アサヒグループHD味の全面転換に社運を賭けた「アサヒスーパードライ」の発売

シェア1割割れ寸前の名門は、なぜ似たり寄ったりの味に安住する寡占市場で「味を変える」賭けに出たか

時期 1987年3月
意思決定者(推定) 樋口廣太郎 社長
論点 主力商品の味の全面転換とブランド集中
概要
1987年3月、朝日麦酒(現アサヒグループHD)が辛口の生ビール「アサヒスーパードライ」を発売した経営判断。シェア10%割れ寸前まで沈んだ業界最下位級のメーカーが、寡占4社で似通っていたビールの味の全面転換に踏み切り、金融収益を原資とする大量の広告投資と増産・鮮度管理を同時に動かした。
背景
1949年の大日本麦酒分割以降シェアは下がり続け、1980年代前半には10%を割るかどうかの瀬戸際に立った。住友銀行出身の村井勉氏がCI導入による意識改革を進め、1986年には同じ住友銀行出身の樋口廣太郎氏が社長へ就任。同年2月の「コク・キレ」刷新で、味を変えれば市場が動くという手応えを得ていた。
内容
技術陣が12種類の試作ビールで消費者試飲を重ねて絞り込んだ辛口の生ビールを、1987年3月に発売した。時価発行増資などで積み増した運用資産の金融収益を広告・販促に投じ、1987年の販売促進費は前年比125億円増の380億円に達した。売れ行きを受けて年間計画100万箱を800万箱へ上方修正し、古いビールの買い上げ廃棄で鮮度を守った。
含意
シェアは12.9%(1987年)から24.9%(1989年)まで急回復し、1998年には45年ぶりの年間首位奪取に至った。一方で1989年度の営業利益率は1.7%と薄く、金融収益と巨額設備投資に支えられた膨張は、1990年の成長鈍化とともに単一ブランド依存の危うさも露呈させた。
筆者の見解

失うものの少なさと、時代の追い風

この決断の中心には、失うものの少なさという逆説がある。シェアが1割を割る瀬戸際まで沈んだ企業であったがゆえに、既存の主力の味を捨てて全面転換に踏み切れた。半分近い市場を握るキリンには、既存顧客の味を裏切る同じ賭けができない——高いシェアがかえって動きを縛る非対称は、各社のドライ追随が先発のアサヒを利するだけに終わった経過にも表れている。銀行出身の樋口社長が、味の決定を作り手の誇りではなく消費者の試飲に委ねた割り切りも、業界の外から来た経営者であればこそ可能だったとみることができる。

同時に、この成功は味の革新だけでは説明がつかない。株高の時代に増資と社債で積んだ運用資産の金融収益が広告費を賄い、増産と物流が品切れを防ぎ、買い上げ廃棄が鮮度を守った。複数の仕組みが同時に噛み合った総合戦であり、それゆえに1990年の失速は、単一ブランドと財テク収益に寄りかかる新しい危うさも映し出した。成熟市場で定番ブランドの地位を取りにいく発想は、約30年後の欧州・豪州での大型買収にも受け継がれており、この判断は今日のアサヒグループの原型をなしているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

シェア1割割れの瀬戸際——店頭から消えていく名門

朝日麦酒は1949年9月、過度経済力集中排除法による大日本麦酒の分割で発足した。戦前に国内の7割を握った巨大企業の承継会社でありながら、家庭用市場を固めたキリンビールとの差は開き続け、シェアは30年以上も下がり続けた。1982年に住友銀行から社長として送り込まれた村井勉氏は、就任の年に「後退に次ぐ後退を重ね、シェアも10%を割るかどうかの瀬戸際に立たされている」と語っている。村井氏自身が「ナイアガラの滝のように」と形容した下落であった[1][2]

シェア1割は存続の分かれ目を意味した。樋口廣太郎氏はのちに、シェアが10%を切ると東京の秋葉原でも大阪の日本橋でも、10軒のうち5〜6軒の店頭から商品が消えてしまうと振り返っている。実際に同氏が社長へ就いた1986年の時点で、東京都内でアサヒの商品を扱う店は47%にとどまっていた。棚に置かれなければ闘いようがない——低いシェアが店頭からの排除を招き、露出の低下がさらにシェアを削る悪循環のなかに同社はいた[3]

銀行出身トップの連投と「コク・キレ」の手応え

メインバンクの住友銀行は経営トップを相次いで送り込み、1982年に社長へ就いた村井勉氏はCI(コーポレート・アイデンティティー)の導入で社内の意識改革を進めた。1986年1月には住友銀行副頭取だった樋口廣太郎氏が顧問として入社し、同年3月に社長へ就任した。樋口社長は後年、村井氏が地ならしをして新しい商品が出るところへタイミングよく来たと述べ、村井氏がいなければ少なくとも1年半は遅れたと語っており、二人の継投が転換の土台となった[4][5]

反転の予兆は樋口社長の就任前夜に現れていた。1986年2月、同社は生ビールの味もラベルも一新し、「コク」と「キレ」を掲げた新製品を投入した。販売は上向き、この年のビール部門売上高は前年比12%増と、業界平均の3.9%増の3倍の伸びを示した。似たり寄ったりの味が続いた市場でも、味を変えれば消費者は動く——この手応えが、翌年のより大胆な一手を支える実証となった[6]

