タカラトミー の歴史

更新: Author:

創業 1953年
創業者 富山栄市郎
創業地 東京都葛飾区
創業
1924年、富山栄市郎氏が関東大震災で焼けた東京で富山玩具製作所を創業した。1953年に三陽工業を設立して法人の形を整え、素材をブリキからプラスチックへいち早く切り替えている。1961年10月、プラスチック製の線路をつなぐ鉄道玩具『プラレール』を発売し、のちの主力ブランドとなった。大手問屋の下請けから離れて以降、トミーは自ら考え自ら作り自ら売る体制を守り、1977年時点の商品開発本部は約100人の専門スタッフを抱えている。ただし作る機能を国内に置いたまま売上の過半を輸出に依存したことが、次の10年で為替の影響を全面に受ける原因となった。
決断
自ら作って自ら売る体制から、作る側を先に手放した。1970年に香港へ現地法人を置いたのを起点に、1977年からは各国へ自社の販売会社を直接置いた。バイヤーに利益を吸い上げられ現地の情報も入らない輸出をやめ、香港・シンガポール・米国・西独へ自社の拠点を並べている。1985年のプラザ合意で2年のうちに対ドル120円まで円が急騰すると、輸出の6割を占めた北米向けが冷え込んだ。1986年、2工場を閉鎖して製造部門を分社し、翌1987年1月には33歳の富山幹太郎氏が社長へ就任する。1991年11月には好調なうちにシンガポール生産から撤退した。工場を離した本社に残った企画・開発・販売の機能が、1998年のハスブロ、2000年のディズニーと他社の商品を国内で独占して扱う立場を可能にした。
現況
利益は日本の1地域がほぼ全部を作っている。2026年3月期の連結売上高は2,705億円、営業利益は242億円である。地域別のセグメント利益311億円のうち日本が283億円を占め、その売上高2,104億円は全体の8割弱にあたる。海外はアジアが売上190億円・利益21億円と収益を出す一方、アメリカズは売上304億円に対し利益6億円にとどまり、49億円の減損損失を計上した。欧州も3億円の赤字である。2024年6月、約30年にわたり代表を務めた富山幹太郎氏が名誉会長へ退任し、創業家第二世代の富山彰夫氏が社長へ就任した。同年5月に掲げた『中長期経営戦略2030』は2030年3月期の売上高3,000億円・営業利益300億円を置いており、その伸びしろは利益を出せていない海外側にある。
競合
バンダイナムコは作品を回し、タカラトミーは商品を売り直している。バンダイナムコは2005年にナムコと経営統合し、一つのキャラクターを玩具からゲーム、映像まで横断して回す設計へ寄せている。タカラトミーは2006年にタカラと合併しながら、収益はトミカ・プラレール・リカちゃんという自社ブランドと、1998年に取得したハスブロ商品の独占販売権に置いた。国内の年間出生数は2015年の100万人超から2024年に70万人弱へ約3割減っている。子どもの数が減る速さより速く1人あたりの単価を上げるほかなく、55年もののトミカを大人へ売り直すことが次の成長の条件になった。
タカラトミー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 創業期 ─ 三陽工業の設立からプラレール発売と海外一貫生産まで (1953年〜)

三陽工業の設立とプラレールの誕生

トミーの起源は1924年、初代・富山栄市郎氏が関東大震災で焼け野原となっていた東京で玩具屋を開いたことに遡る。[1]創業時の商号は富山玩具製作所で、『世界の友だち、日本のトミー』『われらの優良な商品で世界の市場をにぎわせよう』という創業者精神が後年まで経営理念として掲げられた。[2]当初はブリキを材料とした金属玩具を製造していたが、戦時中は平和産業である玩具の製造を止めるよう求められ事業を中止、[3]1953年1月、戦後玩具メーカーとして金属玩具の製造を行う合資会社三陽玩具製作所を改組して、三陽工業株式会社として東京都葛飾区立石に設立され再スタートを切った。[4]1959年3月には営業部門を分離独立[5]、販売子会社富山商事株式会社を設立し、製販分離による営業体制を整えた。

