伊藤園の創業者・本庄正則氏は1934年、神戸に生まれた。父親の事業失敗で一家が財産を失い、早稲田大学法学部を働きながら卒業した後、自動車販売会社に入り、入社4年目に年間407台を売るトップセールスマンとなる[1]。1964年8月、その蓄えを元手に、食料品や調味料を扱う卸会社・日本ファミリーサービス株式会社を設立した[2]。伊藤園はこの1964年を創業の年と定めている[3]。卸売業そのものは失敗に終わったものの、扱った商品のなかで最も利益率が高かったのが、パック詰めの包装茶だった。兄弟がお茶専業へ転じた理由は、この利益率にあった。
1966年8月、日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資により、伊藤園の直接の前身であるフロンティア製茶株式会社が静岡県静岡市に設立された[4]。小売店へお茶を直接売り込むルートセールスをここから始める。ただし茶業界の慣習は厚く、小売店にはすでに仕入れ先があり、新参の製茶会社は相手にされなかった。弟の本庄八郎氏(1940年神戸生まれ、1963年早稲田大学法学部卒業)[5]は当時24歳で兄とともに設立に加わり、以後、兄が財務、弟が営業・商品開発という役割分担で経営を担った[6]。
古い体質のお茶業界で販路を開くには老舗の看板が要ると考えた本庄正則氏は、1969年5月、東京・上野の老舗から『伊藤園』の商号を200万円で買い取り、フロンティア製茶を株式会社伊藤園に改称した[7]。資金は底をつく寸前で、埼玉県川口市のはずれの竹やぶに囲まれたバラックを事務所に借り、社員は弟を含めわずか5人だった[8]。この時期には4,000万円の手形詐欺にも遭い、銀行が融資を渋るなか、1970年には早稲田大学の後輩で代議士になりたての小渕恵三氏から500万円の出資を受けている[9]。同年6月には本庄商事(旧・日本ファミリーサービス)とビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受け[10]、生産部門を確保した。
商いの武器は、量り売りが当たり前だった茶葉を小分けにする包装茶である。台頭してきたスーパーマーケットの店頭では茶葉が3日で湿気てしまうため置かれていなかったが、伊藤園はアルミ箔の袋で密封した包装茶を並べてもらうことに成功した[11]。産地直送・現金決済のルートセールスで量販に乗り出し、1968年には茶業界初のテレビCMを放映する[12]。参入から11年余りの1976年時点で、包装茶で業界首位の座を固めた。当時の社員は580人、平均年齢は25歳。営業マンを140項目で年4回査定して昇給に直結させる『ガラス張り人事考課』[13]が、急成長を支える仕組みとして注目された。
販売網が整うと、伊藤園は川上へさかのぼる投資を進めた。1974年5月、静岡県榛原郡相良町(現・牧之原市)に静岡相良工場を建設し[14]、茶葉の生産から販売までの一貫体制を敷く。1976年4月には耕作放棄地などを茶園に転換する茶産地育成事業を始め[15]、農家との契約栽培という、当時の業界では前例のない製販一体の作戦へ乗り出した[16]。1977年6月には直営小売店第1号『茶十徳・日吉店』を神奈川県横浜市に開いている[17]。小売の売り場と茶畑の両端を押さえたこの体制が、後の飲料事業では原料調達力の下地になる。
次の商材は、中国からの視察団が運んできた。1977年11月、日中国交正常化から間もない時期に中国食品加工技術機械視察団が静岡の製茶工場を訪れ、本庄正則社長が半日がかりで案内した。その席で福建省のウーロン茶を勧められたことがきっかけとなり、伊藤園は年間2億円規模の茶葉輸入を始める[18]。1979年8月には中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を結び[19]、福建省産ウーロン茶の独占販売権を手にした。1979年からのウーロン茶ブームで茶葉販売は潤い、『日本のウーロン茶の葉の6割以上は当社が扱っている』[引用元]と本庄正則社長が語る[20]体制ができあがった。
