シンガポール生産からの撤退——好調なうちに畳み、技術拠点へ転換する
労働力不足に直面したトミーは、20年続けた生産拠点をどう円満に手放したか
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- 概要
- 1991年から1992年にかけて、玩具大手のトミー(現タカラトミー)が、20年近く続けたシンガポールでの玩具生産を中止した経営判断。完全撤退ではなく、約4000万円を投じて設計・技術指導の拠点へ転換し、解雇した従業員の一部を再雇用して新会社として再出発することで、アジアで摩擦を生みやすい撤退を混乱なく着地させた。
- 背景
- 1972年に進出したトミー・シンガポールは、低価格の玩具を中心に生産してきた。だが賃上げ率が数年にわたり年10%を超え、政府の外国人労働者への課税強化も重なって人件費が上昇。人材派遣業者やボルネオ島での求人でも労働力を確保しきれず、日本との生産コスト差も急速に縮まっていた。
- 内容
- 1991年初めから撤退を検討し、初秋に閉鎖を決定。同年11月末に玩具製造を中止し、12月末に約640人を全員解雇して生産をタイ・香港へ移した。そのうえでシンガポール拠点をタイ工場への金型メンテナンスや部品供給を担う技術拠点へ転換し、1992年1月に元従業員23人を再雇用した。
- 含意
- 撤退の判断は「まだ3年はやっていけた」余裕のあるうちに下された。政府や従業員との摩擦を避けた円満な処理は「立つ鳥跡を濁さず」と評され、東南アジアからの事業縮小が相次ぎ始めた時期の一つのモデルケースとなった。
撤退を設計するという経営
この判断の芯は、撤退を追い込まれてからの後始末ではなく、余裕のあるうちに設計する対象として扱った点にある。ヒット商品でフル操業のさなかに畳むという選択は、目先の利益だけを見れば惜しく映る。だが賃金上昇と労働力不足という流れが変わらない以上、体力が残るうちに退職金を払い、政府や従業員との関係を保ちながら移すほうが、傷は浅い。撤退の理由がはっきりしていても実行が難しいのは人の解雇が伴うからで、そこを事前の根回しと再雇用で和らげた運びには、引き際までを一つの経営行為として組み立てる周到さがうかがえる。
もっとも、円満に映る撤退の裏には、生産を絶えず低コストの地へ移し続ける多国籍メーカーの宿命もある。シンガポールを去ったトミーは、タイやバタム島へ生産を移したが、記事自身が指摘するように人件費上昇はタイでも同じであった。どこで作るかを繰り返し問い直す経営は、いずれまた次の撤退を設計する場面を迎える。1992年のシンガポール撤退は、その連鎖のなかで、去り方の作法を残した一例であったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
限界に来たシンガポール生産
トミー・シンガポールが玩具の生産を始めたのは1972年である。以来20年近く、あまり高度な生産設備を必要としない低価格の玩具を中心につくり、1990年度の工場出荷額は約40億円と推定された。ところが労働力不足が深刻になり、同社は人材派遣業者を何社も使い、ボルネオ島の新聞に求人広告を出してまで人材を確保しようとしたが、面接に来たのは十数人にとどまった。労働集約型の玩具メーカーにとって、人手をそろえること自体が難しくなっていた[1]。
人件費の上昇も重かった。賃上げ率はここ数年10%以上で、シンガポール政府は外国人労働者を使う場合の税金を引き上げ、生産コストの日本比2割安という差も急速に縮まりつつあった。加えて政府は自動化ラインの導入を促したが、玩具は何がヒットするか読みにくく、売れ行きを見て機動的に生産を切り替える必要があるためリスクが大きすぎた。政府は単純な加工基地ではなく、アジア地区を統括する機能や物流拠点の機能を日系企業に求め始めており、労働集約型の生産をこの地で続ける前提は崩れていた[2]。
決断
余裕のあるうちに畳む
トミーは1991年初めから撤退を検討し、初秋に閉鎖を決めた。同年11月末に20年近く続けた玩具製造を中止し、12月末に約640人の従業員を全員解雇して、玩具の製造をタイと香港の生産拠点へ移した。ただし完全撤退ではなかった。生産部門の撤退を決めた後、シンガポールの拠点に約4000万円を新たに投じ、設計能力を高めて技術指導の拠点へ転換した。1992年1月には解雇した従業員のうち23人を再雇用し、新たな役割を担う会社として再出発させた[3]。
撤退の勘所は、経営に余裕があるうちに決めた点にあった。閉鎖を決めた当時、シンガポール工場はラジコンカー「チャーG」のヒットで発売以来3月末までに世界で約100万個を売り、フル操業が続いていた。幕引き役として現地入りした後藤敏邦常務は「撤退は、まだ現地法人に余裕がある時に決断しないといけない」「まだ3年は何とかやっていけた」と語り、退職金の負担や経営が悪化してからの撤退の難しさを踏まえ、好調なうちに畳むと判断していた[4]。
結果
円満撤退というモデルケース
閉鎖にあたっての心配は、取り越し苦労に終わった。政府関係者は撤退をむしろ前向きに評価し、政府系機関からの借り物だった工場では、最も使いやすい1階部分の使用延長を認める異例の措置がとられた。再就職先も現地の日本商工会議所を通じて募ると150社から求人が集まり、従業員の希望を聞きながらあっせんが進んだ。全従業員への通告前に主要な従業員へ順に打ち明けたことで、反発や動揺も抑えられた。撤退後のシンガポール拠点は、タイ工場の金型メンテナンスや部品供給、マレーシア外注先の管理、流通機能を担う会社となった[5]。
生産の中心は、シンガポールに代わってタイ工場へ移った。1988年に設立し1989年4月から本格稼働したタイ工場は、第2期拡張工事を終えて従業員が1,400人を超え、宮本英世専務は「タイは稼働2年目で黒字転換した」と語っていた。トミーはさらにインドネシア領バタム島にも工場用地を取得し、加工輸出基地としての活用を見込んでいた。アジアでは撤退が新たな摩擦を呼びやすいなか、トミーの円満な引き際は、世界的な不況が東南アジアに及び始めた時期の一つのモデルケースと受け止められた[6]。
- 日経ビジネス 1992年5月18日号「トミー シンガポール生産撤退 技術拠点へ転換し円満に」
- タカラトミー 有価証券報告書【沿革】