損害保険ジャパンゴッホ「ひまわり」の落札と、安田火災東郷青児美術館での一般公開

資産か、広告か、企業の務めか——損保2位が一枚の絵に投じた53億円を、後藤康男社長はどう説明したか

時期 1987年3月
意思決定者(推定) 後藤康男 社長
論点 企業の文化事業と知名度
概要
1987年3月30日、安田火災海上保険がロンドンのクリスティーズでフィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》を約53億円で落札した経営判断。当時としては絵画に付いた最高の価格であり、後藤康男社長が上限を決めずに社員を競売へ送り出した。同年10月、本社ビル42階の美術館を「安田火災東郷青児美術館」と改称して一般公開を始めた。
背景
同社は1976年に本社ビル42階へ東郷青児美術館を開き、代々の社長が芸術家を支えてきた。ただし館蔵の最高額は岸田劉生の8000万円ほどで、集客の核となる作品を欠いていた。損保2位の座は動かない一方、業績の伸びは止まっていた。後藤社長は「美術館の目玉が欲しい」と考えていた。
内容
1987年2月26日の東京下見会で後藤社長が実物を見て購入を決めた。下見会時点の予想価格は20億円、競売前日の新聞報道では40億円。社員から上限の設定を求められた後藤社長は枠を示さず、「20億円だったら20億円の値打ちだし、100億円で落ちたら100億円の作品だ」と送り出した。最後まで競ったオーストラリアの実業家アラン・ボンド氏の代理人が50億円台で躊躇し、5秒足らずで落札が決まった。
含意
後藤社長は落札の効果を、資産価値ではなく「200カ国以上の国でうちの会社のことがニュースになった」ことに置いた。美術館で見せると分かった途端、高すぎるという批判の調子も変わった。1990年に125億円で落札されたゴッホ《医師ガシェの肖像》が公開されないまま所在不明となったのに対し、《ひまわり》は2020年のSOMPO美術館移転後も同じ街で公開が続いている。
筆者の見解

値付けを放棄した保険会社

損害保険は、起こりうる損害を確率と統計で見積もり、それに見合う対価を決める商売である。その会社のトップが、20億円と聞かされていた絵に上限を決めず社員を送り出した。「20億円だったら20億円の値打ちだし、100億円で落ちたら100億円の作品だ」という言葉は、値付けの根拠を自社の外に委ねる宣言でもあった。館蔵の最高額が岸田劉生の8000万円だった美術館にとって、53億円は桁が二つ違う買い物である。

落札が事業に何をもたらしたかは、確かめにくい。200カ国で報じられたという効果は後藤社長本人の言葉であって、収入保険料や契約件数の伸びには分解できない。真贋論争の決着には15年を要してもいる。それでも、125億円のゴッホが公開されないまま行方を絶ったのに対し、53億円のゴッホは新宿の同じ街区で見せ続けられている。後年の評価を分けたのは、いくらで買ったかではなく、買ったものをどこに置いたかであった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

本社ビル42階の美術館

安田火災海上保険は1976年7月、新宿の本社ビル42階に東郷青児美術館を開いた。開館には洋画家の東郷青児氏が協力している。翌1977年3月には東郷青児美術館大賞と財団奨励賞を設け、1978年4月には東郷氏の逝去にともない遺族から美術作品345点の寄贈を受けた。後藤康男社長は、代々の社長がパトロンのようになって芸術家を育て、東郷氏の絵を扇子やふろしき、カレンダーに使ってきたと語っている[1][2]

その収蔵品に、人を呼ぶ核はなかった。館蔵の岸田劉生でおよそ8000万円、《ひまわり》の前に買ったルノワールの2点を合わせても3億7000万円である。後藤社長は「美術館の目玉が欲しい」と考えていたと、落札の翌年に振り返っている。開館から10年を経てなお、本社ビルの高層階にある企業美術館の一つにとどまっていた[3]

業界2位という位置

後藤康男氏が社長に就いたのは1983年2月である。1948年に入社し、働きながら法政大学に学んで1951年に卒業した経歴を持ち、常務・専務・副社長を経ての昇格であった。就任時の同社は業界2位の地位こそ揺るがなかったものの、過去の華々しい業績の伸びは頭打ちになっていた。就任直後の取材では、麻雀を引き合いに「強気と決めたらこれ一本槍。ケガが大きい時もあるがトータルで勝てばいい」と語っている[4]

損保の稼ぎ方も変わりつつあった。後藤社長の説明では、補償行為が主たる業務だった時代から、積立資金を運用して収益を出す時代へ質的に転換していた。元受の種目構成も入れ替わり、かつて5割ずつを占めた火災と海上は火災15%・海上4%まで下がり、自動車が5割を超えていた。社名の「火災海上」はもはや体を表していない、と後藤社長自身が認めている[5]