決断

「初めてお客さんが作って下さったビール」——辛口への全面転換

ビールは免許制に守られた寡占市場で、大手4社の味は似たり寄ったりであり、目隠しテストで銘柄が当たらないことに安心している面すらあった——樋口社長は業界の均質をこう見立て、全く新しい商品による中身の差別化へ踏み込んだ。技術陣には消費者の手助けに徹する役割を求め、12種類の試作ビールで試飲を重ねて味を絞り込んだ。こうして1987年3月、辛口の生ビール「アサヒスーパードライ」が発売された[7][8][9]

発売に確信があったわけではない。樋口社長は当時の心境を「自信はありませんでしたね。いいなと思っても、当たる当たらないは別ですからね」と振り返っている。同氏が拠り所としたのは、社長就任のあいさつ回りで、素人と見た業界の長老たちが授けてくれた「品質第一」と「フレッシュローテーション」の二つの原則であった。鮮度を守るため、流通に滞留した古いビールは値引き販売せず買い上げて廃棄する方針を採り、業界で初めてとされる決定に踏み切った[10][11]

金融収益を広告に注ぐ——「利益は経営者の責任だ」

賭けを支えたのは資金の工面であった。樋口社長は時価発行増資や転換社債、外債の発行で運用資産を積み増し、1987年12月期末の自己資本は前期比2.4倍の799億円、運用資産は783億円に達した。そこから生まれる金融収益を原資に、1987年の販売促進費は前年比125億円増の380億円、広告費は72億円増の190億円へ膨らませた。「利益は経営者の責任だ」と宣言し、利益の確保を経営側が引き受けたうえで、現場には思い切った攻めを促す構図であった[12]

読みを超えた売れ行きが、発売直後から次の判断を迫った。当初の年間販売計画は100万箱(1箱=大瓶20本分)であったが、夏場の最盛期を前にした6月末時点で既に300万箱を売り、計画は800万箱へ引き上げられた。首都圏の需要に応えるため東京工場をスーパードライの製造に全力で振り向け、他のビールはブロック外の工場からの輸送で賄った。1987年1〜6月のビール部門売上高は前年同期比25%増と業界平均の約8%増を3倍上回る伸びとなり、増産と物流の対応がヒットを息切れさせなかった[13][14]

結果

シェア急回復から45年ぶりの首位へ

シェアの回復は急であった。1987年の12.9%は1988年に20.6%、1989年には24.9%へ伸び、業界2位の地位を固めた。売上高も1986年12月期の2,593億円から1987年12月期に3,451億円、1988年12月期には5,448億円へ拡大した。他社が対抗のドライ商品を相次いで投入したことは、かえってドライという新市場を広げて先発のアサヒを利し、1989年のビール市場でドライが占めた3割のうちアサヒのシェアは73%に達していた[15][16]

快進撃は一過性に終わらなかった。1996年6月にはスーパードライが単月のトップブランドに立ち、1997年1月には課税数量でアサヒ1,030.1万ケース、キリン999.6万ケースと、会社としての月間シェアでも首位に立った。そして1998年、年間の国内ビールシェアでキリンビールを抜き、45年ぶりの首位奪取に至った。発売から11年をかけて、一本のビールが市場の勢力図を書き換えた[17][18]

独走の代償——薄い利益と単一ブランド依存

独走には代償も伴った。1990年5月、月間出荷の伸び率でアサヒは8%とキリンに並ばれ、「コク・キレ」発売以来続いた優位は50カ月ぶりに途切れた。第二の柱と期待した「イースト」は目標1,000万ケースに対し出荷実績300万ケースにとどまり、ドライに続く二の矢を欠いたまま成長は鈍化へ向かった。キリンが1990年3月に投入した「一番搾り」は発売2カ月で500万ケースを超え、スーパードライの初速を上回る勢いで反撃が始まっていた[19][20][21]

収益の裏付けも薄かった。1989年度の営業利益率は1.7%とキリンの3.2%の半分に近く、売上高6,551億円はキリンの5割強にとどまるのに、広告宣伝費は308億円とキリンを42億円上回った。1989年の営業利益111億円に対し金融黒字は108億円で、利益のほぼ半分を財テクが支えていた。1987年度以来の巨額設備投資による減価償却負担は250億円から翌年度350億円へ膨らむ見通しで、味の勝利の陰に、本業の利益体質という課題が残された[22][23]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏「ビールのためならカラオケ撲滅も断念」
  • 日経ビジネス 1986年6月23日号 新社長登場「樋口廣太郎氏(アサヒビール)」
  • 日経ビジネス 1987年7月20日号「アサヒビール ヒット支える攻めの物流」
  • 日経ビジネス 1988年2月15日号 編集長インタビュー 樋口廣太郎氏「シェアの壁はドライに破る 新商品で会社の味も変えました」
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号 特集「アサヒビール。奇蹟の後…3つの不安」
  • 日経ビジネス 1999年3月22日号 新社長登場「福地茂雄氏(アサヒビール)」
  • 週刊東洋経済 1997年3月1日号「アサヒビール 単月でシェアトップ ドライ効果に情報戦略の勝利」
  • アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
  • アサヒビール 社史『Asahi100』

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