    • [1]大正13年(1924年) 初代・富山栄市郎氏が関東大震災で焼け野原となっていた東京で玩具屋を開いたのが始まり
    • [3]創業当初はブリキを材料とした金属玩具を製造、戦時中は平和産業である玩具の製造中止を求められ事業を中止
    • [2]創業時の商号は富山玩具製作所(大正13年創業)、創業者精神は「世界の友だち、日本のトミー」「われらの優良な商品で世界の市場をにぎわせよう」「誠意と努力は他を益し、自己の幸福の基となる」
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1953年1月 合資会社三陽玩具製作所を改組し三陽工業株式会社を東京都葛飾区立石に設立(戦後玩具メーカーとしての出発点、事業再スタート)
    • [5]1959年3月 営業部門を分離独立し販売子会社富山商事株式会社を設立(製販分離)

素材をいち早くブリキからプラスチックに切り替え、プラスチック玩具のトップメーカーとして成長を遂げた。[6]1961年10月、プラスチック・レールを使用した鉄道玩具『プラレール』を発売し、後の主力ブランドが誕生した。[7]1963年3月、三陽工業株式会社をトミー工業株式会社に、富山商事株式会社を株式会社トミーにそれぞれ商号変更した。[8]トミーという社名は米国で最もポピュラーな名前の一つであるトムの愛称に富山の語感を重ねたもので、改称の時点ですでに多国籍企業化の腹案があったと後年語られている。[9]1969年4月には東京都葛飾区立石に本社社屋を新築した。[10]

    • [6]素材をいち早くプラスチックに切り替え、プラスチック玩具のトップメーカーとして成長(社長本人談)
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1961年10月 鉄道玩具「プラレール」を発売(後の主力ブランド)
    • [8]1963年3月 三陽工業㈱→トミー工業㈱、富山商事㈱→㈱トミーへ商号変更
    • [10]1969年4月 東京都葛飾区立石に本社社屋を新築
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [9]社名「トミー」は米国で最もポピュラーな名前の一つトムの愛称に富山の語感を重ねたもので、改称時点でミニ多国籍企業化の腹案を持っていた

大手玩具問屋の下請けから脱皮して以来、トミーは自ら考え自ら作り自ら売る体制を守り続けた。1977年時点で商品開発本部は約100人の専門スタッフを抱え、同規模の玩具メーカーとしては異例の陣容だった。[11]創業者は商品開発こそ企業のいのちと言い切り、市場情報の収集と商品開発を分けた組織から年間30〜50点の新製品と、年100件を超える特許・実用新案・意匠登録の出願が生まれていた。[12]1976年度にはトミー工業・トミー・米国・香港・シンガポールの5社連結で250億6000万円を売り上げ、業界首位のバンダイグループと互角に競う位置まで来ていた。[13]

