流山工場の閉鎖と分社化(1986年・タカラトミーの決断)

更新:

論点 円高危機下の構造改革と世代交代
売上高(億円)親会社株主に帰属する当期純利益率(%)
円高危機を受けた生産拠点の整理と、つくる機能を切り離す経営再編

円高危機を受けた生産拠点の整理と、つくる機能を切り離す経営再編

概要

1986年から1989年にかけて、トミー工業(現タカラトミー)がプラザ合意後の急激な円高で悪化した業績を立て直すため、国内2工場の閉鎖と大量の希望退職、製造部門の分社化、経営陣の世代交代を一気に進めた経営再編。1986年12月には副社長の富山幹太郎氏が32歳で社長に就任し、製造主体の会社から企画・開発・販売主体の会社への転換に着手した。

背景

玩具業界で最も早く海外へ生産を移したトミー工業は、1985年の円高直前に国内生産の半分を輸出へ向けていた。プラザ合意で為替が1ドル240円から120円へ振れると、輸出の6割を占めた北米向けが冷え込み、過剰生産が表面化した。円高以前から国内販売は同業に劣り、1984年2月期には営業赤字に転落していた。

内容

1986年11月、東京・流山の2工場を閉鎖し、全社約1,000名のうち600名の希望退職を募集した。1986年12月には富山允就社長が会長に就任し、長男の幹太郎氏が社長に就任、番頭格の取締役も退任した。1988年にはタイ工場を稼働させ、栃木・壬生の両事業所を栃木トミー工業として分離、本体は製造部門を持たない企業へ移った。

含意

1988年2月期に売上216億円・営業利益5億5000万円で黒字化し、円高の大波はひとまず越えた。だがバンダイやタカラが玩具の枠を超えた商品で伸びるなか、素早い商品開発力の確立という課題は残った。この再編はプラザ合意後10年に及ぶ構造改革の始まりであった。

いつ何が起きたか 6件
筆者の見解 危機が迫った世代交代という賭け
筆者の見解

危機が迫った世代交代という賭け

この再編の眼目は、単なる人員削減にはなかった。過剰生産という目先の危機に大ナタをふるう一方で、同じ時期に32歳の後継者への世代交代を重ねた点に、この判断の性格が表れている。番頭格の取締役が一斉に退き、先代が信頼を託した若い社長のもとで痛みの伴う整理が整然と進んだ——創業家の代替わりと構造改革が同時に走ったことで、責任の所在がはっきりし、社内の動揺が抑えられたと推察される。危機のさなかに経営を若返らせる賭けが、結果として第一幕を成立させた。

もっとも、円高への対処が一段落しても、トミー工業が抱えた本当の弱みは製造の側ではなく商品の側にあった。工場を安定して回すために定番を長く売る流儀は、素早い新商品の投入という点ではむしろ制約になりうる。バンダイやタカラが玩具の外へ踏み出していく時代に、定番の強さと開発の速さをどう両立させるか。この問いは、後年のタカラとの統合やキャラクター事業の拡大にまで尾を引くことになる。第2幕の再編は、その長い問いの入口に立った判断であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

参考文献
出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
  • 証券アナリストジャーナル 1997年10月号(富山幹太郎トミー社長 講演)
  • タカラトミー 有価証券報告書【沿革】
  • タカラトミー 有価証券報告書【役員の状況】(富山幹太郎氏の社長就任は1986年12月、生年月日1954年1月22日)

免責事項およびポリシー