伊藤園 の歴史

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創業 1964年
創業者 本庄正則
創業地
創業
1964年8月、自動車販売で年間407台を売った本庄正則氏が、その蓄えで食料品卸の日本ファミリーサービスを設立した。卸売そのものは行き詰まったが、扱った商品で最も利益率が高かったのが包装茶で、1966年8月に合資会社ビーエー商会との共同出資で静岡市にフロンティア製茶を設立する。老舗の看板がなければ小売店が相手にしないため、1969年5月に東京・上野の茶商から『伊藤園』の商号を200万円で取得し、埼玉県川口市のバラックへ社員5人で移った。量り売りが常識だった茶葉をアルミ箔で密封し、産地直送と現金決済のルートセールスでスーパーの店頭を開拓して、1976年に包装茶で業界首位となった。
決断
茶葉の売り方ではなく、茶の飲まれ方のほうを変えてきた。1976年4月に茶産地育成事業を始めて契約栽培へさかのぼる一方、1979年8月には中国土産畜産進出口総公司と日本初の輸入代理店契約を結び、福建省産ウーロン茶の独占販売権を得た。この茶葉を原料に、1981年3月には家庭で作れる無糖の茶を缶で売る飲料事業へ参入した。役員12人のうち10人が反対したが、缶の製造は外注で設備投資が要らず、まったく売れなくても損失は年3億円と前年度の経常利益4億円で吸収できる計算が下振れを限定した。1985年2月には世界初の缶入り煎茶を出し、2007年9月には議決権のない第1種優先株式を東証一部へ上場し、創業家の議決権を薄めずに自己資本を厚くした。
現況
収益は現在も茶葉と茶飲料という単一の区分に集まっている。2025年4月期の連結売上高4,727億円のうちリーフ・ドリンク関連事業が4,203億円と89%を占め、営業利益230億円のうち190億円もこの区分が生んだ。2006年10月にフードエックス・グローブを取得して抱えたタリーズコーヒーの飲食関連事業は売上438億円・営業利益35億円にとどまり、人流が止まった2021年4月期には営業赤字に転じている。抽出と充填は全国の協力工場へ委託し、自社は契約農家からの荒茶調達と茶葉工場だけを保有する。設備を軽く保つこの分担が、原料高と値上げの局面でも営業利益率5%前後を維持させた。
競合
自ら開いた緑茶飲料の市場で、現在は追われる側に回っている。2000年3月にキリンビバレッジが『生茶』を出すと、大手7社間で40%超あった伊藤園のシェアは2001年5月に30%を割り込んだ。清涼感を売りにする競合品は冬に弱いと読んで同年10月に業界初のホット専用ペットボトルを1シーズン前倒しで発売し、季節限定と地域限定を重ねて40%台へ戻した。2004年にはサントリーが『伊右衛門』で参入し、自動販売機の台数で勝る日本コカ・コーラを加えた三つ巴が続く。競争優位の源泉は商品名ではなく、全国約3万軒の生産者から荒茶を集める調達網にある。
伊藤園:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年4月期2025年4月期

創業ストーリー 自動車セールスからの転身──包装茶のルートセールスで製茶業界首位へ (1964年〜)

自動車セールスの兄弟と日本ファミリーサービスの失敗

伊藤園の創業者・本庄正則氏は1934年、神戸に生まれた。父親の事業失敗で一家が財産を失い、早稲田大学法学部を働きながら卒業した後、自動車販売会社に入り、入社4年目に年間407台を売るトップセールスマンとなる[1]。1964年8月、その蓄えを元手に、食料品や調味料を扱う卸会社・日本ファミリーサービス株式会社を設立した[2]。伊藤園はこの1964年を創業の年と定めている[3]。卸売業そのものは失敗に終わったものの、扱った商品のなかで最も利益率が高かったのが、パック詰めの包装茶だった。兄弟がお茶専業へ転じた理由は、この利益率にあった。

  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [1]本庄正則は1934年神戸生まれ、早稲田大学法学部卒業後に自動車販売会社で入社4年目に年間407台を販売した
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [2]1964年に本庄正則が伊藤園の前身となる日本ファミリーサービスを設立した(創業は1964年8月)
    • [3]伊藤園は1964年を創業の年としている