  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [11]1977年時点で商品開発本部は約100人のスタッフを擁し、同社程度の規模で商品開発専門スタッフを100人置くのは珍しいと評された
    • [12]富山栄次郎会長は「商品開発こそ企業のいのち」と言明、開発本部から年間30〜50点の新製品、特許・実用新案・意匠登録申請は毎年100件以上
    • [13]1976年度のトミーグループ連結売上高は250億6000万円(トミー工業・トミー・トミーコーポレーション・トミー香港・トミーシンガポールの5社)
    • [1]大正13年(1924年) 初代・富山栄市郎氏が関東大震災で焼け野原となっていた東京で玩具屋を開いたのが始まり
    • [3]創業当初はブリキを材料とした金属玩具を製造、戦時中は平和産業である玩具の製造中止を求められ事業を中止
    • [6]素材をいち早くプラスチックに切り替え、プラスチック玩具のトップメーカーとして成長(社長本人談)
    • [2]創業時の商号は富山玩具製作所(大正13年創業)、創業者精神は「世界の友だち、日本のトミー」「われらの優良な商品で世界の市場をにぎわせよう」「誠意と努力は他を益し、自己の幸福の基となる」
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1953年1月 合資会社三陽玩具製作所を改組し三陽工業株式会社を東京都葛飾区立石に設立(戦後玩具メーカーとしての出発点、事業再スタート)
    • [5]1959年3月 営業部門を分離独立し販売子会社富山商事株式会社を設立(製販分離)
    • [7]1961年10月 鉄道玩具「プラレール」を発売(後の主力ブランド)
    • [8]1963年3月 三陽工業㈱→トミー工業㈱、富山商事㈱→㈱トミーへ商号変更
    • [10]1969年4月 東京都葛飾区立石に本社社屋を新築
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [9]社名「トミー」は米国で最もポピュラーな名前の一つトムの愛称に富山の語感を重ねたもので、改称時点でミニ多国籍企業化の腹案を持っていた
    • [11]1977年時点で商品開発本部は約100人のスタッフを擁し、同社程度の規模で商品開発専門スタッフを100人置くのは珍しいと評された
    • [12]富山栄次郎会長は「商品開発こそ企業のいのち」と言明、開発本部から年間30〜50点の新製品、特許・実用新案・意匠登録申請は毎年100件以上
    • [13]1976年度のトミーグループ連結売上高は250億6000万円(トミー工業・トミー・トミーコーポレーション・トミー香港・トミーシンガポールの5社)

海外進出と東京ディズニーランドスポンサー参加

1970年8月、香港にTOMY (Hong Kong) Ltd.を設立し[14]、海外展開の最初の現地法人とした。当初は海外バイヤーへの輸出にとどまっていたが、それでは利益をバイヤーに吸い取られ現地の市場情報も入らないとして、リスクを負っても自ら市場を開拓する直接進出に踏み切った判断が背景にある。[15]1982年12月にはイギリスにTOMY UK Ltd.(現TOMY UK Co.,Ltd.)を設立して欧州拠点を確保。[16]1983年4月、東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加し、キャラクタービジネスを強化した。[17]

  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1970年8月 香港にTOMY (Hong Kong) Ltd.を設立(海外展開の最初の現地法人)
    • [16]1982年12月 イギリスにTOMY UK Ltd.(現TOMY UK Co.,Ltd.)を設立(欧州拠点)
    • [17]1983年4月 東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加(キャラクタービジネス強化の起点)
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [15]当初はバイヤーへの輸出にとどまっていたが、利益をバイヤーに吸い取られ現地の市場情報も入手できないため「リスクは大きくても、自ら市場を開拓しない限り、飛躍は望めない」として直接進出に転換

1970年創立のシンガポール子会社は同社唯一の海外一貫工場で、特恵関税の対象国という利点から100%自社工場として建設され、1979年度の売上高は2年前の倍以上に達する勢いにあった。[18]毎年8月か9月には世界各国の生産・販売拠点のトップが東京に集まる海外連絡会議を開き、特恵関税の有無や労賃・原材料価格を突き合わせて翌年の生産配分を決めていた。[19]一方、1976年7月に設立した西独子会社トミー・シュピールバーレンは、販路開拓の難しさから現地玩具会社との合弁に切り替えたものの、経営を委ねた相手の販売力と財務が伴わず1979年3月に合弁を解消し、香港・シンガポールからの輸入品販売に絞り直した。[20]事前調査の甘さが招いた曲折だった。[21]

