録 | ★ | ||
| 富山幹太郎 | TOMY Corporationを設立 | ★ | ||
| 富山幹太郎 | ハスブロ社より同社・同社グループ商品の日本における独占的販売権を取得 | ★★ | ||
| 富山幹太郎 | ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパンとライセンス契約を締結 | ★ | ||
| 2001〜2014年拡大期 ─ タカラ・トミー合併(2006年)とTPG提携による海外展開 | 富山幹太郎 | タカラと合併 | ★★ | |
| 富山幹太郎 | タカラトミーに商号変更 | ★ | ||
| 富山幹太郎 | TPGとの戦略的資本・事業提携を発表 | ★★ | ||
| 富山幹太郎 | インデックス・HDとの業務提携を発表・第三者割当増資を引受け | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(タカラトミー)