1966年8月、日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資により、伊藤園の直接の前身であるフロンティア製茶株式会社が静岡県静岡市に設立された[4]。小売店へお茶を直接売り込むルートセールスをここから始める。ただし茶業界の慣習は厚く、小売店にはすでに仕入れ先があり、新参の製茶会社は相手にされなかった。弟の本庄八郎氏(1940年神戸生まれ、1963年早稲田大学法学部卒業)[5]は当時24歳で兄とともに設立に加わり、以後、兄が財務、弟が営業・商品開発という役割分担で経営を担った[6]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1966年8月に日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡県静岡市に設立し、緑茶のルートセールスを開始した
  • 日経ビジネス 1997年9月22日号
    • [5]本庄八郎は1940年8月神戸市出身、1963年3月早稲田大学法学部卒業、1966年8月に兄の正則氏らとフロンティア製茶を設立した
    • [6]兄・正則氏が財務面、弟・八郎氏が営業を中心に役割分担してきた
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [1]本庄正則は1934年神戸生まれ、早稲田大学法学部卒業後に自動車販売会社で入社4年目に年間407台を販売した
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [2]1964年に本庄正則が伊藤園の前身となる日本ファミリーサービスを設立した(創業は1964年8月)
    • [3]伊藤園は1964年を創業の年としている
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1966年8月に日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡県静岡市に設立し、緑茶のルートセールスを開始した
  • 日経ビジネス 1997年9月22日号
    • [5]本庄八郎は1940年8月神戸市出身、1963年3月早稲田大学法学部卒業、1966年8月に兄の正則氏らとフロンティア製茶を設立した
    • [6]兄・正則氏が財務面、弟・八郎氏が営業を中心に役割分担してきた

「伊藤園」の商号買収と包装茶のルートセールス

古い体質のお茶業界で販路を開くには老舗の看板が要ると考えた本庄正則氏は、1969年5月、東京・上野の老舗から『伊藤園』の商号を200万円で買い取り、フロンティア製茶を株式会社伊藤園に改称した[7]。資金は底をつく寸前で、埼玉県川口市のはずれの竹やぶに囲まれたバラックを事務所に借り、社員は弟を含めわずか5人だった[8]。この時期には4,000万円の手形詐欺にも遭い、銀行が融資を渋るなか、1970年には早稲田大学の後輩で代議士になりたての小渕恵三氏から500万円の出資を受けている[9]。同年6月には本庄商事(旧・日本ファミリーサービス)とビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受け[10]、生産部門を確保した。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1969年5月にフロンティア製茶から株式会社伊藤園に商号変更した
    • [10]1969年6月に本庄商事(旧・日本ファミリーサービス)とビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受けた
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [8]1969年に上野の老舗から「伊藤園」のブランドを200万円で買い取り、埼玉県川口市のバラックを事務所に社員5人で営業した
    • [9]1970年当時、小渕恵三が伊藤園に500万円を出資した

商いの武器は、量り売りが当たり前だった茶葉を小分けにする包装茶である。台頭してきたスーパーマーケットの店頭では茶葉が3日で湿気てしまうため置かれていなかったが、伊藤園はアルミ箔の袋で密封した包装茶を並べてもらうことに成功した[11]。産地直送・現金決済のルートセールスで量販に乗り出し、1968年には茶業界初のテレビCMを放映する[12]。参入から11年余りの1976年時点で、包装茶で業界首位の座を固めた。当時の社員は580人、平均年齢は25歳。営業マンを140項目で年4回査定して昇給に直結させる『ガラス張り人事考課』[13]が、急成長を支える仕組みとして注目された。

