森ビルアークヒルズへのサントリーホール・テレビ朝日の誘致と、住宅・ホテルを含む用途複合の採用

オフィスで埋めるか、収益を生まない文化施設を核に置くか——情報化ビルと国際金融センター構想

時期 1982年6月
意思決定者(推定) 森泰吉郎 社長
論点 まとめた街区に何を入れるか
概要
20年をかけて1街区にまとめた赤坂・六本木の敷地に、オフィスだけを積まず、住宅・ホテル・放送スタジオ・クラシック専用のコンサートホールを同居させた経営判断。森泰吉郎社長は電通を通じて相談を受けたサントリーホールを、文化性が高くアークヒルズにふさわしいと判断して迎え入れた。
背景
都市計画決定にこぎ着けた1979年10月の直後、森泰吉郎氏は心臓発作で倒れている。土地をまとめれば開発の9割は終わったと考えていたが、そこからは企画・設計と完成後の運営が重要だと考えを改めていた。折しも金融自由化で外資の東京進出が相次ぎ、その受け皿となる丸の内のオフィスは満杯であった。
内容
事務所棟に加えてホテル棟に全日空エンタプライズ、放送スタジオにテレビ朝日、コンサートホールにサントリーを迎え、住宅棟は外国人にも満足してもらえる水準の賃貸住宅とした。建物は情報化ビルを目指し、長男の森敬氏が説いた二重床・デジタルPBXなどを備えた。
含意
1985年8月にバンク・オブ・アメリカがアーク森ビルへの入居を決め、外資系金融機関の入居が続いた。決め手は複合開発の24時間都市という点であった。森ビルはその後オフィス単体の開発に見切りをつけ、複合施設開発を専門に手がける会社へ移っている。
筆者の見解

ふさわしいかどうかで決めた床

サントリーホールの入居を、森泰吉郎氏はクラシック専用で文化性が高くアークヒルズにふさわしいという理由で決めている。賃料でも稼働率でもなく、街区に似合うかどうかが基準であった。坪当たりの賃料と入居率で収支を組む賃貸ビル業から、この基準は出てこない。ところが1985年にバンク・オブ・アメリカが1160坪を借りた理由は、ホテルがあり、コンサートホールでアフターファイブを過ごせるという複合開発の性格であった。収益を生まない床が、最も賃料の取れる床を呼び込んだとみることができる。

ただ、思い描いた用途がすべて埋まったわけではない。商業施設は主な百貨店に一通り当たったものの、地下鉄の便が悪く乗ってくる相手はいなかったと本人が認めている。時機の助けも大きかった。着工時は情報化がこれからという時期で二重床やデジタルPBXを織り込むことができ、完成はバブルの入り口に当たって資材・建築費も高騰していない。同じ用途構成を数年ずらして置いて同じ結果になったとは言いがたい。情報化を説いた森敬氏は、完成を見届けて1992年春に先立っている。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

土地がまとまった後に残っていた仕事

1979年10月に都市計画決定にこぎ着けた直後の11月5日、森泰吉郎氏は心臓発作で倒れて入院した。一段落と思い、緊張の糸が切れた感覚であったと本人は回想している。その一段落は思い違いで、そこからが大変であったとも続く。以前は土地をまとめさえすれば開発の9割以上は終わったような気がしていたが、これからの街づくりには企画・設計と完成後の管理・運営が重要だと考えを改めていた[1][2]

用地をどうまとめたかは別稿に譲る。決まっていたのは骨格だけであった。1970年6月、霞が関ビルを手がけた建築家の郭茂林氏を中心に、森ビルの設計陣と建設省・都庁の担当者も加わって構想を検討し、単なる面開発ではなく街づくりそのものとして職住近接のテーマを確定している。六本木通りに面して超高層のオフィスビル、後ろ側に住宅棟という配置であった。1982年に市街地再開発組合の設立が認可され、翌1983年に権利変換計画の認可と着工が続く[3][4]

満杯の丸の内と、無かったホール

同じころ、東京のオフィス市場では受け皿が足りなくなっていた。金融の自由化が進み、金融機関を中心とする外資系企業の日本進出と東京事務所の開設・拡張の機運が高まる一方、外資が入りたがる丸の内のオフィスは満杯であった。米国最大手の一つであったバンク・オブ・アメリカは大手町や丸の内に5カ所も分散して事務所を持ち、開設の届けを大蔵省へ出す際にはいずれ統合すると述べていた[5][6]

音楽の側にも空きがあった。サントリーは1969年に鳥井音楽財団を設立していたが、財団の指導的立場にあった芥川也寸志氏は佐治敬三氏に対し、いま東京で求められているのは本格的なコンサート専用のホールであり、唯一の上野の文化会館もコンサート専用ではなく不満が多いと述べていた。ホールを造らないかという打診はその時点では幻の計画にとどまり、佐治氏の側から具体化する道筋は見えていなかった[7][8]