1981年初めの役員会で、缶入りウーロン茶を発売すべきかが諮られた。12人の役員のうち反対は10人。賛成は本庄正則社長と、開発を担当していた実弟の本庄八郎副社長の2人だけだった[21]。当時の缶入り飲料はコーラやコーヒーなど甘いものばかりで、家庭で簡単に作れる無糖のお茶に100円を払う消費者がいるとは誰も考えなかった。それでも踏み切った背景には、緑茶の一世帯当たり消費量が1973年の2,024グラムをピークに減り続け[22]、『6月から9月の暑い時期には売れないのがお茶屋の商売』[引用元]という構造的な限界があった。当時の伊藤園は業界初の売上高100億円企業だったが、事業は日本茶の生産・販売だけだった[23]。
1981年3月、無糖茶飲料『缶入りウーロン茶』の全国販売が始まり、伊藤園は缶飲料業界へ本格参入した[24]。ターゲットは新しい需要を掘り起こす若者と定め、夏向け飲料の常識に反して真っ黒な缶を採用する。缶の製造は外注のため設備投資は不要で、全く売れなくても損失は年間3億円程度、前年度の経常利益約4億円[25]で吸収できるという計算が役員会を納得させた。発売当初の売れ行きは鈍かったが、10カ月遅れでサントリーが参入したことで知名度が一気に高まり、市場は急拡大する。1989年時点で参入メーカーは100社を超え、市場規模は2,000億円近くに達した[26]。
次の標的は本業の緑茶だった。緑茶は渋味成分のタンニンが缶の中の空気で酸化しやすく、焼きイモに似たにおいが出るため、缶飲料化は不可能とされてきた。酸素を遮断してにおいを消す技術開発には8年の歳月と膨大な開発費がかかり、その間、本庄正則社長は研究部門にほとんど口を挟まず、開発は弟の八郎氏が率いた[27]。1985年2月、世界初の緑茶飲料『缶入り煎茶』の全国販売が始まる[28]。『飲料として売られるお茶にお金を払ってくれる人が少なかった』[引用元]時代で、業界の内外から『こんなものは売れるはずがない』[引用元]と笑われた[29]と本庄八郎氏は後に振り返っている。
1989年2月、『缶入り煎茶』は『お〜いお茶』ブランドに改称された[30]。名前は、1968年から放映してきたテレビCMで全国に広まったフレーズを商品名に採用したものである。同年11月には応募句をパッケージに載せる『伊藤園お〜いお茶新俳句大賞』を始め、1990年には世界初のペットボトル入り緑茶飲料を発売した[31]。急須のお茶を屋外へ持ち出すという発想は、自動車の普及と共働き世帯の増加という生活の変化に重なり、緑茶飲料はスーパー・コンビニ・自動販売機へ販路を広げた。1987年7月には米国ハワイ州に現地法人を設立し[32]、海外展開の足場も作り始めた。
1988年、本庄正則氏は社長の座を弟の八郎氏に譲り、会長に就いた[33]。『弟だから社長にするのか』[引用元]という声に対し、正則氏は『いちばん信頼できる部下だから社長に選んだに過ぎない』[引用元]と反論している。この年の売上高は375億円(前期比17%増)で、内訳は緑茶が4割、ウーロン茶が4割、その他飲料が2割[34]。お茶屋から飲料メーカーへの転換は数字の上でも進んでいた。1992年5月には日本証券業協会に株式を店頭登録し[35]、創業から28年で株式公開を果たす。1970年に500万円を出資した小渕恵三氏の株式も、この上場で相当な財産になったと報じられた。
海外にも布石を打った。1994年9月、中国浙江省に茶葉加工の合弁会社・寧波舜伊茶業有限公司を、豪州ビクトリア州に販売現地法人をそれぞれ設立する[36]。国内では自動販売機の増設を進め、注文取りと商品補充を1人の営業担当が兼ねる独自の営業体制で、設置場所ごとに商品構成を細かく変える運用を磨いた[37]。緑茶・ウーロン茶・紅茶の無糖茶を軸に紅茶や野菜飲料も加わり、1990年代半ばの伊藤園は『世界の3大茶を売るメーカー』[引用元]を掲げる[38]総合茶飲料メーカーへ姿を変えつつあった。店頭公開で得た信用と資金は、茶系飲料の量産投資と海外進出の裏づけになった。
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|---|---|---|---|---|
| 1964〜1980年自動車セールスからの転身──包装茶のルートセールスで製茶業界首位へ | フロンティア製茶を設立 | ★ | ||
| 緑茶のルートセールスを開始 | ★★ | |||
| 「伊藤園」に商号変更 | ★ | |||