  • 日経ビジネス 1997年9月22日号
    • [11]スーパー向けにアルミ箔の袋で湿気を防いだ包装茶を店頭に並べることに成功した
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [12]1968年に茶業界初のテレビCMを放映し、産地直送・現金決済のルートセールスでお茶の量販に乗り出した
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [13]1976年時点で製茶業界に参入して11年余りで首位となり、社員580人・平均年齢約25歳、営業マンは140項目を年4回査定する人事考課を公開していた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1969年5月にフロンティア製茶から株式会社伊藤園に商号変更した
    • [10]1969年6月に本庄商事(旧・日本ファミリーサービス)とビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受けた
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [8]1969年に上野の老舗から「伊藤園」のブランドを200万円で買い取り、埼玉県川口市のバラックを事務所に社員5人で営業した
    • [9]1970年当時、小渕恵三が伊藤園に500万円を出資した
  • 日経ビジネス 1997年9月22日号
    • [11]スーパー向けにアルミ箔の袋で湿気を防いだ包装茶を店頭に並べることに成功した
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [12]1968年に茶業界初のテレビCMを放映し、産地直送・現金決済のルートセールスでお茶の量販に乗り出した
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [13]1976年時点で製茶業界に参入して11年余りで首位となり、社員580人・平均年齢約25歳、営業マンは140項目を年4回査定する人事考課を公開していた

製販一体の布石──相良工場・茶産地育成・中国との縁

販売網が整うと、伊藤園は川上へさかのぼる投資を進めた。1974年5月、静岡県榛原郡相良町(現・牧之原市)に静岡相良工場を建設し[14]、茶葉の生産から販売までの一貫体制を敷く。1976年4月には耕作放棄地などを茶園に転換する茶産地育成事業を始め[15]、農家との契約栽培という、当時の業界では前例のない製販一体の作戦へ乗り出した[16]。1977年6月には直営小売店第1号『茶十徳・日吉店』を神奈川県横浜市に開いている[17]。小売の売り場と茶畑の両端を押さえたこの体制が、後の飲料事業では原料調達力の下地になる。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1974年5月に静岡県榛原郡相良町に静岡相良工場を建設した
    • [15]1976年4月に茶産地育成事業の展開を開始した
    • [17]1977年6月に直営小売店第1号「茶十徳・日吉店」を横浜市に開設した
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [16]農家との契約栽培は業界でも前例のない製販一体の作戦と報じられた

次の商材は、中国からの視察団が運んできた。1977年11月、日中国交正常化から間もない時期に中国食品加工技術機械視察団が静岡の製茶工場を訪れ、本庄正則社長が半日がかりで案内した。その席で福建省のウーロン茶を勧められたことがきっかけとなり、伊藤園は年間2億円規模の茶葉輸入を始める[18]。1979年8月には中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を結び[19]、福建省産ウーロン茶の独占販売権を手にした。1979年からのウーロン茶ブームで茶葉販売は潤い、『日本のウーロン茶の葉の6割以上は当社が扱っている』[引用元]と本庄正則社長が語る[20]体制ができあがった。

  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [18]1977年11月に中国食品加工技術機械視察団が伊藤園の工場を見学し、懇親会で団長からウーロン茶の話が持ちかけられ、3年契約で年間2億円分の輸入を始めた
    • [20]1989年時点で本庄正則氏は「日本のウーロン茶の葉の6割以上は当社が扱っている」と述べた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1979年8月に中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を締結した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1974年5月に静岡県榛原郡相良町に静岡相良工場を建設した
    • [15]1976年4月に茶産地育成事業の展開を開始した
    • [17]1977年6月に直営小売店第1号「茶十徳・日吉店」を横浜市に開設した
    • [19]1979年8月に中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を締結した
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [16]農家との契約栽培は業界でも前例のない製販一体の作戦と報じられた
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [18]1977年11月に中国食品加工技術機械視察団が伊藤園の工場を見学し、懇親会で団長からウーロン茶の話が持ちかけられ、3年契約で年間2億円分の輸入を始めた
    • [20]1989年時点で本庄正則氏は「日本のウーロン茶の葉の6割以上は当社が扱っている」と述べた