決断

賃料で選ばなかった床

コンサートホールの話は電通を通じて持ち込まれた。森泰吉郎氏はクラシック専用で文化性が高くアークヒルズにふさわしいと判断し、サントリーに入ってもらったと書いている。判断の言葉に賃料は出てこない。放送局も同じで、複合都市という点からテレビ朝日の入居が決まったのはよかったと振り返る。内幸町の第三森ビルにNHKが入って街が活性化した経験が下敷きにあった。ホテル棟には全日空エンタプライズが入る一方、ショッピングセンターに誘った百貨店は地下鉄の便の悪さから応じなかった[9][10][11]

迎えられた側にも算段があった。佐治敬三氏は何カ月かの熟考を経て、都心中の都心の一等地にコンサートホールを造る機会はまたとないと考え、年間の費用が宣伝費の数パーセントの範囲に収まると計算したうえで、1982年6月にゴーのサインを出している。設計は高校時代からの親友である安井建築設計事務所会長の佐野正一氏に託され、カラヤン氏の助言に従って客席とステージの距離を縮める葡萄畑型が採られた。文化施設は森ビルの単独負担ではなく、相手側の宣伝費の枠内で成立していた[12][13]

情報化ビルと、国際金融センター構想

建物そのものには情報化を掛けた。ビルの管理、テナントの情報・通信、OA化の要求に応えられる設備と構造にするという考えで、1983年、1984年ごろに米国から入ってきた言葉であった。最も熱心に説いたのは長男で慶応大教授の森敬氏で、1973年ころから、これからのビルはコンピューター管理をしなくてはいけないと設計担当者にうるさがられるほど繰り返していた。天井を高くし二重床とし、共同利用のデジタルPBXとテレビ会議室を設けている[14][15]

誘致の目標も引き上げた。森泰吉郎氏はアークヒルズを新しい国際金融センターに仕立てようと考え、米国最大手の一つであったバンク・オブ・アメリカを核に据えようとした。1985年初めに事務所を探しているという情報が仲介業者から入り、その年の4月から働きかけを始める。通常のオフィス入居交渉は2カ月のところ、担当者は十数回も先方の事務所を訪ねた。同行が1160坪を借りると決めたのは8月であった。それだけアークはまだ知られていなかったと本人は書いている[16][17]

結果

11万坪の街区に集まったもの

1986年7月、住宅棟のオープンでアークヒルズが完成した。事務所棟のアーク森ビル、ホテル、住宅棟、スタジオ棟、サントリーホールを合わせた延べ床面積は11万坪、約37万平方メートルで、民間の都心部再開発としては最大規模であった。着工時は情報化ビルの普及がこれからという時期でその考えを生かすことができ、資材・建築費も高騰していない。完成時はバブル期の入り口に当たり、入居率は100%、賃貸料も丸の内・大手町並みの最高水準を設定できた[18][19]

バンク・オブ・アメリカが入居を決めた理由について、森泰吉郎氏は複合開発の24時間都市という点が大きかったと説明している。ホテルがあるから海外からの出張者も泊まれ、コンサートホールでアフターファイブも楽しめる。ディーリングルームの設備も1フロア900坪の空間も用意できた。同行が決まると並行して交渉していた外資系金融機関も次々に入居を決め、完成時には全30テナントのうち11テナント・1万坪が金融関係となり、最大のテナントは日本アイ・ビー・エムの4500坪であった[20][21]

単体開発からの離脱と、その後のヒルズ

用途の複合は一棟の成功にとどまらなかった。1990年時点で森ビルはオフィスビル単体の開発に見切りをつけ、住宅・文化施設を併設する複合施設開発を専門に手がける方向へ動いており、その原型は1986年に完成したアークヒルズだと同時代の誌面は書いている。森泰吉郎氏は、街づくりに貢献できるビルを建てるという務めは変わらないとしたうえで、いま求められているのは近代的な複合施設を建設し街の景観そのものを良くしていく事業だと語った[22][23]

外資の集積はその後も続いた。1999年時点でアーク森ビルの事務所全体に占める外資の比率は51%、うち69%が金融機関であり、赤坂・六本木・虎ノ門は新興金融街と呼ばれるようになる。森泰吉郎氏はアークヒルズを境に森ビルという企業が大きく変わり脱皮したと述べており、森ビル自身も後年、アークヒルズをヒルズの原点と位置づけ、六本木ヒルズ・表参道ヒルズ・虎ノ門ヒルズなどの大規模複合再開発に受け継がれたと説明している[24][25]

出典・参考

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