大阪ガスブルネイLNGの導入と全供給エリアの天然ガス転換
石油系ガスの供給網を、15年かけて全需要家の機器ごと天然ガスへ切り替えるか——関西の都市ガスの原料転換をめぐる選択
- 概要
- 大阪ガスは1968年に東京電力・東京ガスと共同でブルネイLNGの導入を決め、1972年に泉北製造所で受入を始めた。1975年5月からは石油系ガスから天然ガスへの熱量変更に着手し、近畿2府4県の供給エリアを地区ごとに切り替え、全需要家のガス機器を交換する工事を進めた。約15年をかけ、1990年12月に全エリアの天然ガス転換を完了した。
- 背景
- 高度成長期にガス需要が急増する一方、大気汚染が社会問題となり、公益事業には硫黄分の少ないエネルギーへの切り替えが求められた。硫黄酸化物をほとんど含まず発熱量も高い天然ガスは、この要請にこたえる原料であり、大阪ガスは石油系を中心とする原料からの転換を1970年代初頭に構想した。
- 内容
- 1968年に3社共同でブルネイLNGの導入を決定し、ブルネイ政府・シェルとLNG製造会社を設立。1971年に泉北製造所第一工場が稼働し、1972年12月にタンカー「ガディニア号」が到着した。1975年5月から熱量変更に着手し、地区別の切替と機器交換を並行して進め、1990年12月に完了した。
- 含意
- 海外からのLNG調達・国内基地での気化・需要家機器という三つを一つの流れにつなぎ、事業の骨格を作り替えた。半面、原料を海外のLNG長期契約に固定したことで、その後の収益が輸入価格の変動に左右される構造もあわせて残した。
供給の質と、収益の変動をどこに置くか
この15年を、環境対応のための設備更新という言葉でくくるのは、事業の性格を見誤らせる。天然ガスへの転換は、原料と製造設備を替えるだけでなく、近畿2府4県に散らばる膨大な数の需要家のガス機器を一台ずつ作り替える、後戻りのできない一斉工事であった。供給を止めず、事故も起こさずにそれを1975年から1990年まで15年かけてやり切ったところに、公益事業としての大阪ガスの構えがあらわれているとみることができる。
もっとも、天然ガスへの転換は、原料を海外のLNGに委ねる体質を同時に固定した。長期契約は安定供給を約束する一方で、輸入価格が上がれば利益が圧迫される構造を残し、後年の大阪ガスは料金規制のもとでこの重さと向き合い続けることになる。原料を替えるという判断は、供給の質を高めると同時に、収益の変動要因をどこに置くかという課題を経営に残した。転換の成否は、作り替えた事業構造をその後どう使いこなすかに、なお委ねられていたとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
大気汚染とガス需要が迫った原料の見直し
1970年代初頭の大阪ガスは、石油系を中心とする原料からつくる都市ガスを近畿2府4県へ供給していた。高度成長期にガス需要は急増し、同時に大気汚染が深刻な社会問題となって、公益事業には硫黄分の少ないエネルギーへの切り替えが求められていた。硫黄酸化物をほとんど含まず発熱量も高い天然ガスは、この二つの要請に同時にこたえる原料であり、大阪ガスは原料を天然ガスへ移す構想を1970年代初頭に固めていった[1]。
天然ガスは液化して初めて船で運べる。マイナス162度まで冷やした液化天然ガス(LNG)を専用タンカーと受入基地で扱う仕組みは、20〜25年におよぶ長期契約で原料を確保することを前提とする重い枠組みであった。1963年にブルネイ沖で大規模なガス田が見つかり、シェルグループがその開発と対日輸出を進めたことが、関西の都市ガスに新しい原料供給ラインの可能性をひらいていった[2]。
決断
三社共同のLNG導入と泉北基地
1968年、大阪ガスは東京電力・東京ガスとともにブルネイLNGの導入を決めた。同年にはブルネイ政府・シェルと共同でLNG製造会社ブルネイLNGが設立され、三社の共同購入という枠組みが固まった。国内では1971年10月に泉北製造所第一工場が稼働してLNG受入体制が整い、1972年12月には最初のLNGが泉北へ届いた。東京ガスの1969年に続く、国内2番目の都市ガス会社によるLNG導入であった[3][4]。
泉北へ入った第一船は、ブルネイからの長い航海を経て届いた。全長257メートル・搭載能力3万3000トンのタンカー「ガディニア号」が1972年12月15日に泉北製造所へ錨をおろし、これが大阪ガスの受け入れた最初のLNGとなった。タンカー・受入基地・気化設備・パイプラインという一連の巨大設備への先行投資を前提とする、後戻りのしにくい原料調達の枠組みが、ここで実際に動き始めた[5]。
全需要家の機器を替える熱量変更
原料をLNGに換えても、そのままでは各家庭のガス機器は使えない。石油系ガスと天然ガスでは発熱量が異なり、コンロや給湯器を一台ずつ天然ガス対応へ調整・交換する必要があった。大阪ガスは1975年5月に熱量変更に着手し、近畿2府4県の供給エリアを地区ごとに区切って順に切り替えていった。膨大な数の需要家を巻き込む作業は、原料の切り替えというより、供給網と使う側の設備を丸ごと作り替える大工事であった[6]。
この方式は、供給を止めずに進めなければならないところに難しさがあった。地区ごとに切替の日程を組み、事前に各戸の機器を点検・調整し、切替の当日に一斉に天然ガスへ移す。作業が地区を追って広がるあいだ、大阪ガスは石油系ガスと天然ガスの二つの供給を並行して抱えることになり、原料・製造・需要家機器の三つを段階的に整合させながら十数年がかりで進める設計であった[7]。
結果
受入能力の増強と15年での完遂
転換は受入能力の増強と並行して進んだ。1977年に泉北製造所第二工場、1984年には関西電力と共同で姫路基地を稼働させ、関西圏西部への供給力も高めた。地区別の切替と機器交換を積み上げ、1990年12月に全供給エリアの天然ガス転換が完了した。1975年の着手から約15年を要したこの事業は、大きな事故を起こさずに完遂され、硫黄酸化物や窒素酸化物の排出削減と供給効率の向上をもたらした[8][9]。
同じ熱量変更を、東京ガスは1972年から1988年まで約16年かけて進めており、供給エリア全体の一斉転換がいかに息の長い事業かがうかがえる。大阪ガスはこの15年で、海外からのLNG調達・国内基地での気化・需要家機器の三つを一つの流れにつなぎ、事業の骨格を作り替えた。半面、原料を海外のLNG長期契約に固定したことは、その後の経営が輸入価格の変動と向き合い続ける収益構造をあわせて残した[10][11]。