円高危機からの「第2幕」——2工場閉鎖と製造分社によるトミー工業の経営再編

円高で露呈した過剰生産と弱い商品開発力に、玩具業界3位はどう向き合ったか

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時期 1986年11月
意思決定者 富山幹太郎・富山允就(会長) トミー工業 社長
論点 円高危機下の構造改革と世代交代
概要
1986年から1989年にかけて、トミー工業(現タカラトミー)がプラザ合意後の急激な円高で悪化した業績を立て直すため、国内2工場の閉鎖と大量の希望退職、製造部門の分社化、経営陣の世代交代を一気に進めた経営再編。1987年1月には副社長の富山幹太郎氏が33歳で社長に就き、製造主体の会社から企画・開発・販売主体の会社への転換に着手した。
背景
玩具業界で最も早く海外へ生産を移したトミー工業は、1985年の円高直前に国内生産の半分を輸出へ向けていた。プラザ合意で為替が1ドル240円から120円へ振れると、輸出の6割を占めた北米向けが冷え込み、過剰生産が表面化した。円高以前から国内販売は同業に劣り、1984年2月期には営業赤字に転落していた。
内容
1986年11月、東京・流山の2工場を閉鎖し、全社約1,000名のうち600名の希望退職を募った。1987年1月には富山允就社長が会長に退いて長男の幹太郎氏が社長に就任、番頭格の取締役も退任した。1988年にはタイ工場を稼働させ、栃木・壬生の両事業所を栃木トミー工業として分離、本体は製造部門を持たない企業へ移った。
含意
1988年2月期に売上216億円・営業利益5億5000万円で黒字化し、円高の大波はひとまず越えた。だがバンダイやタカラが玩具の枠を超えた商品で伸びるなか、素早い商品開発力の確立という課題は残った。この再編はプラザ合意後10年に及ぶ構造改革の始まりであった。
筆者の見解

危機が迫った世代交代という賭け

この再編の眼目は、単なる人員削減にはなかった。過剰生産という目先の危機に大ナタをふるう一方で、同じ時期に33歳の後継者への世代交代を重ねた点に、この判断の性格が表れている。番頭格の取締役が一斉に退き、先代が信頼を託した若い社長のもとで痛みの伴う整理が整然と進んだ——創業家の代替わりと構造改革が同時に走ったことで、責任の所在がはっきりし、社内の動揺が抑えられたとみることができる。危機のさなかに経営を若返らせる賭けが、結果として第一幕を成立させた。

もっとも、円高への対処が一段落しても、トミー工業が抱えた本当の弱みは製造の側ではなく商品の側にあった。工場を安定して回すために定番を長く売る流儀は、素早い新商品の投入という点ではむしろ制約になりうる。バンダイやタカラが玩具の外へ踏み出していく時代に、定番の強さと開発の速さをどう両立させるか。この問いは、後年のタカラとの統合やキャラクター事業の拡大にまで尾を引くことになる。第2幕の再編は、その長い問いの入口に立った判断であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

円高が直撃した多国籍化のツケ

トミー工業は玩具業界で最も早く海外へ生産を移した企業であった。変動相場制に移った1973年にはシンガポールで本格生産を始め、香港では系列の一貫工場を持たずに外注メーカーを使いこなして効率的な供給体制を整えていた。ところが1980年代前半に円安が戻ると海外シフトの手を緩め、1985年の円高直前には国内生産の半分を輸出へ振り向けていた。輸出がゼロになれば国内の生産能力の半分が過剰になる構図を、自ら抱え込んでいた[1]

1985年9月のプラザ合意で為替は2年ほどで1ドル240円から120円へ振れ、輸出の6割を占めた北米向けが一気に冷え込んだ。富山幹太郎氏は後年、当時を「国内に4工場1,100名を抱え、売上の過半は輸出だった。プラザ合意で為替が大幅に円高へ振れ、輸出の価格競争力が全くなくなった」と振り返っている。もっとも病巣は円高だけではなかった。1984年2月期には既に営業赤字に転落しており、同業に比べ国内販売が弱いという構造的な問題が円高以前から横たわっていた[2][3]

決断

身を切るリストラと33歳の新社長

1986年11月、トミー工業は東京事業所と流山事業所の2工場を閉鎖した。同時に、長期パートも含め全社およそ1,000名の従業員のうち600名の希望退職を募り、役員も18名中12名が退いた。宮本英世専務は「ここまで徹底した雇用調整は多くない」と当時を振り返る。工場閉鎖と人員削減は、過剰となった生産能力に大ナタをふるう、身を切る決断であった。予想外に整然と人員整理が進んだことが、再編の第一幕をなめらかに運んだ一因になったとみられる[4]

1987年1月には、2代目の富山允就社長が会長に退き、副社長だった長男の幹太郎氏が33歳で社長に就いた。先々代の頃からの番頭格の取締役もほとんど身を引き、世代交代が一気に進んだ。幹太郎氏を軸に再建委員会が設けられ、辛い決断が次々と実行に移された。1988年4月には労働コストの安いタイの工場を稼働させ、同年9月には栃木・壬生の両事業所を栃木トミー工業として分離した。この結果、トミー工業本体は製造部門をほとんど持たない企業へと姿を変え、北米の販売会社も一度は米玩具メーカーへ譲渡された[5]

結果

製造会社から企画開発会社への転換

一連のリストラで、業績はやや上向きに転じた。1988年2月期には売上高が前年比3%増の216億円となり、営業利益も5億5000万円と黒字化した。関係者の間には「円高がもたらした一番大きな波はどうやら乗り越えた」という受け止めが生まれていた。同社はカプセル玩具・キャラクター事業の母体として株式会社ユージンを設けるなど関連会社を整え、1989年3月には国内販売子会社トミーと合併して、マーケットニーズに基づく商品開発へ人員を振り向ける体制をつくった[6]

この再編は一度で終わる性質のものではなかった。富山幹太郎氏は後に、プラザ合意からの10年を「製造主体の本社から企画・開発・販売主体の本社へ、収益構造も従業員の意識も仕事のやり方もがらりと変えた」と語っている。プラレール・トミカ・トミックスの息の長い定番とディズニーとのキャラクター契約が収益を下支えする一方、バンダイやタカラが玩具の枠を超えた商品で好業績を上げるなか、素早い商品開発力をどう備えるかが積み残された課題として残った[7]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号「トミー工業 第2幕に入った再編劇」
  • 証券アナリストジャーナル 1997年10月号(富山幹太郎トミー社長 講演)
  • タカラトミー 有価証券報告書【沿革】