決断

枠を決めずに送り出す

1987年2月26日、後藤社長は東京で開かれた下見会で《ひまわり》の実物を見た。「『すごい』と体に電流が走る思いでした」と、翌年のインタビューで語っている。この時点で伝えられていた予想価格は20億円である。それが前評判を呼び、競売前日の新聞では40億円と報じられるまでに上がった。ロンドンへ向かう社員は、後藤社長に「枠を決めてくれ。でないと行かない」と上限の設定を求めた[6]

後藤社長は枠を示さなかった。「ひまわりは絶対に取ろうじゃないか。20億円だったら20億円の値打ちだし、100億円で落ちたら100億円の作品だ。文化とか美術品の価値とはそういうものではないか」と社員を送り出したという。会場では、社員が腕組みを解かないかぎり降りないという合図を代理人と決めていた。値の上限ではなく、降りない意思のほうを取り決めて臨んだ競売であった[7]

1987年3月30日、ロンドンのクリスティーズで安田火災は《ひまわり》を約53億円で落札した。当時としては絵画に付いた最高の価格である。最後まで競ったのはオーストラリアの実業家アラン・ボンド氏で、価格が50億円の大台に乗ったところで、同氏が代理人に立てた英国の画商が躊躇した。時間にして5秒足らず、その間に落札決定の木づちが叩かれている[8][9]

何を買ったのか

買った当初、批判は世界中から寄せられた。競売を知らない者からは、安田火災が術策にはまって高いものを買わされたのではないか、という見方も出ている。後藤社長はこれを退けた。世界的に知られたボンド氏が自ら「負けた」と伝えてきたこと自体が、公明正大な競売であった証明になる、という理屈であった。ボンド氏は落札価格以上での引き取りと5年間の預かりを申し出たが、譲らなかった[10]

後藤社長が落札の効果として真っ先に挙げたのは、資産としての値上がりでも、絵そのものの美しさでもなかった。「200カ国以上の国でうちの会社のことがニュースになったことの意味のほうが大きい。世界で日本の損保会社を知っている人なんていなかったけれど、ゴッホの絵を買った日本の損保会社として知られるようになりました」。海外へ出張した社員がゴッホのパンフレットを見せると信用される、とも語っている[11]

後藤社長はもう一つ、企業と文化の関係から説明している。かつては大富豪が文化を支えたが、日本ではその役割を企業が果たさなければならない、という持論であった。「企業は力と徳がなければ社会的存在として認められないし、会社の発展もない」とも述べている。会長となった1994年には、渋沢栄一の「論語と算盤」を引きながら、業界2位である以上は新しい挑戦を掲げなければ首位にはなれないと語った[12][13]

結果

公開するという方針

落札から半年後の1987年10月、安田火災は美術館の名を「安田火災東郷青児美術館」に改め、《ひまわり》の一般公開を始めた。後藤社長によれば、批判の調子が変わったのはこの方針が伝わってからである。「美術館で公開することがわかった途端、特にアメリカのマスコミ論調は変わりましたよ」。買って囲い込むのではなく人に見せる場所を先に持っていた点が、この落札を同時期の他の買い手と分けた[14][15]

文化事業そのものも広がった。1988年秋には創業100年を記念してソ連のエルミタージュ美術館から印象派を中心に90点ほどを借り受け、9月10日から本社の美術館で公開したのち、京都と名古屋を巡回させている。準備には2年を要した。若手の支援では特定の作家を抱える形をやめ、毎年のコンテストで優秀作に報奨金を出す方式に改めた。「安田火災美術財団奨励賞」は1989年春で8回目を数えている[16]

真贋論争と、残ったもの

《ひまわり》は買われた後も静かではなかった。クリスティーズが真作を保証していたにもかかわらず、この作品は長く真贋論争にさらされている。決着がついたのは落札から15年後の2002年3月で、オランダのゴッホ美術館が「真作に間違いなし」と判定した。落札の価格についても、後藤社長が語る53億円のほか、後年の報道では58億円という数字が用いられている[17]

バブル期に日本へ渡った名画の多くは、《ひまわり》と違う終わり方をした。1990年5月、大昭和製紙の斉藤了英名誉会長がニューヨークでゴッホ《医師ガシェの肖像》を125億円で落札したが、一般に公開されないまま所在が分からなくなった。1989年に73億8000万円で買われたピカソ《ピエレットの婚礼》も、買い手の倒産で担保に取られている。《ひまわり》は海外流出を免れ、2020年7月に移った新美術館棟で公開が続いている[18][19]

出典・参考

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