役員12人中10人が反対した缶入りウーロン茶

1981年初めの役員会で、缶入りウーロン茶を発売すべきかが諮られた。12人の役員のうち反対は10人。賛成は本庄正則社長と、開発を担当していた実弟の本庄八郎副社長の2人だけだった[21]。当時の缶入り飲料はコーラやコーヒーなど甘いものばかりで、家庭で簡単に作れる無糖のお茶に100円を払う消費者がいるとは誰も考えなかった。それでも踏み切った背景には、緑茶の一世帯当たり消費量が1973年の2,024グラムをピークに減り続け[22]『6月から9月の暑い時期には売れないのがお茶屋の商売』[引用元]という構造的な限界があった。当時の伊藤園は業界初の売上高100億円企業だったが、事業は日本茶の生産・販売だけだった[23]

  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [21]1981年初めの役員会で缶入りウーロン茶の発売に12人中10人の役員が反対し、賛成は本庄正則社長と本庄八郎副社長のみだった
    • [22]緑茶の一世帯当たり消費量は1973年の2024グラムをピークに減少を続けていた
    • [23]当時の伊藤園は業界初の売上高100億円企業で、事業は日本茶の生産・販売だけだった

1981年3月、無糖茶飲料『缶入りウーロン茶』の全国販売が始まり、伊藤園は缶飲料業界へ本格参入した[24]。ターゲットは新しい需要を掘り起こす若者と定め、夏向け飲料の常識に反して真っ黒な缶を採用する。缶の製造は外注のため設備投資は不要で、全く売れなくても損失は年間3億円程度、前年度の経常利益約4億円[25]で吸収できるという計算が役員会を納得させた。発売当初の売れ行きは鈍かったが、10カ月遅れでサントリーが参入したことで知名度が一気に高まり、市場は急拡大する。1989年時点で参入メーカーは100社を超え、市場規模は2,000億円近くに達した[26]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1981年3月に無糖茶飲料「缶入りウーロン茶」の全国販売を開始し、缶飲料業界に本格進出した
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [25]缶の製造は外注で設備投資が不要、売れなくても損失は年間3億円程度で、1979年度の経常利益約4億円と比較して倒産しないと判断した
    • [26]発売から10カ月後にサントリーが新規参入して知名度が高まり、1989年時点で参入メーカーは100社超・市場規模は2000億円近くになった
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [21]1981年初めの役員会で缶入りウーロン茶の発売に12人中10人の役員が反対し、賛成は本庄正則社長と本庄八郎副社長のみだった
    • [22]緑茶の一世帯当たり消費量は1973年の2024グラムをピークに減少を続けていた
    • [23]当時の伊藤園は業界初の売上高100億円企業で、事業は日本茶の生産・販売だけだった
    • [25]缶の製造は外注で設備投資が不要、売れなくても損失は年間3億円程度で、1979年度の経常利益約4億円と比較して倒産しないと判断した
    • [26]発売から10カ月後にサントリーが新規参入して知名度が高まり、1989年時点で参入メーカーは100社超・市場規模は2000億円近くになった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1981年3月に無糖茶飲料「缶入りウーロン茶」の全国販売を開始し、缶飲料業界に本格進出した

開発8年の缶入り煎茶と「お〜いお茶」への改名

次の標的は本業の緑茶だった。緑茶は渋味成分のタンニンが缶の中の空気で酸化しやすく、焼きイモに似たにおいが出るため、缶飲料化は不可能とされてきた。酸素を遮断してにおいを消す技術開発には8年の歳月と膨大な開発費がかかり、その間、本庄正則社長は研究部門にほとんど口を挟まず、開発は弟の八郎氏が率いた[27]。1985年2月、世界初の緑茶飲料『缶入り煎茶』の全国販売が始まる[28]『飲料として売られるお茶にお金を払ってくれる人が少なかった』[引用元]時代で、業界の内外から『こんなものは売れるはずがない』[引用元]と笑われた[29]本庄八郎氏は後に振り返っている。

  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [27]緑茶の酸化とにおいを防ぐ技術開発には8年の歳月がかかり1985年に完成、開発を率先したのは本庄八郎だった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1985年2月に緑茶飲料「缶入り煎茶」を全国販売開始した
  • 日経ビジネス 2004年3月1日号
    • [29]1985年に日本で初めて缶入り緑茶を発売した当時、業界内外から「こんなものは売れるはずがない」と笑われたと本庄八郎社長が語った

