伊藤園中国産ウーロン茶の独占輸入から缶入りウーロン茶へ、無糖飲料で飲料業界に進出
家庭で作れるお茶に100円を払う客はいるか——役員12人中10人の反対を押し切った賭け
- 概要
- 1979年8月に中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶の輸入代理店契約を結んで福建省産の独占販売権を得た伊藤園が、1981年3月、無糖の「缶入りウーロン茶」を全国発売して缶飲料業界へ本格参入した経営判断。
- 背景
- 包装茶のルートセールスで製茶業界首位に立ったものの、事業は日本茶の生産・販売だけで、暑い時期に売れないという商売の限界を抱えていた。緑茶の家庭消費も1973年をピークに減り続けていた。
- 内容
- 缶の製造を外注して設備投資を避け、失敗しても年間3億円程度の損失で収まるという計算で役員会を説得した。ターゲットを若者に定め、夏物飲料の常識に反する真っ黒な缶を採用した。
- 含意
- 甘い炭酸とコーヒーばかりだった缶飲料に無糖茶という区分を持ち込み、のちの緑茶飲料市場の土台になった。一方でウーロン茶飲料そのものは後発のサントリーに主導権を奪われている。
全員が賛成する新製品では、なかったのかもしれない
この決断で目を引くのは、本庄正則社長自身が「こんなものが売れるはずはない」と内心では考えていたと明かしている点にある。確信があったから押し切ったのではなく、大手にない商品でなければ勝負にならないという競争上の必要と、外注生産ゆえに最悪でも3億円で済むという損失の上限が、確信の不足を埋めていた。新規事業の可否を、成功の見込みではなく失敗したときの傷の深さで測る判断のしかたは、資金力の乏しい新参企業がとりうる数少ない攻め方だったとみることができる。
缶の色をめぐって創業社長が引き下がった場面も、同じ性格を持っている。売り先が自分の理解の外にあると認めたとき、社内の若い感覚に判断を預けた点は、オーナー企業の意思決定としてはむしろ例外的であった。誰もが支持する新製品は大ヒットにつながらない、と正則氏は後に振り返っている。役員12人中10人の反対という数字は、失敗の確率が高かった証しであると同時に、当時の常識から十分に離れていた証しでもあった。その距離をどう測るかは、新しい商品を出す企業がいまも抱える問いであるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
包装茶で首位に立った単品企業
伊藤園は、量り売りが当たり前だった茶葉をアルミ箔の袋で密封し、産地直送・現金決済のルートセールスでスーパーの棚に載せることで伸びた会社である。1968年には茶業界で初めてテレビCMを流し、参入から11年余りの1976年には包装茶で業界首位に立った。当時の社員は580人、平均年齢は約25歳で、営業担当者を140項目で年4回査定して昇給に直結させる人事考課が、急成長を支える仕組みとして誌面に取り上げられている。伝統的な問屋制度の外側で商売を組み立てた、茶業界の新参者であった[1][2]。
ただし、首位に立った事業は日本茶の生産・販売だけであった。製茶業界で初めて売上高100億円に達した企業となってもなお、「6月から9月の暑い時期には売れないのがお茶屋の商売」という季節の壁が残る。加えて、緑茶の一世帯当たり消費量は1973年の2,024グラムをピークに年々減り続けていた。第一次石油ショック以降の生活の変化のなかで急須が使われなくなり、家庭内の消費に依存する茶葉商売そのものが細っていく——本庄正則社長は、緑茶離れの原因を、生活の屋外化にお茶が対応できていない点に見ていた[3][4]。
視察団が運んできたウーロン茶
転機は外から持ち込まれた。1977年11月、日中国交正常化から間もない時期に中国食品加工技術機械視察団が来日し、緑茶業界からは伊藤園が訪問先に選ばれる。工場見学のあとの懇親会で、団長からウーロン茶の話が持ちかけられた。これを縁に伊藤園は3年契約で年間2億円分の輸入を始める。茶葉の商材を増やす取引として始まったもので、この時点では飲料事業の構想があったわけではなかった[5]。
1979年8月、伊藤園は中国土産畜産進出口総公司と日本で初めてのウーロン茶輸入代理店契約を結び、福建省産ウーロン茶の独占販売権を手にした。折よく1979年から翌年にかけてウーロン茶が大きなブームを呼び、茶葉の販売だけでも十分に潤う。もっとも1981年の時点では、そのブームはすでに過去のものとなり、社内には「いまさらウーロン茶」という空気が漂っていた。原料を独占的に握った状態で、その原料をどう使うかが次の問いになった[6][7]。
決断
12人中10人が反対した役員会