  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [18]シンガポール・トミー工業は1970年創立、特恵関税の対象国という利点から100%自社工場として建設された同社唯一の海外一貫工場で、売上高は1977年度1400万ドルから1979年度3000万ドル(シンガポールドル)へ拡大見通し
    • [19]毎年8月か9月に世界各国の生産・販売拠点トップが東京本社に集まる「海外連絡会議」で翌年の生産・販売計画を決定、特恵関税・労賃・原材料価格を勘案して生産配分を決めた
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [20]1976年7月に西独子会社トミー・シュピールバーレンを独力で設立するも販路開拓の難しさから翌年ステレコ社との合弁に切り替え、1979年3月に合弁解消・現地生産停止、香港・シンガポールからの輸入品販売に集中
    • [21]西独進出の困難はパートナー選びを含むフィージビリティ・スタディの甘さに帰されると総括された

1985年9月のフランス TOMY France SARL.、[22]1987年10月のタイ TOMY (Thailand) Ltd.、[23]1988年2月の株式会社ユージン(現株式会社タカラトミーアーツ)設立でカプセル玩具・キャラクター事業の母体を整え、[24]1996年3月には株式会社トミーテックを設立して鉄道模型・ホビー事業の中核も追加した。[25]タイ工場は円高後により労働コストの安い生産地を求めた工場再編の一環で、1988年4月から稼働している。[26]海外拠点は生産と販売で役割を分け、日本本社は企画と開発を担う分業が定着した。[27]

  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1985年9月 フランスにTOMY France SARL.を設立
    • [23]1987年10月 タイにTOMY (Thailand) Ltd.を設立
    • [24]1988年2月 株式会社ユージン(現株式会社タカラトミーアーツ)を設立(カプセル玩具・キャラクター事業の母体)
    • [25]1996年3月 株式会社トミーテックを設立(鉄道模型・ホビー事業の中核)
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [26]労働コストの安いタイに着目し1988年4月からの工場稼働に向けて手を打った(円高後の工場再編の一環)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [27]生産拠点を香港・シンガポール・台湾など労働力の安い地域に、販売拠点を西ドイツ・米国に置き、日本本社の役割は玩具の企画・開発にほぼ限定されていた
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1970年8月 香港にTOMY (Hong Kong) Ltd.を設立(海外展開の最初の現地法人)
    • [16]1982年12月 イギリスにTOMY UK Ltd.(現TOMY UK Co.,Ltd.)を設立(欧州拠点)
    • [17]1983年4月 東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加(キャラクタービジネス強化の起点)
    • [22]1985年9月 フランスにTOMY France SARL.を設立
    • [23]1987年10月 タイにTOMY (Thailand) Ltd.を設立
    • [24]1988年2月 株式会社ユージン(現株式会社タカラトミーアーツ)を設立(カプセル玩具・キャラクター事業の母体)
    • [25]1996年3月 株式会社トミーテックを設立(鉄道模型・ホビー事業の中核)
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
    • [15]当初はバイヤーへの輸出にとどまっていたが、利益をバイヤーに吸い取られ現地の市場情報も入手できないため「リスクは大きくても、自ら市場を開拓しない限り、飛躍は望めない」として直接進出に転換
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [18]シンガポール・トミー工業は1970年創立、特恵関税の対象国という利点から100%自社工場として建設された同社唯一の海外一貫工場で、売上高は1977年度1400万ドルから1979年度3000万ドル(シンガポールドル)へ拡大見通し
    • [19]毎年8月か9月に世界各国の生産・販売拠点トップが東京本社に集まる「海外連絡会議」で翌年の生産・販売計画を決定、特恵関税・労賃・原材料価格を勘案して生産配分を決めた
    • [27]生産拠点を香港・シンガポール・台湾など労働力の安い地域に、販売拠点を西ドイツ・米国に置き、日本本社の役割は玩具の企画・開発にほぼ限定されていた
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
    • [20]1976年7月に西独子会社トミー・シュピールバーレンを独力で設立するも販路開拓の難しさから翌年ステレコ社との合弁に切り替え、1979年3月に合弁解消・現地生産停止、香港・シンガポールからの輸入品販売に集中
    • [21]西独進出の困難はパートナー選びを含むフィージビリティ・スタディの甘さに帰されると総括された
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [26]労働コストの安いタイに着目し1988年4月からの工場稼働に向けて手を打った(円高後の工場再編の一環)

