損害保険ジャパン第一生命との包括業務提携と、生保営業職員を通じた損害保険販売の開始
規模で並ぶか、販路を借りるか——損保再編のさなかに業界2位が選んだ生損保の縦の提携
- 概要
- 2000年9月、業界2位の安田火災海上保険が、生保2位の第一生命保険と「最強・最優の生損総合保険グループ」を掲げる包括業務提携を結んだ経営判断。第一生命が安田火災の損害保険代理店となって営業職員が損保商品を売り、第一生命の損保子会社である第一ライフ損害保険は安田火災が合併する設計であった。損保同士で規模を足し合わせるより先に、他社の売り手を借りるほうへ手をつけた。
- 背景
- 1996年の保険業法改正で生損保の相互参入が解禁され、上位各社は競って子会社を設立したが、全体として当初見込んだ成果は出ていなかった。とりわけ生保系の損保子会社は苦しく、第一ライフ損保の1999年度の正味収入保険料は約150億円と、事業計画の7〜8割にとどまっていた。損保側では保険料の値下げ競争が始まっており、平野浩志社長は代理店網に手をつけない方針を掲げていた。増収を続けるには、代理店の外に売り手が要った。
- 内容
- 金融庁が2000年8月に、保険会社同士が販売代理契約を結んで相互に商品を売ることを認める方針を示したことで交渉が加速した。両社は商品を相互に供給し、2001年上期をめどに第一生命が安田火災の損保代理店となり、2002年度に安田火災が第一ライフ損保を合併するという段取りを決めた。第一生命は損保のメーカー機能を手放し、安田火災は第一生命の営業職員という販売ルートを得た。
- 含意
- 2003年度の自動車保険の営業成績で、損害保険ジャパンが125周年の東京海上を初めて上回った。その差を分けた要因の一つが第一生命ルートの推定300億円の自動車保険収入だったとされる。一方で安田火災は提携の2カ月後に日産火災・大成火災との合併に合意しており、提携が損保同士の合併の代わりになったわけではない。
販路を借りるという選び方
平野浩志社長は1999年の時点で、代理店制度が機能しているとして販売方法を変えるつもりはないと語っていた。その前提のまま増収を続けるなら、売り手は外から調達するほかない。第一生命の営業職員が、その調達先であった。生保への参入でも自前の会社を作らずアイ・エヌ・エイひまわり生命に出資しており、足りない機能は買わずに借りるという選び方が一貫している。金融庁が保険会社同士の販売代理を認める方針を示した2000年8月に交渉が一気に煮詰まったのも、選び方が先にあったからである。
提携が損保同士の合併の代わりになったわけではない。2カ月後に安田火災は日産火災・大成火災との合併に合意し、規模と販路の両方を取りにいった。2003年度に自動車保険で東京海上を初めて上回った成績にも、第一生命ルートの推定300億円という数字と、4社が集まった会社であるという事実の両方が入っている。提携単独の効果は切り出せない。それでも、料率自由化のもとで売り手をどこから調達するかが増収を左右した時期に、他社の営業職員という販売網を先に押さえた。この判断の中身はそこにある。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
計画に届かなかった生損保の相互参入
1996年の保険業法改正で生損保の相互参入が解禁され、上位各社は競うように子会社を設立した。しかし数年を経ても、全体としては当初見込んだ成果が出ていなかった。とりわけ深刻だったのが生保系の損保子会社で、第一生命の子会社である第一ライフ損保の1999年度の正味収入保険料は約150億円と、第一生命自身が「事業計画に比べ七~八割の規模」と認める水準にとどまった。参入時には予想もしなかった競争激化のなかで、単独では将来の展望が描けなくなっていた[1]。
安田火災の生保参入も、他社とは形が違っていた。子会社を新設した各社に対し、同社はアイ・エヌ・エイひまわり生命との提携強化を選び、1999年3月に出資比率を39%へ引き上げて将来の子会社化を計画した。確定拠出年金では米シグナと組み、長銀関連のベンチャーキャピタル部門も安田生命とともに買収している。損保本業で細る利益を新分野で補う算段であった。自前で一から作らず、すでに動いている会社と組む。第一生命との提携も、同じ選び方の延長にある[2]。
代理店網を変えないという前提
1999年4月に社長へ就いた平野浩志氏は、料率自由化で市場全体の減収が避けられないとされたなかで、自社は1999年度の収入保険料をプラスにすると言い切っていた。新自動車保険「カーオーナーズ保険」を牽引役に、同年1〜3月には既存損保でトップの増収率を記録している。掲げたのは徹底したマーケット志向と俊敏な行動で、規制のもとで磨かれてこなかった商品開発力の立て直しに力を入れた[3]。
ただし平野社長は、売り方そのものを変える考えは示していなかった。当時の安田火災は約1万2000人の社員と7万を超える代理店を抱えており、販売が爆発的に伸びているのは代理店制度が機能しているからだとして、従来の代理店チャネルを変えるつもりはないと明言している。代理店を一律に選別するのではなく、グループに分けて特性に合った政策を採るという方針であった。既存の販路を否定せずに増収を続けるなら、代理店網の外側に別のルートを足すしかなかった[4]。