1981年初めの役員会で、缶入りウーロン茶を新製品として発売すべきかが議題にかけられた。「缶入りのウーロン茶なんて、とんでもない」「消費者がわざわざ100円払って飲んでくれるはずがない」——12人いる役員のうち10人が反対に回る。当時の缶入り飲料はコーラなどの炭酸飲料かコーヒー、甘味のあるジュース類ばかりで、家庭では手軽に作れない高付加価値の商品であった。茶は葉さえあれば家庭でも簡単に作れ、甘くもなければ炭酸も入っていない。賛成したのは本庄正則社長と、開発を担当していた実弟の本庄八郎副社長の2人だけであった[8][9]。
本庄正則社長は役員会より早い時点で発売に腹を固めていたが、居並ぶ役員が次々に問題点を指摘するのを聞いて心は乱れたと後に語っている。反対を押し返した論拠は、大手飲料メーカーにない独特の商品でなければ勝負にならないという一点であった。同時に、失敗した場合の傷の深さも確かめている。缶の製造は外注のため設備投資は不要で、まったく売れなくても損失は年間3億円程度で済む。前期に当たる1979年度の経常利益がグループ全体で約4億円だったことから、最悪の事態でも会社は倒産しないと判断した。この計算が役員会を納得させている[10][11]。
緑茶ではなくウーロン茶を、そして黒い缶を
缶入りの茶という発想そのものは古く、1970年ごろから缶入り緑茶の検討が続いていた。ただし緑茶には空気に触れると4〜5時間で茶色に変色する性質があり、商品化は難航していた。ウーロン茶ならその心配がない。弟の八郎氏や若い開発担当者が試作品を正則社長に見せたのは、役員会のおよそ1カ月前であった。10年待った新製品がようやく現れ、市場が受け入れるかどうかに自信はなくとも世に問うてみたい、という順序で決断は動いている。原料の独占権と、10年分の開発の蓄積と、季節変動という課題が、このとき一つに重なった[12]。
1981年3月、無糖茶飲料「缶入りウーロン茶」の全国販売が始まった。商品の外見でも常識から外れている。夏に売る商品という前提から、正則社長は最初の試作品を見たとき缶の色を黒から白へ変えるよう指示したが、開発担当者は冬でも温めて飲めるから黒でよいと譲らなかった。創業社長として強権を発動することもできた場面で、正則社長は退いている。新しい需要を掘り起こす相手は若者であり、ならば若い人間の感覚を信じるという判断であった。従来にない色遣いは、逆転の発想として消費者に強い印象を与えることになる[13][14]。
結果
後発の参入が市場を開いた
発売直後の売れ行きは順調ではなかった。市場が動いたのは、伊藤園に遅れること10カ月でサントリーが新規参入してからである。一気にウーロン茶の知名度が高まり、急速に普及した。その後もキリンレモン、カゴメ、ヤクルト本社などの大手食品メーカーが相次いで参入し、1989年時点で参入メーカーは100社を軽く上回り、市場規模は2,000億円近くに達した。通常であれば、新しい成長分野に大手が次々と参入して先発企業がはじき出される筋書きになる。実際、伊藤園のシェアは20%程度まで下がった[15]。
それでも伊藤園に焦りはなかった。ウーロン茶の葉の主要産地である中国・福建省との輸入総代理店契約を握っていたため、日本で流通するウーロン茶の葉の6割以上を同社が扱う立場にあり、相手先ブランドによる生産の供給も行っていた。市場そのものが広がれば儲かる仕組みができていたことになる。缶飲料への進出は業績にも表れ、1988年度の売上高は375億円と前期比17%増に達する。内訳は緑茶が4割、ウーロン茶が4割、その他飲料が2割で、日本茶だけの単品企業からの転換は数字の上でも進んだ[16][17]。
市場を開いた者と、市場を取った者
ウーロン茶飲料そのものの主導権は、やがて後発に移る。当時の伊藤園は会社規模が小さく、単独で普及させるには限界があったため、サントリーに製造技術を伝えて普及を促した経緯があった。2005年の時点で、サントリーがウーロン茶の国内シェア50%近くを占めるのに対し、伊藤園は8%程度にとどまっている。市場を作った企業が、その市場の最大の受益者になるとは限らない——缶入りウーロン茶の20年余りは、その典型を残した[18]。
一方で、この判断が本当に残したものは、甘くない茶を缶で売るという商品区分そのものであった。1981年に開いた無糖飲料の入口は、1982年の紅茶進出を経て、1985年2月の世界初の緑茶飲料「缶入り煎茶」へつながる。緑茶の変色という10年来の技術課題を解いた先に、1989年の「お〜いお茶」への改称と、その後の緑茶飲料市場が待っていた。ウーロン茶で試した外注生産と若者向けの商品設計は、そのまま本業の緑茶を飲料に載せ替える手順として使われている[19][20]。
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「常識に逆らい「缶入りだ」」
- 日経ビジネス 1976年5月10日号「業界一に直結、ガラス張り人事考課」
- 週刊東洋経済 2005年7月9日号「伊藤園vs.サントリー 因縁の対決熱いぞ!茶葉戦争」
- 株式会社伊藤園 有価証券報告書【沿革】