バイヤー依存を脱して自前の販売網を持てば、利益も市場情報も自社に残る。生産地を条件次第で組み替える仕組みは、規模の小さな玩具メーカーが大手と世界で渡り合うための工夫だったとみられる。同時に、西独での合弁解消が示すように、勢いに任せた進出は事前の見極めを欠くと高くつく。成功と躓きが同じ時期に併存していた点に、この面的な戦略の実像がうかがえる。
もっとも、世界に張り巡らせた生産・販売網は、時代が変われば重荷にもなった。円が安く輸出が有利だったうちは強みだった多国籍の構えは、1985年のプラザ合意後の急激な円高で、過剰な生産能力として立ち現れる。1970年代に築いた網を、1980年代後半には自ら畳み直さねばならなくなった。世界を舞台に競うという創業者の意思は同社の骨格を作ったが、その骨格をどう保ち、どこで組み替えるかは、その後も為替と市場の変化のなかで問われ続けたといえる。