円高不況と工場閉鎖、トミー工業の再編

1982年に発売したコンピューターゲーム『ぴゅう太』は、5億円の資金と30名の人材を投じた独自開発だったが、パソコン的な機能を追いすぎて遊びか実用かどちらつかずとなり、1983年に任天堂のファミリーコンピュータが1万4800円で登場すると歯が立たず生産中止に追い込まれた。[28]この失敗が尾を引き、トミー工業は業界トップの座を滑り落ちる。[29]1983年にはグループのCIを変更して『たのしい遊びのクリエーター』を新たなスローガンに掲げ、子供だけを客とする発想を改めた。[30]1984年10月発売の家庭用ロボット『オムニボット』は3万9600円という玩具として異例の価格ながら大人に売れ、翌年8月までに輸出を含め約20万台を数えた。[31]

  • 日経ビジネス 1985年10月28日号
    • [28]1982年発売のコンピューターゲーム「ぴゅう太」は開発に5億円・30名を投入したが1982年内3万台・1983年2万4000台にとどまり生産中止、1983年発売の任天堂ファミリーコンピュータ(1万4800円)に歯が立たなかった
    • [29]「ぴゅう太」の失敗が尾を引きトミー工業は業界トップの座を滑り落ちた
    • [30]1983年にトミーグループのCIを変更し「たのしい遊びのクリエーター」を新スローガンに採用、シンボルマークもロゴタイプ主体に変更して“子供離れ”に踏み出した
    • [31]1984年10月発売のハイテクロボット「オムニボット」は小売価格3万9600円ながら1985年8月末までに国内3万2000台・輸出を含め約20万台を販売

1984年2月期には営業利益が赤字に転落し、そこへ1985年9月のプラザ合意が追い打ちをかけた。2年で対ドル120円へ急騰した円は、輸出の6割を占める北米向けを一気に冷え込ませる。[32]円安に戻った1980年代前半に海外シフトの手を緩め、1980年に栃木事業所を新設して日本を再び輸出基地とした選択が、輸出が止まれば国内生産能力の半分が過剰になる構図を生んでいた。[33]当時副社長だった富山幹太郎氏を軸に再建委員会が設けられ、1986年11月に東京・流山の2事業所を閉鎖、長期パートを含め約1000名の従業員のうち600名の希望退職を募り、役員も18名中12名が退任した。[34]

  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [32]1984年2月期に営業利益が赤字転落、1985年9月のプラザ合意で2年のうちに対ドル240円から120円へ急騰し輸出の6割を占める北米向けが一気に冷え込んだ
    • [33]1980年代前半の円安局面で海外シフトを緩め1980年に栃木事業所を新設して日本を再び輸出基地とした結果、1985年の円高直前には国内生産の50%を輸出に振り向け、輸出が止まれば国内生産能力の半分が過剰になる構図に陥っていた
    • [34]富山幹太郎副社長を軸に再建委員会を設置、1986年11月に東京事業所・流山事業所の2工場を閉鎖し、長期パートを含む約1000名のうち600名の希望退職を募集、役員も18名中12名が退任

1987年1月、2代目の富山允就社長が会長に退き、副社長だった長男の富山幹太郎氏が33歳で社長に就任、番頭格の取締役も退いて世代交代が行われた。[35]同月、円高で採算の悪化した米国・カナダの販売会社は、トミー商品の販売権ごと米国第3位の玩具メーカー、コレコ社へ譲渡された。[36]そのコレコ社が1988年7月に会社更生法を申請したため契約を改定し、1989年1月から新現地法人トミー・アメリカで自社販売を再開している。[37]1988年9月には栃木・壬生の両事業所を分離して栃木トミー工業とし、トミー工業本体は製造部門を持たない企業に変わった。[38]1988年2月期は売上高216億円・営業利益5億5000万円で黒字に復し、[39]1989年3月には販売子会社トミーと合併して、市場のニーズに基づく商品開発へ人員を振り向けた。[40]

