日本初の乗用車専門工場・元町工場の建設と量産体制への転換

需要が定まらぬうちに供給の器を先に築く——トラック専業のトヨタは、乗用車量産への転換をどこで決めたか

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時期 1959年8月
意思決定者 石田退三 社長
論点 生産体制と乗用車量産
概要
1959年、トヨタ自動車工業が石田退三社長の主導で、旧東海飛行機の挙母工場跡地に総工費約23億円を投じ、日本初の乗用車専門工場として元町工場を建設した経営判断。トラックを量の主体としてきた生産の重心を乗用車量産へ移す転換点となった。
背景
1955年発売の初代クラウンで乗用車市場に参入したものの、当時の需要は富裕層やタクシー事業者が中心で月産5000台規模にすぎなかった。1956年以降の需要増で本社の挙母工場は手狭となり、乗用車の量産に特化した新工場が必要になっていた。
内容
1958年7月に豊田章一郎取締役を委員長とする建設委員会を設け、設備は月産5000台としつつ建屋は月産1万台に対応させた。着工から11か月で竣工し、1959年8月8日に第1号車クラウンがラインオフ。同年12月に月産1万台を実現した。
含意
需要の確証がない段階で供給能力を先に用意する姿勢は、上郷・高岡の専門工場連鎖へ広がった。豊田英二氏はこの投資を「イチかバチかの賭け」と振り返っており、後年のトヨタの量産思想の原型となった。
筆者の見解

需要を待たず、量産の器を先に用意する

この決断の核心は、需要が確証される前に量産の器を先に築いた点にある。1959年の乗用車はなお富裕層やタクシーのものであり、月産1万台に対応する専門工場は明らかに需要を先取りした賭けであった。設備は月産5000台に抑えながら建屋だけを1万台に構えた設計は、読み違えの痛手を抑えつつ拡張余地を残す、周到な賭け方でもあった。石田退三社長が式辞で「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」と述べたのは、台数の膨張そのものではなく、量産を通じて品質と内容を練り上げる思想の表明であり、のちのトヨタの生産思想に通じる問題意識がうかがえる。

元町を起点とする専門工場の連鎖——上郷のエンジン、高岡のカローラ——は、1工場1車種の集中によって原価を下げ、供給力と価格競争力を同時に確保する型を生んだ。需要に先んじて設備を用意するこの姿勢は、読みが外れれば過剰投資に転じる危うさと背中合わせでもある。豊田英二氏が「イチかバチかの賭け」と呼んだこの投資は、当たったからこそ後年に価値ある決断と評された。確証のない需要に対してどれだけの器を先に用意するか——設備投資の規模と速度をめぐるこの問いは、電動化と生産再編に揺れる今日のトヨタにも、形を変えて残り続けている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

トラックを量の主体とした戦後の再建と乗用車参入

戦後のトヨタは、1950年の経営危機で製販を分離し、外部借入に頼らない自己資金中心の財務体質を志向していた。量の主体はトラックであり、乗用車は事業の柱とはなお言いがたかった。1955年に初代クラウンを発売して乗用車市場に本格参入したものの、当時の乗用車需要は富裕層やタクシー事業者が中心で、月産5000台規模にすぎなかった。乗用車を量産事業として成り立たせるには、需要そのものがまだ細かった[1]

「国民車専門工場」から乗用車専門工場への練り直し

当初トヨタが構想したのは、大衆に広く行き渡らせる「国民車」の専門工場であった。ところがトヨタ自動車販売を通じた需要調査で、年所得100万円を超えるのは25万人、そのうち購入を見込めるのは3割以下と判明する。予想外に需要が細いと知ったトヨタは、当面は売れ行き好調なクラウンとモデルチェンジを控えたコロナの量産へ照準を移し、両車の組立てを主体とする乗用車専門工場の計画へと構想を発展させた[2]