| 静岡相良工場を新設 | ★ | |||
| 茶産地育成事業の展開を開始 | ★★ | |||
| 直営小売店第1号「茶十徳・日吉店」を開設 | ★ | |||
| 日本初のウーロン茶輸入代理店契約を締結 | ★★ | |||
| 1981〜1995年缶入りウーロン茶と缶入り煎茶──常識に逆らった無糖飲料市場の創造 | 中国産ウーロン茶の独占輸入から缶入りウーロン茶へ、無糖飲料で飲料業界に進出 1979年8月に中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶の輸入代理店契約を結んで福建省産の独占販売権を得た伊藤園が、1981年3月、無糖の『缶入りウーロン茶』を全国発売して缶飲料業界へ本格参入した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 緑茶飲料「缶入り煎茶」を全国販売開始 | ★★ | |||
| 静岡相良工場敷地内に中央研究所を新設 | ★ | |||
| ITO-EN(USA)INC.(後のITO EN(USA)INC.)を設立 | ★ | |||
| 本庄八郎 | 「お~いお茶」ブランドとして発売 | ★★ | ||
| 本庄八郎 | 日本証券業協会に店頭登録 | ★ | ||
| 本庄八郎 | 「寧波舜伊茶業有限公司」を設立 | ★ | ||
| 1996〜2007年東証上場と緑茶飲料戦争──「生茶」の衝撃とシェア奪還の商品開発 | 本庄八郎 | 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定 | ★ | |
| 本庄八郎 | ロイヤルスペンサーが玄米屋を吸収合併 | ★ | ||
| 本庄八郎 | 関西茶業の株式を取得 | ★ | ||
| 本庄八郎 | ITO EN(North America)INC.を設立 | ★ | ||
| 本庄八郎 | 「ITO EN(North America)INC.」が「Mason Distributors,Inc.」の株式を取得 | ★ | ||
| 本庄八郎 | フードエックス・グローブの株式取得によるタリーズコーヒー日本事業の子会社化 2006年10月、伊藤園がタリーズコーヒーの日本事業を運営するフードエックス・グローブ(現・タリーズコーヒージャパン)の株式を取得し、51%を握って連結子会社とした経営判断。買収総額は57億円強であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本庄八郎 | 議決権のない第1種優先株式を東証一部に上場した資本政策 2007年9月、伊藤園が普通株式1株につき0.3株の割合で第1種優先株式を無償割当し、東京証券取引所市場第一部に上場させた資本政策。議決権を持たない代わりに普通株式の125%の配当を受ける設計で、日本の上場第1号となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2008〜2026年三代目・本庄大介体制──買収と海外展開で世界のティーカンパニーへ | 本庄八郎 | 「伊藤園・伊藤忠ミネラルウォーターズ」を設立 | ★ | |
| 本庄大介 | 「チチヤス」の株式を取得 | ★★ | ||
| 本庄大介 | 「ITO EN Singapore Pte.Ltd.」を設立。「ネオス」の株式を取得 | ★ | ||
| 本庄大介 | 「ITO EN(North America)INC.」が「Distant Lands Trading Co.」の株式を取得 | ★★ | ||
| 本庄大介 | 「神戸工場」を建設 | ★ | ||
| 本庄大介 | 「ITO EN Europe GmbH」を設立 | ★ | ||
| 本庄大介 | 「ITO EN VIETNAM CO.,LTD.」を設立 | ★ | ||
| 本庄大介 | 「北海道伊藤園」を設立 | ★ | ||
| 本庄大介 | 複合型博物館「お~いお茶ミュージアム」「お茶の文化創造博物館」をオープン | ★ |
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事実根拠:出所(伊藤園)