1989年2月、『缶入り煎茶』は『お〜いお茶』ブランドに改称された[30]。名前は、1968年から放映してきたテレビCMで全国に広まったフレーズを商品名に採用したものである。同年11月には応募句をパッケージに載せる『伊藤園お〜いお茶新俳句大賞』を始め、1990年には世界初のペットボトル入り緑茶飲料を発売した[31]。急須のお茶を屋外へ持ち出すという発想は、自動車の普及と共働き世帯の増加という生活の変化に重なり、緑茶飲料はスーパー・コンビニ・自動販売機へ販路を広げた。1987年7月には米国ハワイ州に現地法人を設立し[32]、海外展開の足場も作り始めた。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1989年2月に「缶入り煎茶」から名称変更し「お〜いお茶」ブランドとして販売開始、1989年11月に新俳句大賞キャンペーンを開始した
    • [32]1987年7月に米国ハワイ州にITO-EN(USA)INC.を設立した
    • [31]1968年のテレビCMで「お〜いお茶」のフレーズが全国に広まり、1989年にこのフレーズを商品名に採用、1990年に世界初のペットボトル入り緑茶飲料を発売した
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [27]緑茶の酸化とにおいを防ぐ技術開発には8年の歳月がかかり1985年に完成、開発を率先したのは本庄八郎だった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1985年2月に緑茶飲料「缶入り煎茶」を全国販売開始した
    • [30]1989年2月に「缶入り煎茶」から名称変更し「お〜いお茶」ブランドとして販売開始、1989年11月に新俳句大賞キャンペーンを開始した
    • [32]1987年7月に米国ハワイ州にITO-EN(USA)INC.を設立した
  • 日経ビジネス 2004年3月1日号
    • [29]1985年に日本で初めて缶入り緑茶を発売した当時、業界内外から「こんなものは売れるはずがない」と笑われたと本庄八郎社長が語った
    • [31]1968年のテレビCMで「お〜いお茶」のフレーズが全国に広まり、1989年にこのフレーズを商品名に採用、1990年に世界初のペットボトル入り緑茶飲料を発売した

兄から弟への社長交代と株式店頭公開

1988年、本庄正則氏は社長の座を弟の八郎氏に譲り、会長に就いた[33]『弟だから社長にするのか』[引用元]という声に対し、正則氏は『いちばん信頼できる部下だから社長に選んだに過ぎない』[引用元]と反論している。この年の売上高は375億円(前期比17%増)で、内訳は緑茶が4割、ウーロン茶が4割、その他飲料が2割[34]。お茶屋から飲料メーカーへの転換は数字の上でも進んでいた。1992年5月には日本証券業協会に株式を店頭登録し[35]、創業から28年で株式公開を果たす。1970年に500万円を出資した小渕恵三氏の株式も、この上場で相当な財産になったと報じられた。

  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [33]1988年に本庄正則が実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任した
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [34]1988年の売上高は375億円(前期比17%増)で緑茶4割・ウーロン茶4割・その他飲料2割だった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1992年5月に日本証券業協会に店頭登録した

海外にも布石を打った。1994年9月、中国浙江省に茶葉加工の合弁会社・寧波舜伊茶業有限公司を、豪州ビクトリア州に販売現地法人をそれぞれ設立する[36]。国内では自動販売機の増設を進め、注文取りと商品補充を1人の営業担当が兼ねる独自の営業体制で、設置場所ごとに商品構成を細かく変える運用を磨いた[37]。緑茶・ウーロン茶・紅茶の無糖茶を軸に紅茶や野菜飲料も加わり、1990年代半ばの伊藤園は『世界の3大茶を売るメーカー』[引用元]を掲げる[38]総合茶飲料メーカーへ姿を変えつつあった。店頭公開で得た信用と資金は、茶系飲料の量産投資と海外進出の裏づけになった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1994年9月に中国浙江省に寧波舜伊茶業有限公司、豪州ビクトリア州にITO EN AUSTRALIA PTY.LIMITEDを設立した
  • 日経ビジネス 1997年9月22日号
    • [37]1人の従業員が商品の納品と注文取りを兼ね、自販機の設置場所に応じて商品構成を工夫する営業体制をとった
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [38]1989年時点のキャッチフレーズは「世界の3大茶を売るメーカー」で日本茶・紅茶・中国茶を販売していた
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [33]1988年に本庄正則が実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任した
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [34]1988年の売上高は375億円(前期比17%増)で緑茶4割・ウーロン茶4割・その他飲料2割だった
    • [38]1989年時点のキャッチフレーズは「世界の3大茶を売るメーカー」で日本茶・紅茶・中国茶を販売していた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1992年5月に日本証券業協会に店頭登録した
    • [36]1994年9月に中国浙江省に寧波舜伊茶業有限公司、豪州ビクトリア州にITO EN AUSTRALIA PTY.LIMITEDを設立した
  • 日経ビジネス 1997年9月22日号
    • [37]1人の従業員が商品の納品と注文取りを兼ね、自販機の設置場所に応じて商品構成を工夫する営業体制をとった