背景には、生産能力そのものの逼迫があった。1956年以降の旺盛な需要に応えるには月産1万台体制の確立が必要だったが、トラックと乗用車が混在する本社の挙母工場はすでに手狭であった。コロナの内製化に伴うボデー・塗装・総組立の各工程を増強する場所も足りない。乗用車の量産を一つの拠点に切り出して専門化する必要が、設備の側から迫っていた[3]

決断

旧東海飛行機跡地への「日本初の乗用車専門工場」

用地には、挙母工場の北西にある旧東海飛行機挙母工場跡の国有地が充てられた。1958年7月に払下げが許可され、隣接農地の転用と国有地の払下げを重ねて、翌1959年3月までに第1次用地として約10万坪を確保する。折しも挙母市は1959年1月1日に「豊田市」へ改称し、工場誘致に力を注いでいた。石田退三社長は、この跡地に総工費約23億円を投じ、日本初の乗用車専門工場として元町工場を建設した。着工からわずか11か月で竣工し、建屋は当時の需要を大きく上回る月産1万台に対応する設計とした[4]

建設は1958年7月に発足した建設委員会が担い、委員長には豊田章一郎取締役が就いた。第1期計画では生産車種をクラウンと新型コロナとし、設備の能力は月産5000台に据えながら、建屋だけは月産1万台に対応させ、5年後には月産5万台まで拡張できる余地を残した。1958年9月に地鎮祭を行い、夜を徹した突貫工事の末に1959年7月末に完成、8月8日には第1号車のクラウンがラインオフして稼働を始めた。設備は控えめに、器は大きく——需要の先行きに幅を持たせた設計であった[5]

石田退三社長の式辞と「イチかバチかの賭け」

1959年9月18日から19日にかけての完成式典では、創業以来の生産累計50万台目となるクラウン・デラックスのラインオフ式が合わせて行われた。式辞で石田退三社長は、乗用車専門工場は前社長・豊田喜一郎氏が生前から抱き続けた念願であり、その設計を長男の豊田章一郎氏に一任したと述べた。そのうえで元町を「2割程度の完成」と位置づけ、「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」への拡大を掲げた。規模だけでなく、量産を通じて内容を高める構えを、竣工の時点ですでに言葉にしていた[6]

この決断を主導したのが石田退三社長であったことは、豊田英二氏の回想からもうかがえる。英二氏は内心では月産1万台の工場を望みながらも、クラウンの月販2000台という実績を前に月産5000台を提案したと述べ、設備は月産5000台としながら建屋だけは1万台のものを建てたと振り返る。そのうえで「新工場の建設は石田さんが決断した」「今から見ても価値ある決断だった」と評し、元町の建設を「極端な言い方をすればイチかバチかの賭けだった」と総括している[7]

結果

専門工場の連鎖とモータリゼーションの本格化

元町は、生産の重心を乗用車へ移す起点となった。稼働の年、1959年12月には月産1万453台を実現して当初目標を達成する。日産の追浜工場やいすゞの藤沢工場が数年遅れの1962年に完成した頃、元町はすでに第2期工事も終えており、乗用車量産で先行する構図が生まれた。本社工場をトラック、元町を乗用車と専門化して拡大を図る構想のもと、需要の確証がない段階で供給能力を先に用意する姿勢は、カローラが本格化させるモータリゼーションを先取りするかたちで定まっていった[8]

エンジン専門工場という発想そのものが、元町で敷いた専門化の延長線上にあった。トヨタは1961年に月産5万台計画を立てた時点で、本社と元町の二工場だけではやがて能力の限界に達すると見通し、両工場とは別に一貫生産のエンジン専門工場を設ける構想を温めていた。上郷、そして高岡へと連なる専門工場の建て継ぎは、需要の拡大を待って設備を追うのではなく、拡大を見越して器を先に積み増す考え方に貫かれていた[9]

出典・参考
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
  • トヨタ自動車75年史「乗用車専門工場―元町工場の建設」(https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section1/item1.html)
  • ダイヤモンド会社産業総覧(1964年版)