  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [35]1987年1月 2代目の富山允就社長が会長に退き、副社長だった長男の富山幹太郎氏が33歳で社長に就任、番頭格の取締役も退いて世代交代
    • [36]1987年1月 円高で採算が悪化した米国・カナダの販売会社をトミー商品の販売権ごと米国第3位の玩具メーカー、コレコ社へ譲渡
    • [37]コレコ社が1988年7月に会社更生法を申請、1988年2月に契約を改定し1989年1月から新現地法人トミー・アメリカで自社製品の販売を再開
    • [38]1988年9月 栃木事業所と壬生事業所を本社から分離して栃木トミー工業として独立させ、トミー工業本体は製造部門を持たない企業となった
    • [39]1988年2月期 売上高216億円(前年比約3%増)・営業利益5億5000万円で黒字化
    • [40]1989年3月 国内販売子会社「トミー」と合併、市場ニーズに基づく商品開発に人員を振り向ける狙い
  • 日経ビジネス 1985年10月28日号
    • [28]1982年発売のコンピューターゲーム「ぴゅう太」は開発に5億円・30名を投入したが1982年内3万台・1983年2万4000台にとどまり生産中止、1983年発売の任天堂ファミリーコンピュータ(1万4800円)に歯が立たなかった
    • [29]「ぴゅう太」の失敗が尾を引きトミー工業は業界トップの座を滑り落ちた
    • [30]1983年にトミーグループのCIを変更し「たのしい遊びのクリエーター」を新スローガンに採用、シンボルマークもロゴタイプ主体に変更して“子供離れ”に踏み出した
    • [31]1984年10月発売のハイテクロボット「オムニボット」は小売価格3万9600円ながら1985年8月末までに国内3万2000台・輸出を含め約20万台を販売
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [32]1984年2月期に営業利益が赤字転落、1985年9月のプラザ合意で2年のうちに対ドル240円から120円へ急騰し輸出の6割を占める北米向けが一気に冷え込んだ
    • [33]1980年代前半の円安局面で海外シフトを緩め1980年に栃木事業所を新設して日本を再び輸出基地とした結果、1985年の円高直前には国内生産の50%を輸出に振り向け、輸出が止まれば国内生産能力の半分が過剰になる構図に陥っていた
    • [34]富山幹太郎副社長を軸に再建委員会を設置、1986年11月に東京事業所・流山事業所の2工場を閉鎖し、長期パートを含む約1000名のうち600名の希望退職を募集、役員も18名中12名が退任
    • [35]1987年1月 2代目の富山允就社長が会長に退き、副社長だった長男の富山幹太郎氏が33歳で社長に就任、番頭格の取締役も退いて世代交代
    • [36]1987年1月 円高で採算が悪化した米国・カナダの販売会社をトミー商品の販売権ごと米国第3位の玩具メーカー、コレコ社へ譲渡
    • [37]コレコ社が1988年7月に会社更生法を申請、1988年2月に契約を改定し1989年1月から新現地法人トミー・アメリカで自社製品の販売を再開
    • [38]1988年9月 栃木事業所と壬生事業所を本社から分離して栃木トミー工業として独立させ、トミー工業本体は製造部門を持たない企業となった
    • [39]1988年2月期 売上高216億円(前年比約3%増)・営業利益5億5000万円で黒字化
    • [40]1989年3月 国内販売子会社「トミー」と合併、市場ニーズに基づく商品開発に人員を振り向ける狙い

