「自分で作ったものは自分で売る」——直接進出によるミニ多国籍企業化

国内市場は小さいと見た創業者は、なぜバイヤー依存を脱して自前の海外拠点を築いたか

更新:

時期 1977年10月
意思決定者 富山栄次郎 会長
論点 海外市場への直接進出と多国籍化
概要
1970年代を通じて、トミー工業(現タカラトミー)が輸出をバイヤーに委ねる商法から脱し、香港・シンガポール・米国・西独へ自前の現地法人を設けて「ミニ多国籍企業」を築いた経営判断。創業者・富山栄次郎氏の「自分で作ったものは自分で売る」という自立精神のもと、日米欧に販売拠点、東南アジアに生産拠点を配し、各国の条件に応じて生産を切り替える体制を整えた。
背景
同社は当初、大手玩具問屋の下請けから出発し、海外へは商社やバイヤー経由で輸出するにとどまっていた。それでは利益をバイヤーに吸われ、現地の市場情報も入らない。富山栄次郎会長は「国内市場は知れている。どうせなら世界を舞台に勝負したい」と考え、1963年の社名変更のころからミニ多国籍企業化を構想していた。
内容
1970年に香港、1972年にシンガポール、1973年に米国、1976年に西独へと現地法人を設立した。機械の心臓部は日本で作り、末端の部品は現地で調達し、資材・労働力・税制・輸出入環境に応じて生産地を自在に切り替える「インターナショナル・コンビネーション・グループ」を築いた。ただし西独では事前調査の甘さから合弁が行き詰まり、撤退も経験した。
含意
1976年度にはグループ全体で250億円を売り上げ、海外子会社5社がそろって初めて黒字化した。米国子会社は倍々の成長を見せた。この時期に築いた多国籍の生産・販売網は、のちに強みにも重荷にもなり、1980年代後半の急激な円高ではその過剰さが再編を迫る要因にもなった。
筆者の見解

世界に賭けた自立精神の両面

この判断の核心は、狭い国内にとどまらず世界で稼ぐと決めた点にあり、それを支えたのは「自分で作ったものは自分で売る」という創業者の自立精神であった。バイヤー依存を脱して自前の販売網を持てば、利益も市場情報も自社に残る。生産地を条件次第で組み替える仕組みは、規模の小さな玩具メーカーが大手と世界で渡り合うための工夫だったとみることができる。同時に、西独での合弁解消が示すように、勢いに任せた進出は事前の見極めを欠くと高くつく。成功と躓きが同じ時期に併存していた点に、この面的な戦略の実像がうかがえる。

もっとも、世界に張り巡らせた生産・販売網は、時代が変われば重荷にもなった。円が安く輸出が有利だったうちは強みだった多国籍の構えは、1985年のプラザ合意後の急激な円高で、過剰な生産能力として立ち現れる。1970年代に築いた網を、1980年代後半には自ら畳み直さねばならなくなった。世界を舞台に勝負するという創業者の意思は同社の骨格を作ったが、その骨格をどう保ち、どこで組み替えるかは、その後も為替と市場の変化のなかで問われ続けたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

バイヤー依存からの脱却

トミー工業は、1953年に金属玩具メーカーとして再出発し、1959年に販売部門を分離して製販の体制を整えた玩具会社であった。海外へは早くから商品を出していたが、当初は大手玩具問屋やバイヤーへの輸出にとどまっていた。それでは利益の多くをバイヤーに吸い取られ、現地の市場情報も自社には入ってこない。創業者の富山栄次郎会長は「リスクは大きくても、自ら市場を開拓しない限り、飛躍は望めない」と考え、自前の直接進出へ踏み出す腹を固めていた[1]

背景には、狭い国内市場だけを相手にしない発想があった。富山会長は「国内市場は知れている。どうせなら世界を舞台に勝負したい」と語り、1963年に富山商事をトミー工業へ改称したころから、すでにミニ多国籍企業化の腹案を抱いていた。トミーの名は米国で最もポピュラーな愛称トムに通じ、世界を意識した命名でもあった。玩具は当たり外れが大きく技術も真似されやすいだけに、自ら市場を切り開く力を持つことが、飛躍の条件だと見ていた[2]

決断

日米欧に拠点を築く直接進出

トミー工業は、1970年8月に香港へTOMY (Hong Kong) Ltd.を設け、これを海外展開の最初の現地法人とした。続いて1972年にシンガポール、1973年に米国ロサンゼルスのトミー・コーポレーション、1976年7月には西独のトミー・シュピールバーレンを設立し、日米欧の3大市場に販売拠点を、労働力の豊かな東南アジアに生産拠点を配した。下請けからの脱皮と直接進出を貫いたその裏には、世界に通用する商品開発力を持つという自負があった[3][4]

生産の面でも一貫した考えがあった。機械の心臓部は日本で作って輸出し、末端の部品は現地で生産・組み立てる。ただし部品も、たとえば米国の特恵関税国であるシンガポールで作って送る方が安ければ、そちらへ切り替える。資材・労働力・税制・輸出入環境に応じて生産地を自在に組み替えるこの仕組みを、岩船浩専務は「インターナショナル・コンビネーション・グループ」と呼んだ。年30〜50点の新製品を生む開発本部の力と、この切り替えの機動力が、多国籍化を支えていた[5]

結果

黒字化と、西独での躓き

直接進出の賭けは、収益の形で実を結び始めた。1976年度にはグループ全体で250億円を売り上げ、それまで赤字だった西独を除く海外子会社5社がそろって初めて税引前利益で黒字を計上した。シンガポール子会社は2年間の赤字を経て黒字に転じ、米国子会社は設立3年で7億4000万円を稼いだ。富山会長が「米国子会社の売り上げは数年後に1億ドルを超える」と見込むほど、海外の伸びは親会社をしのぐ勢いを見せていた[6]

もっとも、すべての進出が順調だったわけではない。おもちゃの本場である西独では、伝統の壁が厚かった。1976年7月に独力で現地子会社を設けたものの、半年で販路開拓の難しさに直面し、翌1977年に技術供与先のステレコ社と合弁を組んだ。だが相手は販売力が弱く財務も不安定で、呼吸が合わない。1979年3月には合弁を解消し、現地生産を止めて香港・シンガポールからの輸入品販売に切り替えた。事前調査の甘さがつまずきを招いた経験は、その後の海外展開の教訓になった[7]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1977年10月24日号「トミー工業 ヒット玩具続々、ミニ多国籍企業に」
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号「トミー・シュピールバーレン 本場への挑戦、事前調査不足で曲折」
  • タカラトミー 有価証券報告書【沿革】