森ビル単独ビルの建設から市街地再開発事業への転換と、アークヒルズの竣工

20年の用地買収に耐えるか、点のビルを積み増すか——民間デベロッパー活用第1号の道筋

時期 1971年2月
意思決定者(推定) 森泰吉郎 社長
論点 事業の単位を1棟から街区へ変えること
概要
1971年に東京都が赤坂・六本木地区の再開発へ動き、森ビルが都市再開発法による民間デベロッパー活用の第1号として事業を担った経営判断。土地をまとめるのに16年、1986年3月のアークヒルズ竣工までに計20年を要し、1棟単位の賃貸ビル業から街区単位の再開発事業へ事業の輪郭を変えた。
背景
森ビルは虎ノ門の狭い地域に40棟を積み上げてきたが、その手法は1棟ずつの用地買収に依存していた。1971年2月11日付の日本経済新聞が、東京都が職住近接のモデルとして赤坂地区の再開発に乗り出すと報じ、新宿副都心計画以来の規模の事業に民間が起用された。
内容
対象は米国大使館付近の8万平方メートル余りで、超高層のオフィスビル、ホテル、マンションを建てる計画であった。用地買収では値段で押さず、ビルの建設によって生まれる付加価値を地権者と公平に分け合う手順をとり、最終的に敷地の4分の3を森ビルが取得した。
含意
竣工した1986年から4年後、森ビルは本社をアーク森ビルへ移した。一方で投資規模は体力を超え、森章社長は後年「ウチの体力から見て、投資額が1000億円多かった」と反省を語っている。
筆者の見解

急がないという原則が背負ったもの

「決して急がないこと。それが土地買収のコツだ」という原則は、1棟のビルであれば10年の交渉として現れた。街区を相手にした赤坂では、それが土地をまとめるのに16年、竣工まで20年という時間に変わった。1971年の報道時点で翌年の着工が見込まれていた事業が、実際には1986年までかかっている。地権者と付加価値を分け合う方法を選ぶとは、その間の資金を抱え続けると決めることでもあった。急がない交渉の裏側には、急げない資金繰りが並走していたとみることができる。

もっとも、この規模が会社の体力に見合っていたかは別の問題である。森章社長は後年、アークヒルズについて「ウチの体力から見て、投資額が1000億円多かった」と述べている。投資額を決める基準にしていた賃料がバブル経済期に上がり、投資余力が増したと見誤ったためであった。事業を支えていたのは土地の含みであり、その含みが1990年代に消えたとき、同じ手順で次の街区を開くことはできなくなった。20年をかけた成功が、次の20年の制約に変わっている。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

1棟単位の限界と、都市再開発法

森ビルの手法は、虎ノ門の狭い地域で土地を1区画ずつ買い進めることに支えられていた。ビル業の業務は土地の買収、建設、入居者の募集、家賃の徴収、建物の保安や管理から成り、資金と時間の大半は用地確保に向けられる。1971年に竣工した第20森ビルは、10年越しの買収交渉を続けた末のものであった。1棟でこの年数を要する以上、街区をまとめて扱うには別の枠組みが要る[1][2]

1971年2月11日付の日本経済新聞に、東京都が職住近接のモデルとして赤坂地区の再開発に乗り出すという記事が載った。都市再開発法による民間デベロッパー活用の第1号であり、新宿副都心計画以来の規模の事業である。計画では米国大使館付近の8万平方メートル余りに超高層のオフィスビル、ホテル、マンションが建ち並ぶ。この事業を担ったのが、資本金10億円・従業員250名の森ビルであった[3][4]

決断

急がない買収という方法

面の開発で最初に問われるのは、多数の地権者をどう束ねるかであった。泰吉郎氏は値段で押す交渉を避けている。不動産は他の商品と違って場所に対する独占であり、親代々の執着もあるから、値段で押そうとすると失敗するという見立てであった。相手の利害関係をよく考え、ビルの建設によって生まれる付加価値を公平に分け合う。この面で言行を一致させるのは至難だとも本人は認めていた[5]

もう一つの原則が、急がないことであった。「決して急がないこと。それが土地買収のコツだ」と泰吉郎氏は語っている。15年以上ビル経営を手がけた実感から出た言葉であり、共同ビル形式や、他の土地にビルを建てて交換する方式も併せて用いた。交換用ビルはこの時点で20棟余りに達している。買収を急がない代わりに、交渉の時間そのものを事業計画へ織り込む方式をとった[6][7]

結果

20年後の竣工と、投資規模の代償

アークヒルズが竣工したのは1986年3月であった。1971年の報道時点では翌年の着工が見込まれていたが、土地をまとめるのに16年、着手から竣工までに計20年の歳月を要している。事務所棟、ホテル棟、住宅棟、コンサートホール棟、スタジオ棟が一体で建ち、森ビルは1990年4月に本社をアーク森ビルへ移した。虎ノ門で1棟ずつ積み上げてきた会社が、街区を単位に事業を組む会社へ変わった[8][9]

一方で、投じた資金は会社の規模を超えていた。森ビル商事の吉田実常務は再開発には体力が必要だと述べ、その体力は土地の含みが裏づけになっていたと森章社長も認めている。土地をまとめて利用価値を最大限に高める手法は、十分な収益を生む規模まで土地を集め、他の地権者と組合を設立して共同事業として進めるものであった。含み資産の裏づけが失われれば、同じ規模の事業は組み立てられない[10][11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1971年5月3日号「赤坂に再開発のオノふるう民間デベロッパー 森ビル」
  • 日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」
  • 森ビル 有価証券報告書【沿革】

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