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伊藤園の沿革1966〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1964〜1980年自動車セールスからの転身──包装茶のルートセールスで製茶業界首位へフロンティア製茶を設立
緑茶のルートセールスを開始★★
「伊藤園」に商号変更
静岡相良工場を新設
茶産地育成事業の展開を開始★★
直営小売店第1号「茶十徳・日吉店」を開設
日本初のウーロン茶輸入代理店契約を締結★★
1981〜1995年缶入りウーロン茶と缶入り煎茶──常識に逆らった無糖飲料市場の創造中国産ウーロン茶の独占輸入から缶入りウーロン茶へ、無糖飲料で飲料業界に進出

1979年8月に中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶の輸入代理店契約を結んで福建省産の独占販売権を得た伊藤園が、1981年3月、無糖の『缶入りウーロン茶』を全国発売して缶飲料業界へ本格参入した経営判断。

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★★★
緑茶飲料「缶入り煎茶」を全国販売開始★★
静岡相良工場敷地内に中央研究所を新設
ITO-EN(USA)INC.(後のITO EN(USA)INC.)を設立
本庄八郎「お~いお茶」ブランドとして発売★★
本庄八郎日本証券業協会に店頭登録
本庄八郎「寧波舜伊茶業有限公司」を設立
1996〜2007年東証上場と緑茶飲料戦争──「生茶」の衝撃とシェア奪還の商品開発本庄八郎東京証券取引所市場第一部銘柄に指定
本庄八郎ロイヤルスペンサーが玄米屋を吸収合併
本庄八郎関西茶業の株式を取得
本庄八郎ITO EN(North America)INC.を設立
本庄八郎「ITO EN(North America)INC.」が「Mason Distributors,Inc.」の株式を取得
本庄八郎フードエックス・グローブの株式取得によるタリーズコーヒー日本事業の子会社化

2006年10月、伊藤園がタリーズコーヒーの日本事業を運営するフードエックス・グローブ(現・タリーズコーヒージャパン)の株式を取得し、51%を握って連結子会社とした経営判断。買収総額は57億円強であった。

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★★★
本庄八郎議決権のない第1種優先株式を東証一部に上場した資本政策

2007年9月、伊藤園が普通株式1株につき0.3株の割合で第1種優先株式を無償割当し、東京証券取引所市場第一部に上場させた資本政策。議決権を持たない代わりに普通株式の125%の配当を受ける設計で、日本の上場第1号となった。

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★★★
2008〜2026年三代目・本庄大介体制──買収と海外展開で世界のティーカンパニーへ本庄八郎「伊藤園・伊藤忠ミネラルウォーターズ」を設立
本庄大介「チチヤス」の株式を取得★★
本庄大介「ITO EN Singapore Pte.Ltd.」を設立。「ネオス」の株式を取得
本庄大介「ITO EN(North America)INC.」が「Distant Lands Trading Co.」の株式を取得★★
本庄大介「神戸工場」を建設
本庄大介「ITO EN Europe GmbH」を設立
本庄大介「ITO EN VIETNAM CO.,LTD.」を設立
本庄大介「北海道伊藤園」を設立
本庄大介複合型博物館「お~いお茶ミュージアム」「お茶の文化創造博物館」をオープン
出典・参考

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