決断
行政の転換と、7月末からの加速
交渉を動かしたのは行政の変化であった。金融庁は2000年8月、保険会社同士が販売代理契約を結び、相互に商品を販売することを認める方針を明らかにした。それまで保険会社はメーカー機能と販社機能を併せ持つ存在とされてきたが、この転換で、商品の製造を他社に委ねて売り手に徹する形が認められた。当局の方針を読み込んだ両社の協議は急速に煮詰まり、平野社長は交渉が「7月末から一気に加速した」と語っている[5]。
損保分野の取り決めは明快であった。第一生命は2001年上期をめどに安田火災の損害保険代理店となり、営業職員などが安田火災の損保商品を売る。2002年度には安田火災が第一ライフ損保を合併する。第一生命は損保のメーカー機能を手放す代わりに、それを維持する重い負担から解放され、安田火災は第一生命の営業職員という新しい販売ルートを手に入れる。森田富治郎社長は「今回のキーワードはアウトソーシング」と述べ、何でも自前でそろえる重装備の体制を見直す提携だと位置づけた[6][7]。
統合はしない、という線引き
生保分野は、そこまで詰まっていなかった。安田火災の関連会社であるアイ・エヌ・エイひまわり生命は提携後も存続し、医療保険など第三分野に主力を置く。第一生命が供給する第一分野商品との差別化はある程度図れるとしても、線引きは不透明なまま残った。両社は経営統合の可能性はないと明言しており、資本で一体化しないまま生損保の総合グループを名乗った。当時の評価も「大きな可能性を秘めているが、現時点ではまだ具体性に乏しい」というものであった[8][9]。
提携の合意は、損保業界の再編と同じ時期に置かれている。1999年10月の三井海上・日本火災・興亜火災の統合構想を機に他社が相手探しを急ぐなかでも、安田火災は「強力な体質の会社にすることが第一。焦って嫁さん探しはしない」(宮川昌夫副社長)と損保同士の合併には慎重であり続け、代わりに第一生命との包括提携によって、みずほグループの保険分野は両社が主導権を取ることを明確にした。規模で追いつくより先に、他社の販売網を押さえた[10]。
結果
第一ライフ損保の合併と、動き出した販路
合併の段取りは、計画どおり進んだ。2002年3月27日、金融庁は安田火災と第一ライフ損保の事業再構築計画を認定し、両社は4月1日を期日として合併した。合併比率は第一ライフ損保の普通株式1株に対し安田火災の普通株式160株で、合併後の資本金は614億円となった。認定資料には、合併新会社が「第一生命保険相互会社との包括業務提携を軸とした『最強・最優の生損総合保険グループ』戦略を展開していく」と記されている。発足前の「損害保険ジャパン」構想は、この提携を前提に組まれていた[11][12]。
数字にも表れた。2001年度の収入保険料で中堅以下の各社が軒並み前年割れとなるなか、安田火災の伸びは目立った。第一ライフ損保の営業譲渡を受けたことと、破綻した大成火災の顧客を2001年11月末から取り込んだことが、合わせて200億円を超える増収要因として働いたためである。2002年度についても、第一生命の営業職員による販売代理と銀行窓販が好調で、基調は強いとみられていた。生保の営業職員という売り手は、提携から2年たたずに収入保険料の数字になった[13][14]。
2003年度の首位交代と、その読み方
2003年度の自動車保険の営業成績速報値で、創業125周年を迎えた東京海上が初めて首位の座を損保ジャパンに譲った。両社の差は44億円という僅差であった。アナリストらは差を分けた要因として「生保を中心とした提携戦略と日産自動車のシェア割」を挙げ、損保ジャパンは提携する第一生命ルートで推定300億円の自動車保険収入を上げたとされる。東京海上の側は朝日生命との提携が細々と続くだけで、実績は数十億円程度と見られていた[15][16]。
首位交代を提携の成果と読むには留保がいる。損保ジャパンは安田火災・第一ライフ損保・日産火災・大成火災の4社が集まった会社であり、東京海上も日動火災との合算では自動車保険で1950億円の差をつけていた。市場そのものが2年連続で縮小し、両社とも前年割れのなかでの首位争いでもあった。加えて安田火災は、提携の2カ月後にあたる2000年11月に日産火災・大成火災との合併で合意している。生保の営業職員を借りたことが、損保同士の合併を止めたわけではない[17][18][19]。
- 週刊東洋経済 1999年5月1日号「キーパーソン 安田火災海上保険社長 平野浩志」
- 週刊東洋経済 2000年9月9日号「野望『最強・最優』への道険し 第一生命、安田火災提携」
- 週刊東洋経済 2000年11月18日号「一巡合併の決断迫られた安田火災 損保再編の第一幕は終了へ」
- 金融庁(2002年3月27日)「安田火災海上保険株式会社及び第一ライフ損害保険株式会社の産業活力再生特別措置法に基づく事業再構築計画について」
- 週刊東洋経済 2002年4月20日号「自由化の影響 損害保険再編で二極分化が鮮明に 課題抱えたあいおい損保」
- 週刊東洋経済 2004年4月24日号「東京海上『生・損保』帝国への試練 国内損保 自動車保険125年で初の首位陥落」