東証一部上場とハスブロ独占販売権

一連の再編を経て、製造主体の本社は企画・開発・販売主体の本社へと姿を変えた。プラザ合意の当時は国内に4工場・1,100名を抱え売上の過半が輸出だったが、以後の10年で収益構造も従業員の意識も仕事のやり方も入れ替えたと富山幹太郎氏は振り返っている。[41][42]1997年時点では、プラレール(38年目)・トミカ(27年目)・トミックス(21年目)といった息の長い定番商品と、ウォルト・ディズニー社等とのキャラクター契約による年間40〜50億円の取り扱いが、流行の浮き沈みが激しい玩具業界にあって売上の約半分を支えていた。[43]

    • [41]昭和60年(1985年)のプラザ合意による急激な円高で輸出の価格競争力を喪失、当時は国内に4工場・1,100名を抱え売上の過半が輸出だった
    • [42]以後10年間で製造主体の本社から企画・開発・販売主体の本社へ事業構造を転換
    • [43]1997年時点でプラレール38年目・トミカ27年目・トミックス21年目、ディズニー社等とのキャラクター契約で年間40〜50億円、定番商品の合計は170億円弱で売上の約50%

1997年9月、日本証券業協会に株式を店頭登録し、[44]公募増資で得た資金と利益で短期借入金などを圧縮した。[45]同じ年、任天堂発の『ポケットモンスター』関連商品が社会現象となり、3歳から20代の勤め人まで広がる客層をつかんで、1998年3月期は売上高430億円・経常利益26億円の大幅増収増益を見込むまでになった。[46]1998年2月には米国 TOMY Corporation を設立して北米市場展開の拠点を整え、[47]同年11月には米国ハスブロ社より同社およびグループ商品の日本における独占的販売権を取得した。[48]トランスフォーマー等の海外大手キャラクター商品の国内独占輸入権を獲得し、後年のディズニーライセンスと並ぶ独自チャネルの基盤となった。

  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1997年9月 日本証券業協会に株式を店頭登録
    • [47]1998年2月 米国TOMY Corporationを設立(北米市場展開の拠点)
    • [48]1998年11月 米国ハスブロ社より同社およびグループ商品の日本における独占的販売権を取得
    • [45]株式公開に際しての公募増資による資金と利益で短期借入金14億7,000万円・1年以内返済予定長期借入金4億8,600万円を返済
    • [46]1997年度のポケットモンスター関連商品は3歳から28〜29歳のOLまで幅広い年齢層に受け入れられ、1998年3月期は売上高430億円(前期比28.6%増)・経常利益26億円(同42.0%増)を見込むと社長が説明

1999年3月、創業75周年の節目に東京証券取引所市場第二部へ上場し、[49][50]2000年3月には東証一部指定で東証本則市場入りを完了した。[51]同年12月にはウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパンと国内トイ市場における包括的ライセンス契約を締結[52]し、ディズニー商品の国内トイ展開を独占的に獲得した。1998年11月のハスブロ独占販売権と2000年12月のディズニー国内トイ独占ライセンスが組み合わさり、海外大手キャラクター商品の国内独占チャネルを保有する事業構造を整えた。

  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1999年3月 東京証券取引所市場第二部に上場
    • [51]2000年3月 東京証券取引所市場第一部に指定(東証一部)
    • [52]2000年12月 ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン㈱と国内トイ市場の包括的ライセンス契約を締結
    • [50]1999年(平成11年3月15日上場)は創業75周年の節目に当たり、その年に東証二部上場を果たしたと社長が挨拶
    • [41]昭和60年(1985年)のプラザ合意による急激な円高で輸出の価格競争力を喪失、当時は国内に4工場・1,100名を抱え売上の過半が輸出だった
    • [42]以後10年間で製造主体の本社から企画・開発・販売主体の本社へ事業構造を転換
    • [43]1997年時点でプラレール38年目・トミカ27年目・トミックス21年目、ディズニー社等とのキャラクター契約で年間40〜50億円、定番商品の合計は170億円弱で売上の約50%
  • タカラトミー 有価証券報告書 第74期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1997年9月 日本証券業協会に株式を店頭登録
    • [47]1998年2月 米国TOMY Corporationを設立(北米市場展開の拠点)
    • [48]1998年11月 米国ハスブロ社より同社およびグループ商品の日本における独占的販売権を取得
    • [49]1999年3月 東京証券取引所市場第二部に上場
    • [51]2000年3月 東京証券取引所市場第一部に指定(東証一部)
    • [52]2000年12月 ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン㈱と国内トイ市場の包括的ライセンス契約を締結
    • [45]株式公開に際しての公募増資による資金と利益で短期借入金14億7,000万円・1年以内返済予定長期借入金4億8,600万円を返済
    • [46]1997年度のポケットモンスター関連商品は3歳から28〜29歳のOLまで幅広い年齢層に受け入れられ、1998年3月期は売上高430億円(前期比28.6%増)・経常利益26億円(同42.0%増)を見込むと社長が説明
    • [50]1999年(平成11年3月15日上場)は創業75周年の節目に当たり、その年に東証二部上場を果たしたと社長が挨拶

