香港・米国へ現地法人設立(1977年・タカラトミーの決断)

更新:
論点 輸出依存から現地法人の設立へ転換するか
タカラトミー:業績の推移
売上高(億円)親会社株主に帰属する当期純利益率(%)
バイヤー依存の輸出から海外現地法人の直接進出への転換

何をなぜ決めたか:バイヤー依存の輸出から海外現地法人の直接進出への転換

概要

1970年代を通じて、トミー工業(現タカラトミー)が輸出をバイヤーに委ねる商法から脱し、香港・シンガポール・米国・西独へ自前の現地法人を設立して"ミニ多国籍企業"を築いた経営判断。

背景

同社は当初、大手玩具問屋の下請けから出発し、海外へは商社やバイヤー経由で輸出するにとどまっていた。それでは利益をバイヤーに吸われ、現地の市場情報も入らない。富山栄市郎会長は 『国内市場は知れている。どうせなら世界を舞台に勝負したい』 と考え、1963年の社名変更のころからミニ多国籍企業化を構想していた。

内容

1970年に香港、1972年にシンガポール、1973年に米国、1976年に西独へと現地法人を設立した。機械の心臓部は日本で作り、末端の部品は現地で調達し、資材・労働力・税制・輸出入環境に応じて生産地を自在に切り替える"インターナショナル・コンビネーション・グループ"を築いた。ただし西独では事前調査の甘さから合弁が行き詰まり、撤退も経験した。

含意

1976年度にはグループ全体で250億円を売り上げ、海外子会社5社がそろって初めて黒字化した。米国子会社は倍々の成長を見せた。この時期に築いた多国籍の生産・販売網は、のちに強みにも重荷にもなり、1980年代後半の急激な円高ではその過剰さが再編を迫る要因にもなった。

いつ何が起きたか 7件
考察:世界に賭けた自立精神の両面
考察

考察:世界に賭けた自立精神の両面

バイヤー依存を脱して自前の販売網を持てば、利益も市場情報も自社に残る。生産地を条件次第で組み替える仕組みは、規模の小さな玩具メーカーが大手と世界で渡り合うための工夫だったとみられる。同時に、西独での合弁解消が示すように、勢いに任せた進出は事前の見極めを欠くと高くつく。成功と躓きが同じ時期に併存していた点に、この面的な戦略の実像がうかがえる。

もっとも、世界に張り巡らせた生産・販売網は、時代が変われば重荷にもなった。円が安く輸出が有利だったうちは強みだった多国籍の構えは、1985年のプラザ合意後の急激な円高で、過剰な生産能力として立ち現れる。1970年代に築いた網を、1980年代後半には自ら畳み直さねばならなくなった。世界を舞台に競うという創業者の意思は同社の骨格を作ったが、その骨格をどう保ち、どこで組み替えるかは、その後も為替と市場の変化のなかで問われ続けたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

参考文献

参考
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
  • タカラトミー 有価証券報告書【沿革】

次に読む決断

免責事項およびポリシー