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

タカラトミーの沿革1953〜2008年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1953〜1981年創業期 ─ 三陽工業の設立からプラレール発売と海外一貫生産まで三陽玩具製作所を改組して、三陽工業を設立
営業部門を分離独立、販売子会社富山商事を設立
プラスチック・レールを使用した鉄道玩具「プラレール」を発売★★
三陽工業をトミー工業に、富山商事をトミーに、それぞれ商号変更
本社社屋を新築
TOMY (Hong Kong) Ltd.を設立
本社ビル本館を新築
「自分で作ったものは自分で売る」——直接進出によるミニ多国籍企業化

1970年代を通じて、トミー工業(現タカラトミー)が輸出をバイヤーに委ねる商法から脱し、香港・シンガポール・米国・西独へ自前の現地法人を設けて『ミニ多国籍企業』を築いた経営判断。

詳細を読む
★★★
1982〜2000年再編期 ─ 円高不況の工場閉鎖から東証一部上場とハスブロ独占販売権までTOMY UK Ltd.を設立
東京ディズニーランドにオフィシャルスポンサーとして参加
円高危機からの「第2幕」——2工場閉鎖と製造分社によるトミー工業の経営再編

1986年から1989年にかけて、トミー工業(現タカラトミー)がプラザ合意後の急激な円高で悪化した業績を立て直すため、国内2工場の閉鎖と大量の希望退職、製造部門の分社化、経営陣の世代交代を一気に進めた経営再編。1987年1月には副社長の富山幹太郎氏が33歳で社長に就き、製造主体の会社から企画・開発・販売主体の会社への転換に着手した。

詳細を読む
★★★
富山幹太郎ユージンを設立
富山幹太郎販売子会社旧トミーを吸収合併、同時に商号をトミーに変更
富山幹太郎シンガポール生産からの撤退——好調なうちに畳み、技術拠点へ転換する

1991年から1992年にかけて、玩具大手のトミー(現タカラトミー)が、20年近く続けたシンガポールでの玩具生産を中止した経営判断。完全撤退ではなく、約4000万円を投じて設計・技術指導の拠点へ転換し、解雇した従業員の一部を再雇用して新会社として再出発することで、アジアで摩擦を生みやすい撤退を混乱なく着地させた。

詳細を読む
★★★
富山幹太郎トミーテックを設立
富山幹太郎日本証券業協会に株式を店頭登録
富山幹太郎TOMY Corporationを設立
富山幹太郎ハスブロ社より同社・同社グループ商品の日本における独占的販売権を取得★★
富山幹太郎ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパンとライセンス契約を締結
2001〜2014年拡大期 ─ タカラ・トミー合併(2006年)とTPG提携による海外展開富山幹太郎タカラと合併★★
富山幹太郎タカラトミーに商号変更
富山幹太郎TPGとの戦略的資本・事業提携を発表★★
富山幹太郎インデックス・HDとの業務提携を発表・第三者割当増資を引受け★★
出典・参考

免責事項およびポリシー